地方創生の正体 なぜ地域政策は失敗するのか
山下祐介、金井利之
ちくま新書
2015.10
ひとこと感想
東日本大震災と原発事故のあとの「復興」そしてその後の「地方創生」に対する批判書。厳しい時代だ。
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私たちにとっては、都市・地域・環境社会学(山下)と都市行政学(金井)の違いがよく分からないが、要するに、社会学と政治学の違いなのであろう。
本書のテーマは「地方創生」や「震災復興」を素材とした「地域社会の統治構造」と書かれている。
「地方創生」は2014年8月頃第二次安倍政権が言い出したこと、「震災復興」は2011年3月以降に民主党政権においてはじまったこと、そして、「統治構造」とは「国/自治体/市民」の関係性ということである。
「はじめに」で述べられている、驚くべきことは、こうである。
「震災や原発事故から時間が経過するにつれて、津波被災地においても、原発被災地においても、「被災者の復興」に向かわず、むしろ震災前まで暮らしていた人たちを排除する方向で「復興」が進みつつある」(8ページ)
しかもこれが「震災復興」に加えて「地方創生」という「国の政策」が後押しをし「それぞれの地域社会で奮闘する人たちの活動を妨げ、地域社会における市民生活の維持をかえってこんなにさせようとしている」(8ページ)という。
…とここまで読んでいきなり、この「はじめに」の文章が、二人の著者いずれかもしくは両方ではなく、「自治体再建研究会」という名のもとに書かれていることに気づく。
とはいえ、これはすなわち山下と金井の二人の文章ということになるのであろう。
「自治体再建研究会」は在野の研究会で、青山彰久、荒見玲子、市村高志、今井照、佐藤彰彦、高木竜輔ほか。
なお、こうした「自治体」が置かれている「岐路」は、いわば、「日本」の「岐路」としても理解されている。
山下は言う。
「このままでは日本という国がとんでもない方向へと行き着くのではないか」(14ページ)
「地域政策のどれもが明らかに失敗に向かっています」(15ページ)
こうした山下の懸念がどこから発しているかというと、近代日本のこれまでのやり方がみな同じで、国が方針を決めると各自治体や人はそれに素直に従うばかりで、そもそも自分たちが何を求めているのか、何が得られるのか、ほとんど考えなしに進んできたのではないか、という考えによっている。
ところで「地方創生」とは何か。
人口と仕事を増やすことである。
だが、仕事はさておき人口は、国全体としては明らかに減少することが知られている。
自治体によって「増えた」「減った」は分かれるが、全体的には、「減った」方が多いに決まっているなか、「増えた」と言える自治体を増やそうという、かなり無謀なことを述べている。
「自治体にとって必要なのは、自分の頭で考えて、国の定めた「地方創生」という土俵に上がらないことなのです」(金井、23ページ)
金井はこのこと自体が間違っている、と言いたいようであるが、少し冷静になってみれば、すでに山下のパースペクティブというものがはっきりとここに打ち出されていることがわかる。
すなわち、今後の日本の社会において人口が減少することは避けられない、ということである。
そしてどうやら「国」(もしくは現政権)はこの傾向に歯止めをかけたい、と願っているかのようである。
ところが国が行うことは、実質的に悪影響を及ぼしていると金井はとらえる。
たとえば「プレミアム付商品券」という企画を打ち出し、「地元」の商店街に金が落ちるようにした。
しかしこの金は要するに税金で集めた金であり、それをただ再分配しているだけで、何ら有効に利用しているわけでもないし、創造的な、活性化につながるような施策を行ったわけでもない、と金井は批判的だ。
しかもこうした「ばらまき」は従来のものとは大きく異なり、数値目標(「KPI」というのだそうだ)を設定し、後に達成度合いを確認することになる。
要するに国は各自治体を競わせて、ただでさえ全体的には減少する人口をとりあう競争を行え、と指示を下しているのである。
「本当の地方創生は、国とは無関係に、自分たちで自主・自立して考える、ということです」(26ページ)
夕張の例が出てくる。1980年代に「炭鉱から観光へ」とシフトチェンジしたときは国は絶賛していたが、経営難に陥るとまったく手のひらを返した。それが国やマスコミのいつものやり方で、自治体のことを真剣に考えていない。
かつての「計画」は、とにかく未来は明るく、人口のみならず、数値という数値はすべて上昇することが前提となっていた。
しかし現在、そうした数値を掲げること自体が困難であることは想像に難くない。
にもかかわらずそれを推し進めようというのは、一つの政治的態度であり、それを支持するかしないかがわかれるところであろう。
また、プレミアム付商品券のほか、どういったアイデアが今、出ているのか。
日本版CCRC、というものもあるようだ。これは首都圏の高齢者を地方に移住させるもので、そのための医療介護などのケアのための施設や人も地方に移るだろうことが期待されている。だが、金井はこれにもあまり関心を示さない。
むしろ大事なのは、人口減を前提としたうえで、いかに地域社会を維持・運営していくか、である、という地点に舞い戻る。
ここには発想の転換が必要であり、たとえば「人口の数え方」を変えるというやり方もある。
単にそこに住居があるだけでなく、そこで働いている場合も「数」に入れるような「二重住民票」の仕方や、海外からの観光客など、人の出入りを活性化し、そうした「数」も加えること、これは、どの自治体もお互いに潰しあうのではなく、助け合うことが可能になる。
ゲゲゲの鬼太郎は調布市民であり、その他「ゆるキャラ」も「特別住民票」を持っている場合が多いという。
であるならば、今後は、SNSで自治体のコミュニティをつくり、そこに登録した人に「特別住民票」を配布するとか、死者でも名誉自治体メンバーは銅像となり、そのまま「住民」として数を減らさないとか、さらには、ペットやロボットなども是非とも「人口」に加えてもらいたい、というのは私のアイデアである。
今後の自治体の構成メンバーは、こうなる。
定住人口 + 交流人口 + 想像上のキャラクター
+ ウェブ空間におけるネットワーク + 死者 + ペット + ロボット
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地方自治体が生き延びるためには、結局のところ、国とのやりとりにおける「計画」にふりまわされることなく、自らのビジョンをしっかりと定め実行してゆく「内発的発展」を遂げる以外に道はない。
たとえば、避難自治体のシナリオ策定というものがある。決して一つのものに決めるのではなく、相矛盾するものも含めて多層化しておくのだそうだ。具体的には、こういうもの。
シナリオ1 没入(焦燥)
スタンス 思考停止/作業への没入
復興 既存自治体の再生産=事故前に戻りたい
自治体の性格 国策と親和的/事業利益享受
シナリオ2 被害者(憤怒)
スタンス 責任追及/補償・賠償
復興 被害住民の賠償請求団体としての自治体
自治体の性格 国策の犠牲者/被害住民の代弁者・代行
シナリオ3 反省(悔恨)
スタンス 原発誘致・安全神話への反省/過去との決別
復興 脱ゲ発・再生エネルギーへの転換
自治体の性格 原発等は否定/立入規制主体としての自治体
シナリオ4 凍結(時機、時を待つ)
スタンス 安易な「恢復」を求めない/焦らない
復興 自然減衰を待って地域を再建する
自治体の性格 空間の現状凍結/管理主体としての自治体
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以上は、主に金井の論点。山下は、まず、選択と集中、競争、淘汰、という言葉にかかわるものは危険だとみなしている。これらに共通しているのは「排除」ということになる。この「排除」は中央(国)への「依存」の結果生まれている。そのため、「論理による対抗」が必要である。しかし山下の言うことがあまり「論理」的ではないのが少し気になる。
「多様なものが多様なままに生きていくこと。その可能性を探ることです。そのときに重要になるのは自立です。」(75ページ)
この「自立」とは、むしろ、地方のほうがあるのではないか。都心のほうが自立していないのではないか。
「すべてを経済の論理で判断し、金もうけに人をかきたてるから、暮らしが回らなくなってきている」(77ページ)
このあたりであらためて「大国経済」の維持よりも、ふるさとや地域、暮らしを守ることが優先されるべきだということを強調すべきだ、というのが山下の発想である。
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原発事故がもたした「地域」問題は、深刻だった。
第一に、原発事故は結果的に責任が東電や国になく、「災害」とみなして対応を行っていることに端を発している。
第二に、原状回復を前提とするため、避難した人たちは元の場所に帰る以外の選択肢を出さなかった。
第三に、そういいながら避難生活が長期化したことにより、原状回復や帰還よりも、避難生活そのものへの対応が求められ、結果的には二択となった。
しかし現実的には帰還か移住かを決められないまま「避難」を続けている人が多く、ここに第三の選択肢も必要だとする(金井)。
・・・と議論は続くが、前半の金井の二つの論考が面白かったものの、その後の二人の対談は、今ひとつである。それは、事例と論理がごちゃごちゃになって議論がぼんやりしているからである。
私に理解できるのは、ほんのごくわずか、彼らが提示する枠組みのようなものくらいである。すなわち、第一に、これは吉本隆明が述べていた「共同幻想」の問題だということである。
「国家」「政権」「官僚」「地方行政」といった、一見はっきりとした「誰か」がイメージできるようなものが言葉としてあるが、その実態は、個人の意志や欲望が積み重なったものではなく、むしろ逆で、誰のものでもない意志、欲望が表わされているということである。
厄介なのは、こうした「共同意志」が実質的にその成員全体の「意志」のある種の「集約」とみなされるにもかかわらず、その実態は「集約」されていないどころか、誰の「意志」でもない、というとてつもなく妙なことになることがあることである。
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