読んだ本
風土の経済学 西欧モデルを超えて 増補新版
玉城哲
新評論
1984.07

 

著者は1928年生まれ。1983年死去。東京農業大学農学部農学科を卒業。1974年より専修大経済学部教授。風土、水をキーワードにした農業経済学。
 

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「水」という非常に身近な「モノ」(英語の場合「stuff」とでも言えばよいのだろうか)はしかしながら、元来「聖性」の源泉であった。水はその後、「俗化」した。

 

日本においては、水田稲作と水の聖性は切っても切れない関係があった。また水をめぐる複雑な闘争は近世において「ムラ」の閉鎖性と近隣区域への敵対を生んだ。

 

「過剰に農業開発がすすみ、土地を水という基本的な資源があまりにも稀少化してしまった状況にかれた村むらでは、相互に対立しあう存在となったのである。」(10ページ)

 

これは、ウィットフォーゲルやテーケイらがマルクスより敷衍して描いたアジア的生産様式に基づいた農耕経済とは少し趣を異にしている。、ムラごとに「集団」の運命共同体の性格は強い一方で、必ずしも経済としては閉じておらず、重商主義的性格を帯びていたと、玉城はみなす。とりわけそれは西国において顕著だった。

 

「日本の水は、集団主義的なであるとともに排他的である人間をつくりだしたが、同時に合理主義的精神を養う条件としても作用した。」(13ページ)

 

また、日本列島において稲作とそれを可能にした水土は、焼き畑のような資源収奪性が強くなかった。山、川、水田は基本的に「保全」的なのである。

 

最初から「農業」と言えば何でも「環境保全」と思い込んでしまう私たちには、あらためて「農業」の多様性を再確認するものである。

 

加えて、「アジア灌漑農業」の特異性についても言及がある。

 

「土地の占取と同様に水の占取なしには、農業生産が行われない」(66ページ)のである。この「水の占取」については個々人はいかんともしがたく、避けがたく「国家」の支配を受け入れざるを得ない。おそらくアジア圏における官僚主義(ビューロクラシー)や、公共投資(事業)の重視といった慣習は、こうしたインフラの条件に大きく依拠しているに違いない。

 

「アジア的生産様式」について、たとえば吉本隆明が「アジア的」にこだわり「試行」に連載していた「心的現象論」で数回にわたって検証したことが思い起こされる。

 

私が理解したかぎりでは吉本はヘーゲルの歴史観をそのまま読みこみ、説明していたと記憶する。だが玉城はこの「灌漑農業」の実態と分析をを全面に押し出すことによって、これおを単なる「技術」とみなさず、発展段階の一つのステップともみなさず、「風土」がもたらした決定的条件(特殊性)と考える。

 

「水土」「水利」――水こそ、重要なのだ。

 

「共同体ともいえる集団的な水利権によって媒介される水田の私的所有は、それ自体純粋な私有財産であるとみえながら同時に、集団の所有もあるという性格をかくしていた」(128ページ)

 

柳田國男もまたこうした水利に深い関心を寄せていたようで、「農業用水に就いて」と「農村生活と水」という論考が残されている。

 

 

目次

水と日本人

玉城理論に学ぶ 増補版への解説にかえて (中村尚司)

I 灌漑農業の経済理論

 1 アジア灌漑農業の風土と経済進歩

 2 比較灌漑農業論の方法

 3 日本灌漑農業の展開

 4 日本灌漑農業の課題

II 土地所有と国家 経済と風土

 1 資本と土地所有

 2 鳥資本の経済理論

 3 国家と土地投資

 4 土地所有と国家

 5 国土と国家