読んだ論考
惨劇のイマジネーション
スーザン・ソンタグ
川村錠一郎訳
Susan Sontag, “The Imagination of Disaster," Commentary, 1965.
所収
反解釈
高橋康也他訳
ちくま学芸文庫
1996年
ひとくち感想
切れ味は良い。当時まだ多くなかった「映画評論」の先駆の一つになるのであろう。ただし、特に放射能や核エネルギーに造詣があるわけではないので、あくまでも映画「表象」において核戦争などが「惨劇」としてどのように描かれているのかを分析したものと考えてよい。あまりよく知られていない米映画への言及があったのは、大変有難かった。
*なお、表題の「惨劇」は原語がdisasterである。natural disasterであれば自然災害であるが、この場合、映画の大半は核戦争や異星人や突然起こる出来事なので、惨劇とか惨状といったような意味になる。私なら「災厄」と訳すと思う。
*****
1965年、才女スーザン・ソンタグは「惨劇のイマジネーション」という論考を書いている。
まだ、23歳のときである。
先日読んだ本「ヒバクシャ・シネマ」に訳出・掲載されていなかったので、「反解釈」に掲載されているこの論考を読んでみることにした。
本論は、「SF映画」(一部SF小説、マンガ)を題材にして、どのような構成で「災厄」が描かれるのか、どういったバリエーションがあるのかを概観している。
それによれば、必ず踏襲されるのは、以下のような展開であるという。
1 何かが地球にやってくる。
2 破壊される。
3 総力を挙げて撃退しようとするがうまくいかない。
4 さらに破壊が続く。
5 最終兵器で勝利。
小説とは異なり、映像と音声によって、人間の死、都市の破壊、人類の滅亡を描くことが、映画の特徴である、とみなす。
つまり、破壊こそがもっとも重要で、題名にあるように「災厄」を描くのである。
主に、以下のような内容を含んでいる、とする。
・破壊願望
・異形への畏怖心
・行き過ぎた科学技術に対する疑念
・物神崇拝(結果的には、科学技術信仰)
・勧善懲悪
まあ、とりたてて驚くほどの分析ではない。
***
さて、本論考においてとりだしておきたいのは、ソンタグが「核エネルギー」に対してどういった理解をしているか、もしくは、どういった洞察をしているか、である。
「日本映画」について、以下のように述べている箇所がある。
「とくに日本映画の場合にそうなのだが、必ずしも日本映画ばかりではなく、一般に、核兵器の使用や未来の核戦争の可能性によって、大量の創傷が現実に存在するという気持ちを観客はもたらされる。空想科学映画のほとんどはこの創傷の証人であり、ある意味で、これを払拭しようとする試みである。」(345-346ページ)
「創傷」という言葉が用いられている。ちょっと原本がないので分からないが、woundのことか?
ここでソンタグが、ヒロシマ、ナガサキ(場合によっては第五福竜丸)といった日本が負った「創傷」に注目していることは、明らかである。
しかし、「証人」であると同時に、「払拭しようとする試み」とはどういうことであろうか。
「創傷」に対する「怒り」「憎しみ」といった「感情」ではなく、「証人」でありかつ「払拭しようとする試み」、とは、一体何を意味するのであろうか。
これは、こうした核の「威力」に対して、人為的すなわち加害者による「暴力」とはみなさずに、抗いがたい運命としてとらえている、と言いたいようである。つまり、「災厄」を「自然災害」「天災」と同じように理解をしている、とソンタグは映画から受け止めたというように思われる。
しかしソンタグはそこにはそれ以上踏み込まない。
私たちであれば、おそらく、「被爆」「被曝」などと関連づけて、もう少し内部へ、つまり、倫理性への問いへと向かうが、そうはせずに、形態について論じ続ける。どうやらそれが、彼女の言う「反解釈」的立場なのだろう。
・怪獣その他の出現は、基本的に「爆弾」の隠喩である
・都市、地球、宇宙が核兵器の使用の結果消滅するかもしれないという可能性
・敵対者に対する好戦性と平和への希求の両立
つまりここには、道徳性が単純化されており、世界もまた一つの統一された状態を理想とする意識がある。これをソンタグは、次のように述べている。
「それに寄りそうようにして現代の生存についてのきわめて深い不安が潜んでいる。私が言おうとしているのは〈爆弾〉の傷跡そのもの――それが使用されたこと、地上の全人類を何度も繰り返し殺せるほどの量が現にあること、新型爆弾が使われる可能性が高いこと――だけではない。肉体的な惨劇や地球全体の破壊や絶滅についてのこれらの新しい不安以外に、空想科学小説は個人の精神状況についての抜きさしならなぬ不安を反映している。」(349ページ)
「個人の精神状況」とは、難しい言葉だが、どうやら「非人格性」とつながっていることのようだ。
この「非人格性」とは、まさしく現代科学技術とその体制(=テクノクラシー)がもたらしたもので、一般的には「非人間化」「機械化」と呼ばれているものと近しい。
感情に乏しく、意志がはっきりせず、活発でなく、従順という、人間像である。
年代が全く異なるので本論考ではふれられているわけではないが、1982年に公開された「ブレードランナー」に登場するレプリカントは、ここで言われている「非人格性」の典型とみなすことができる。
ソンタグは、こうした空想科学映画を数多く観て、以下の結論に至る。
「この種の映画は世界的な不安を反映し、同時にそれを和らげてくれる。さらにこれらの映画は、私には脳裏をいつまでも去らない忌まわしいものに思える放射エネルギーや汚染や破壊の進行に関して、無感覚な反応をとるよう観客を教育する。」(356ページ)
つまり、「世界的な不安を反映」しているという意味では、ある程度には社会風刺、社会批評の意志があるものの、結局はむしろ、鎮痛剤のような効果を私たちに与え、そのい「痛み」がいったいどこからやって来ているのか、どうすればいいのかを考えさせないようにしている、ということになる。
もちろんこれは、ソンタグが観た1950年代から60年初頭にかけての「空想科学映画」にあてはまる解釈であって、その後に登場する作品がどうなっているかは、また、あらためて考えねばならないが、まさしく原水爆実験が次々と行われ、地球全体が汚染された時期であり、「核の平和利用」が叫ばれた時期でもあるこの時代に、こうした映画もまた、最終的には原水爆の宣伝に一役買っていたということになる。
なるほど、その通りかもしれない。
しかし、そうは言っても私が気にしているのは、この「鎮痛剤」の効果の方である。この鎮痛剤が、とくに「効果」がないくせに、あたかも「プラッシーボ」のように私たちに与えられていたのではないかという不安である。
ある研究者(たとえば先日読んだ「特撮映画の社会学」に好井裕明氏)は映画「ゴジラ」に、消えてはならない「ヒロシマ」(ナガサキ)の惨状をみる。
しかし、それが「ゴジラ」であり続け、しかも、「正体不明」のまま、私たちの「不安」を象徴だけして、結局は、科学の力で解決させてしまった以上、さらには、この「ファンタジー」が長らく連作を生み出し、次第にゴジラがただのキャラクター化してゆくのも、この初発のモチーフに内包していた必然性であって、次第に陳腐化したのではないのではないか、という疑念がある。
もちろん、一定程度の「啓蒙」効果はあっただろう。そう観た人もいたことだろう。
しかし、何かそこには、特撮映画を撮りたいという欲求をかなえるための、とってつけたような「言い訳」がにじみ出ているように思われる。そして、観ている側も、当時は、単に「怪獣」や「特撮」や「破壊」「空想科学もの」「怪奇」などが好きで観ていたものを、過去遡及的に、意味化しているのではないだろうか。
もっとその無意識的な領域を探るのであれば、本格的な探究になると思われるが、そうした深層構造をさぐるかのような姿勢だけをみせて、実際にはそこに到達していない、そういった「表象文化」研究が多いように思われる。
ソンタグに教えられたのは、こうした「Against Interpretation」の意志なのかもしれない。
惨劇のイマジネーション
スーザン・ソンタグ
川村錠一郎訳
Susan Sontag, “The Imagination of Disaster," Commentary, 1965.
所収
反解釈
高橋康也他訳
ちくま学芸文庫
1996年
ひとくち感想
切れ味は良い。当時まだ多くなかった「映画評論」の先駆の一つになるのであろう。ただし、特に放射能や核エネルギーに造詣があるわけではないので、あくまでも映画「表象」において核戦争などが「惨劇」としてどのように描かれているのかを分析したものと考えてよい。あまりよく知られていない米映画への言及があったのは、大変有難かった。
*なお、表題の「惨劇」は原語がdisasterである。natural disasterであれば自然災害であるが、この場合、映画の大半は核戦争や異星人や突然起こる出来事なので、惨劇とか惨状といったような意味になる。私なら「災厄」と訳すと思う。
*****
1965年、才女スーザン・ソンタグは「惨劇のイマジネーション」という論考を書いている。
まだ、23歳のときである。
先日読んだ本「ヒバクシャ・シネマ」に訳出・掲載されていなかったので、「反解釈」に掲載されているこの論考を読んでみることにした。
本論は、「SF映画」(一部SF小説、マンガ)を題材にして、どのような構成で「災厄」が描かれるのか、どういったバリエーションがあるのかを概観している。
それによれば、必ず踏襲されるのは、以下のような展開であるという。
1 何かが地球にやってくる。
2 破壊される。
3 総力を挙げて撃退しようとするがうまくいかない。
4 さらに破壊が続く。
5 最終兵器で勝利。
小説とは異なり、映像と音声によって、人間の死、都市の破壊、人類の滅亡を描くことが、映画の特徴である、とみなす。
つまり、破壊こそがもっとも重要で、題名にあるように「災厄」を描くのである。
主に、以下のような内容を含んでいる、とする。
・破壊願望
・異形への畏怖心
・行き過ぎた科学技術に対する疑念
・物神崇拝(結果的には、科学技術信仰)
・勧善懲悪
まあ、とりたてて驚くほどの分析ではない。
***
さて、本論考においてとりだしておきたいのは、ソンタグが「核エネルギー」に対してどういった理解をしているか、もしくは、どういった洞察をしているか、である。
「日本映画」について、以下のように述べている箇所がある。
「とくに日本映画の場合にそうなのだが、必ずしも日本映画ばかりではなく、一般に、核兵器の使用や未来の核戦争の可能性によって、大量の創傷が現実に存在するという気持ちを観客はもたらされる。空想科学映画のほとんどはこの創傷の証人であり、ある意味で、これを払拭しようとする試みである。」(345-346ページ)
「創傷」という言葉が用いられている。ちょっと原本がないので分からないが、woundのことか?
ここでソンタグが、ヒロシマ、ナガサキ(場合によっては第五福竜丸)といった日本が負った「創傷」に注目していることは、明らかである。
しかし、「証人」であると同時に、「払拭しようとする試み」とはどういうことであろうか。
「創傷」に対する「怒り」「憎しみ」といった「感情」ではなく、「証人」でありかつ「払拭しようとする試み」、とは、一体何を意味するのであろうか。
これは、こうした核の「威力」に対して、人為的すなわち加害者による「暴力」とはみなさずに、抗いがたい運命としてとらえている、と言いたいようである。つまり、「災厄」を「自然災害」「天災」と同じように理解をしている、とソンタグは映画から受け止めたというように思われる。
しかしソンタグはそこにはそれ以上踏み込まない。
私たちであれば、おそらく、「被爆」「被曝」などと関連づけて、もう少し内部へ、つまり、倫理性への問いへと向かうが、そうはせずに、形態について論じ続ける。どうやらそれが、彼女の言う「反解釈」的立場なのだろう。
・怪獣その他の出現は、基本的に「爆弾」の隠喩である
・都市、地球、宇宙が核兵器の使用の結果消滅するかもしれないという可能性
・敵対者に対する好戦性と平和への希求の両立
つまりここには、道徳性が単純化されており、世界もまた一つの統一された状態を理想とする意識がある。これをソンタグは、次のように述べている。
「それに寄りそうようにして現代の生存についてのきわめて深い不安が潜んでいる。私が言おうとしているのは〈爆弾〉の傷跡そのもの――それが使用されたこと、地上の全人類を何度も繰り返し殺せるほどの量が現にあること、新型爆弾が使われる可能性が高いこと――だけではない。肉体的な惨劇や地球全体の破壊や絶滅についてのこれらの新しい不安以外に、空想科学小説は個人の精神状況についての抜きさしならなぬ不安を反映している。」(349ページ)
「個人の精神状況」とは、難しい言葉だが、どうやら「非人格性」とつながっていることのようだ。
この「非人格性」とは、まさしく現代科学技術とその体制(=テクノクラシー)がもたらしたもので、一般的には「非人間化」「機械化」と呼ばれているものと近しい。
感情に乏しく、意志がはっきりせず、活発でなく、従順という、人間像である。
年代が全く異なるので本論考ではふれられているわけではないが、1982年に公開された「ブレードランナー」に登場するレプリカントは、ここで言われている「非人格性」の典型とみなすことができる。
ソンタグは、こうした空想科学映画を数多く観て、以下の結論に至る。
「この種の映画は世界的な不安を反映し、同時にそれを和らげてくれる。さらにこれらの映画は、私には脳裏をいつまでも去らない忌まわしいものに思える放射エネルギーや汚染や破壊の進行に関して、無感覚な反応をとるよう観客を教育する。」(356ページ)
つまり、「世界的な不安を反映」しているという意味では、ある程度には社会風刺、社会批評の意志があるものの、結局はむしろ、鎮痛剤のような効果を私たちに与え、そのい「痛み」がいったいどこからやって来ているのか、どうすればいいのかを考えさせないようにしている、ということになる。
もちろんこれは、ソンタグが観た1950年代から60年初頭にかけての「空想科学映画」にあてはまる解釈であって、その後に登場する作品がどうなっているかは、また、あらためて考えねばならないが、まさしく原水爆実験が次々と行われ、地球全体が汚染された時期であり、「核の平和利用」が叫ばれた時期でもあるこの時代に、こうした映画もまた、最終的には原水爆の宣伝に一役買っていたということになる。
なるほど、その通りかもしれない。
しかし、そうは言っても私が気にしているのは、この「鎮痛剤」の効果の方である。この鎮痛剤が、とくに「効果」がないくせに、あたかも「プラッシーボ」のように私たちに与えられていたのではないかという不安である。
ある研究者(たとえば先日読んだ「特撮映画の社会学」に好井裕明氏)は映画「ゴジラ」に、消えてはならない「ヒロシマ」(ナガサキ)の惨状をみる。
しかし、それが「ゴジラ」であり続け、しかも、「正体不明」のまま、私たちの「不安」を象徴だけして、結局は、科学の力で解決させてしまった以上、さらには、この「ファンタジー」が長らく連作を生み出し、次第にゴジラがただのキャラクター化してゆくのも、この初発のモチーフに内包していた必然性であって、次第に陳腐化したのではないのではないか、という疑念がある。
もちろん、一定程度の「啓蒙」効果はあっただろう。そう観た人もいたことだろう。
しかし、何かそこには、特撮映画を撮りたいという欲求をかなえるための、とってつけたような「言い訳」がにじみ出ているように思われる。そして、観ている側も、当時は、単に「怪獣」や「特撮」や「破壊」「空想科学もの」「怪奇」などが好きで観ていたものを、過去遡及的に、意味化しているのではないだろうか。
もっとその無意識的な領域を探るのであれば、本格的な探究になると思われるが、そうした深層構造をさぐるかのような姿勢だけをみせて、実際にはそこに到達していない、そういった「表象文化」研究が多いように思われる。
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