読んだ論考
「広島のひとたちの物語」
戦争/政治/実存 ジョルジュ・バタイユ著作集 第14巻、所収
山本功訳
二見書房
1972年10月

À propos de récits d'habitants d'Hiroshima
By Ggorges Bataille
Critique, n° 8-9, janvier-février 1947.
Œuvres complètes, Tome XI

ひとこと感想

バタイユは、「ヒロシマ」を安易に特別視することを許さない。もっと感性と知性を磨いて、この「現実」と立ち向かえ、と言っているかのようである。原爆の威力とそのすさまじい被害は、脆弱な感性に訴えるのでも、世間がもちだす常識にあてはめるのでもない次元を要求している。原発事故に対しても、おそらくバタイユは同様の感想を抱くことだろう。私たちは今何を考え、行動しているだろうか。

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現代フランスの「変態的」な思想家、ジョルジュ・バタイユは、自らが編集する雑誌『クリティク』(1947年1・2月号(第8・9号))に「広島のひとたちの物語」という文章を書いている。

これは、ジョン・ハーシーが『ニューヨーカー』に1946年8月31日に発表されたルポルタージュ『ヒロシマ』に対する書評である。

1946年6月に広島に訪れたハーシーは、生存者6名の語りに耳を傾け、この作品を残した。国内では刊行がGHQによって禁じられたが(1959年になってようやく刊行)、全米の新聞でも紹介されたあと、カナダその他10ヶ国以上で翻訳された。おそらく「世界」に「ヒロシマ」の実情をもっとも伝えた文章の一つである。

フランスでは『フランス・ソワール』紙が1946年9月10~28日にかけて全文を掲載、それをバタイユは読み、「書評」というかたちで「ヒロシマ」を語った。

バタイユは幼少の頃に、梅毒に罹った父の看病をするという経験をもつ。しかも彼の住むまちが爆撃に見舞われたとき、その不随の父を置き去りにして逃げている。

このときの情景と、ハーシーの本に出てくる次の患者の話は、おそらくバタイユのなかで自らの体験と重なり合ったのではないだろうか。

医者から聞いたエピソードと思われるが、梅毒にかかっているのではないかと検査しながら心配する患者がいたそうだ。彼は、次の瞬間には原爆が落とされ、絶命してしまったのである。

この患者は「何が自分を待ちうけているのか知ることはできなかった」(11-12ページ)。

おそらくバタイユの父も自分が待ち受けている運命を知らずに、梅毒と戦いながら、家族からも見放され、孤独のうちに戦火のなかでいのちを絶ったのであろう。

しかし、戦後を生きる私たちは、さらに言えば、フクシマ以降を生きる私たちは、この後に、「何が起こるのか」を知っているわけである。

ただし問題は、ただ「知っている」だけでよいわけではないということだ。

むしろ、「知っている」にもかかわらず、私たちは、この患者と同じような状態にある、のではないか。それが、バタイユの問いの出発である。

実際に、生き延びた人たちの反応はというと、この「原爆」が引き起こす現実を本気で理解しようとせずに、「無頓着」に、次の原爆の使用は地球の滅亡をもたらすだろうと、大げさな、誇張した「認識」しかできなくなる傾向にある。

これは、まったく「理性的」ではなく、「感性」と「知性」を誤用した結果引き起こされた愚かな反応であるとバタイユは考える。

現実をただぼんやりと受け入れるか、すべてが滅びる恐怖にかられて拒絶反応を起こしうろたえているか、いずれか。

この二つの反応は、要するに「想像力の欠如」である、とバタイユは言う。

「これまでになく深酷に訴えかけるべき動機があるのに、もはやその力の影すら発揮できない」(13ページ)

すさまじい力をもつ原爆と方を並べるほどの、いや、それを凌駕するほどの「想像力」をもって立ち向かうことこそが、私たち人間の行いうることの「すべて」である、とバタイユは指摘していると思われる。

こうしてみてみると、バタイユは、安易に「ヒロシマ」に同情しようとしない。

バタイユが着目しているのは、単に「被害者」に同情を寄せる、ということではない。

安易な同情は、「感性」への逃避であり、「知性」の欠如である。

被害者にどういったことが行われたのか、被害者はどういった感情を抱いていたのか。それを「加害者」または「第三者」が「知る」努力を行うこと、そこにバタイユは、私たちが、現在(そう、今もまた同じような状況にある)、生き延びるための道を見ているように思われる。

だからバタイユは、人間が動物に墜ちてゆくその現場の生々しい情景に、感情で応えようとせずに、私たちの驚愕が何に由来しているのかをあえて冷徹に数字で語る。

世界では、毎年5000万人の人間が死んでいる、という事実。そのなかで、ヒロシマの数万人の死者は、0.1パーセントほどにしか相当しない。その数に、驚くべきではないし、その差異は特にない、とバタイユは言う。

「広島の不幸は、見せかけでない感性の立場から自由に考察されるとすれば、他の不幸から切り離しては考えられないものである。何万という原子爆弾の犠牲者たちは、自然の手で毎年死に供される数千万のひとたちとおなじ次元にある」(24ページ)

「おぞましさは、いずこにおいてもおなじなのだ。」(24ページ)

ナイーヴな、つまり、見せかけの感性の立場からの考察は、「人間の生の一構成力でもある不幸の、あの深遠な無意味さを直視する勇気がない」(25ページ)と断罪される。

死者の数に驚くのではなく、むしろ、こうした原爆を生みだした人間の力に、一瞬にして一つの都市を壊滅させる武器を短期間に開発し、実際に使用する人間の、能力の「上昇」と「飛躍」に驚くべきである、とバタイユは考えるのである。

「原子爆弾の意味は、その人間的な起源から引き出されてくるものなのだ。」(20ページ)

「原子爆弾が人間的な意味をおびるのは、他のひとたちの企てを不可能にすることを目的とした、さまざまな可能な企ての表象としてである。」(21ページ)

こうしたバタイユの「悲惨な出来事」に対する向かい合い方は、「アウシュヴィッツ」に対しても同様であり、一貫している。

原爆を主に科学の成果とみなした吉本とやや近いような視点であるが、吉本のこの言葉が彼の他の言葉と異なり「思想」のように読めない「江戸の頑固爺の悪態」にしか聞こえないのに対して、人智の可能性の成果とみなし、その可能性と限界をとことん追求すべきと指摘するバタイユは、ここでも「思想」の言葉を表出している。

「精神の通常の尺度と、原子爆弾の効果の可能性とのあいだには、気もそぞろに想像力も深淵の前に立ちすくむほどの甚だしいずれがある」(13ページ)

つまり、ヒロシマやアウシュヴィッツを、私たちの「悲惨な」体験としてのみ語ってはならない。

「輝かしき」体験として、語る。

私たちは、ヒロシマという「高み」を獲得した、と考える。

この「高み」をバタイユは「至高性」と呼びたいのだ。

「至高の感性の人間は、原子爆弾の誕生と無縁ではない。かれのとほうもなさは、科学、すなわち理性の、とほうもなさに対応するものである。」(29ページ)

「至高の感性の人間は、不幸に直面しながら、もはやたちどころに「なんとしてもこの不幸を抹殺しよう」とは言わずに、「この不幸を生きよう」と言う者であるのだ。最悪の水準にある生の一形体を、瞬間において高めるのである。」(32ページ)

そうなのだ。私たちはこの「不幸を生きる」ことに全力を尽くすべきなのだ。

「軍事的な諸目的のための爆薬用のウラニウムやプルトニウムの生産は、近い将来に副産物として大量の発電用の熱をひき出すことさえ可能になるだろう。」(34ページ)

1947年の時点でこう書いたバタイユは、今の私たちの混乱ぶりに対して、おそらく次のような言葉を投げつけてくることだろう。

「地球がウラニウムに毒されてしまう場面に立ち会うという可能性は、なんらかの全般的な反応をひき起こしてしかるべき性質のものである。」(13ページ)

ここで言う「全般的な反応」とは、社会的うねり、のようなものを指し、歴史的には、十字軍などの「聖戦」や革命などが巻き起こる「熱」のことである。

残念ながらそれはクールダウンさせねばならない宿命にあるのだろうか。


*『クリティク』誌にバタイユが書いた関連書評
1946年11月号(6号) 中国の戦争
1947年5月号(12号) ユダヤ人問題
1947年8・9月号(15・16号) 恒久平和は宿命的なものか
1947年10月号(17号) 死刑執行人と犠牲者(SSと強制収容所捕虜)に関するいくつかの考察
1948年6月号(25号) 政治的欺瞞
1948年9月号(28号) 米ソ戦争のさなかでの精神的中立の意味
1948年11月号(30号) ソヴィエト連邦とアメリカ合衆国との対話
1949年1月号(32号) アメリカ中西部の聖書と秘教と理想主義
1949年2月号(33号) 世界政府
1949年5月号(36号) スターリングラード攻防戦における国家の気まぐれと歯車仕掛
1951年4月号(47号) 文明と戦争
1951年5月号(48号) 人種差別
1952年6月号(61号) 人類
1952年7月号(62号) 英雄ルクレール
1953年5月号(72号)、6月号(73号) 共産主義とスターリン主義