読んだ本
放射能と生きる
武田邦彦
幻冬舎新書
2011年6月

ひとこと感想
2011年3月12日から5月5日までの彼のブログ記事をもとにし、加筆修正したもの。当時の緊迫した空気や、言い知れぬ不安感を思い出させる。これを読んでいると、原発をはじめとした科学技術にとって今求められているのは、数十年前に脳死をはじめとした医療における生命倫理において問われたような、インフォームドコンセントとクオリティ・オブ・ライフであることが分かる。きちんとした説明責任と、生活者の質の優先が大事なのである。

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私は昨年2011年8月頃より、ようやく少し冷静に、原発事故に対する自分のスタンスを明らかにしはじめることができたが、その間、3月からの数カ月は、生きた心地はしなかった。移住すべきなのか、飲食物をどうするのか、病気のネコの世話をどうするのか、まったく動こうとしない義母と行動を別にしてもよいのか、など、課題が山積みだった。

そしてなによりも、原発自体が、落ち着いてくれることを、心から願った。

世間では、極端に「大丈夫」という人たちと、極端に「危険だ」という人たちが大声を出していた。私たちには、どちらも信用できなくなっていった。

だから、自分の力で今起こっている事態を理解しようと、ネットのニュースや情報を読み、多種多様な本を読んだ。

放射能の厄介なところは、目に見えないことであり、さらに、その影響がはっきりとしていない部分もあることだ(少なくとも見解が分かれているところだ)。

かつてであれば、とりあえずNHKの報道や解説はある程度信用できると考えていたが、事態がはっきりとわからないなかでは、NHKでさえも、この事故には十分に切り込めていなかった。

だいいち、カメラを向けても、水蒸気や煙、爆発など、そういった現象を映し出すことはできても、放射能を映し出すことはできないので、やはり、今何が起こっているかが映像を通じては、なかなか伝わらないのである。

しまいには、肝心な場所の数値もはかれないので、影響がどのくらいにまで及ぶのかが分からない、という説明がマスコミや政府から、くりかえし言われた。

推定でものを言えないので、結果的には、専門家でさえも、危険性をマキシマムにとらえる場合と、ミニマムにとらえる場合とにおいて、はっきりと述べることがなされたが、私たちの暮らしにどのくらい影響があるのかを、一般化して概算的に示す人がとても少なかった。

武田邦彦は、そういったなかで、もっともこのような努力をした人の一人である。

実際には彼の言うことは、ややリスクを最大限にとる立場と一緒のようにみえるが、大きく異なっていたのは、彼が一貫して「妊娠している妻をもつ夫」の立場でこの事故の対応を考えていたことだ。

科学者たちは、専門家として、基準値と実際の数値とのあいだの分析を冷静に行っていたと思う。そのことが悪いことではない。しかし、得てして専門家が「卑怯」であるのは、その専門性をいいことに、生活者にとって必要な情報を提供しないことだ。
生活者が分かるように話をする意志のない人があまりにも多いのである。

ここには、無意識のテクノクラシーが潜んでいる。

専門知識のない人間たちに理解してもらおうという努力もなければ、そういう人たちの暮らしを心配するような意欲もない。

他人事のように、数字を出し、事象を説明する。

こんな専門家は、正直言って不要である。

みなさんも心当たりがあると思うが、医療の現場はこの数十年のあいだに、大きく変わっていった。もちろん病院や医師によってまだ差があるが、基本的には、医療の現場には、インフォームド・コンセントという考えと、それから、クオリティ・オブ・ライフという考え方が中心に据えられた。

それまでは、医者は専門家として、病気や怪我を対象とし、その治癒が目的であり、さらに言えば延命こそが最終目的であった。そのために患者や家族などに対して医療処置について詳しく説明することもなければ、その処置が苦痛を伴うものであっても延命の可能性があれば積極的に行うのが、当たり前であった。

しかし、高度な医療処置が増え、また、死の定義さえも変更を余儀なくするなかで、生命倫理が問われ、あらためて、医療の役割が議論された。

その結果、医療処置については、患者ならびに家族に対して、
リスクを含めて十分な説明を行い、同意を得たうえで実際に処置を行うという方向に大きく変わっていった。

また、その前提として、患者の「生活の質(QOL)」が尊重し、ただ延命だけのためにむやみに医療処置を行わないということになった。

科学技術の高度化は、専門家に対して、新たな義務を課したわけである。

では、原発はどうか?

基本的に、専門家にまかせておけば安心、というスタンスを貫いてきた。

だから、3月11日以降に、突然いろいろな説明をしても、ほとんど理解できないどころか、混乱を誤解を引き起こす結果になり、専門家同士のコンセンサスもどこにあるのか分かりにくくなるほどだった。

私は哲学を学んでいるなかで、「真理を語る」ということの困難さ、もしくは、「本当のことを言う」ということの厄介さを知った。それは、単に、数値や統計に基づいたデータを開示することではない。数字は嘘をつかないというのは嘘であり、数字は嘘に満ち溢れている。それを嘘でなくすための説明の努力をしなければならない。それが説明義務というものである。

だから、もう一度言うが武田邦彦は、この説明義務を十分に果たしている。彼の説明がややリスクを大きく計算していることも、私たちにはよく理解できる。自分がその説明をもとにどう判断しどう行動するのかを、自ら決定しなければならないことも、はっきりと知れている。その違いなのだ。

多くの専門家もマスコミも政治家も原発関係者も、このことをよく理解していていない。

いま、原発関連の議論において必要なのは、説明責任、インフォームド・コンセントなのである。

おっと、今日はあまり本のなかみにふれずに終わってしまった。内容については、あらためてまたとりあげたい。

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