読んだ本
権力のペンタゴン 機械の神話 第2部
ルイス・マンフォード
生田勉、木原武一訳
河出書房新社
1973.09

 

ひとこと感想

マンフォードの本の中では本書が最も刺激的だ。第一に、中世の地域ごとの技術文化を高く評価していること、第二に、メガマシンというシステムが古代ピラミッドにおいても、現代の原爆においても活用されていること、この二点を事細かに説明しているからである。

 

***

 

マンフォードは「機械の神話」という書物を、当初は1巻本で計画していた。本書はその「第二部」という位置づけがなされているとともに、「技術と文明」(1934年)からは、第4巻目という説明もある。

 

いずれにせよ本書は、彼の仕事の集大成的な意味をもつものであり、現代社会における「メガマシン」の説明が展開されており、非常に興味深かった。

 

彼の仕事は「技術(文明)史」というまとめ方が可能であるかもしれないが、これでは彼の独創性(自由さ、闊達さ)がうまく表現できない。

 

実際彼の仕事は専門分野の内部においてよりも外部において大きなインパクトを与えてきた。研究者のあいだではあまりその内容を真剣に検討したり継承しようとした形跡がみられない。

 

本書では15世紀頃から大きく動き出した近現代社会に圧倒的な影響力を及ぼした「科学技術」の萌芽からその行き着いた先(1970年)までを概観している。

 

その際に対比されるのは中世における技術の豊さである。

 

一般的に西洋史においては中世は「暗黒」の時代としてしばしばみなされるが、各地域の文化が育まれたのは中世であった。

 

むしろ中世においてそれぞれ生成した「生活技術(多技術)」が近代以前においてすでに各地で花開いていたのである。

 

「技術的改良とはもっぱら自動性をましつつあった動力駆動の機械のことであるとする19世紀の一般の習わしのために12世紀から18世紀のあいだ適切な容器の製作によって実際になされてきた多くの改良が低く評価されることになった」(199ページ)

 

つまりマンフォードもデカルトやF・ベーコンらによる思考的転換を技術史においても重要視しているが、同時に、現実的な大きな転換ポイントはもっと後の19世紀以降にみている。

 

これを一言でまとめるなら、「機械(化)」ということになる。機械化によって「単技術が多技術にとって代わった」(212ページ)のである。

 

ただしこれもなかなか単純ではなく、近代(初期)はむしろ手仕事機械がうまくバランスがとれていたというべきなのかもしれない。

 

ではこの変化をもたらした原因は何か。自然の征服こそ人間の最大の営みであるという幻想、を第一に挙げている。

 

より速く、より遠くへ、より大きく、よりたくさん、を求めるものである。

 

まとめて言えば、機械化に加えて大量生産様式という前提である。また「オートメーション」(自動化)でもある。

 

さて、ここで別の本というか、別の思想との対比をしてみたい。

 

吉本隆明の科学技術に対する絶対的な信頼である。これを彼の思想の固有性と強固性、持続的同一性とみなす人もいるが、私はこの点について、最大の疑問点を投げかけたい。

 

どうして人はこういした流れに逆らうことができない、という絶対的確信を吉本は抱くのだろうか。

 

これこそ、丸山眞男の近代的進歩主義と同じではないか。

 

それを「人間」や「歴史」「科学」の前提のもとに語ることにどれほどの揺るぎなさがあるというのだろうか。

 

私はこの点に大いに疑問を投げかけたい。

 

マンフォードは書いている。「このような技術的段階を受け入れるということが完全に不条理なこと(略)であるのを示すにはごくかんたんな方法がある。つまり、フォン・ノイマンのことばをその論理的極限までつきつめてみることである。もし人間に地球上のあらゆる生命を抹殺するだけの力があれば、人間はそうするであろう。合衆国政府とソヴエト・ロシア政府はすでに、人類を抹殺するに必要なだけの量の核・化学・生物兵器を保有していることをわれわれは知っている。このようなとき、もしも途方もない非人間的な技術の命令の屈服が「さからいようもなく」その最終段階まで行われるとしたら、人間の生存にはいったいどんな見込みがあるだろうか」(255ページ)

 

言うなればそれは「進歩」信仰である。これに対してマンフォードは「進化」とは「進歩」とは異なり、もっと全体性や有機性をもつものだ、とする。

 

この点が本質的な争点になるのは、とりわけ「核」をめぐる議論である。特に第9章「権力の核化」第10章「新しいメガマシン」第11章「巨大技術の荒野」で論じられている。

 

***

 

あらためて読んでみると、際立っているのは、射程の長さである。

 

マンフォードは原爆(ほか、原子エネルギーの利用)を「新しい普遍的な太陽神宗教」(328ページ)と呼ぶ。、

 

しかも古代エジプトのピラミッド造営との相似性を指摘し、いずれも「メガマシン」とみなしている。

 

もっと言えばマンフォードは単に「原爆」(や原子エネルギーの利用)だけを現代のメガマシンとは考えていない。

 

「メガマシンの現代的形態における復活の中心的出来事である核エネルギーの解放」(351ページ)を主導したのは、非常に「良心的」な物理学者だった。

 

「原子爆弾の創始者についていえば、少なくともその初期の段階で、自分だけの努力の恐るべき最終的結果を見通せなかったのは彼らの無知による」(352ページ)

 

マンフォードは原爆のみならなず「「人口密集地帯の非戦闘員にたいする徹底的な無差別爆撃」(353ページをヒトラーらが強制収容所で起こしたことと同様のものとみなしているのである。

 

一方でマンフォードはSF作品や、どちらかというと各業界から「アウト」している人を多く参照している。

 

H・G・ウェールズ、オーダス・ハクスレー、ジョージ・オーウェル、バックミンスター・フラー、ティヤール・ド・シャルダン、マーシャル・マクルーハン、アーサー・クラーク、ヘンリー・アダムズなど。

 

なお、「権力のペンタゴン」の「ペンタゴン」とは、

・Power

・Politics

・Productivity

・Profit

・Publicity

の複合体である。

 

この「権力複合体(体系)」が「メガマシン」である。それゆえメガマシンは単に見えている原爆やピラミッドを指すというよりもそれらを実現する、支えている「見えないシステム(場合によってはそれを支える宗教や信仰、信念)を意味するのである。