読んだ本
夢よりも深い覚醒へ――3.11後の哲学
大澤真幸
岩波新書
2012年3月

ひとこと感想

早く出版することの意義はあると思うが、少し雑な構成の印象が残って残念。いつもの理路整然とした文章の二歩手前くらい。

目次
序 夢よりも深い覚醒へ
I 倫理の不安――9.11と3.11
II 原子力という神
III 未来の他者はどこにいる? ここに!
IV 神の国はあなたたちの中に
V 階級(クラセ)の召命(クレーシス)
結 特異な社会契約

****

大澤は本書10ページめで、「3・11の原発事故を前提にしたとき、日本の原子力発電を、どのようにすべきか」について「結論」を述べている。

「日本は、全面的な脱原発を目標としなくてはならない。」「原子炉ごとに閉鎖の年限を決定し、段階的に安全な脱原発を実現するのがよいだろう。」(10ページ)

本書は、こうした「結論」を述べるために書かれたものではない。「こうした結論へと至る理路を支えている前提」(15ページ)である。

そして、「3・11の出来事には、可能性と不可能性とを弁別する座標軸、われわれの日常の生が当たり前のように受け入れてしまっている土台そのものを揺り動かすものがあったのだ」(17ページ)と位置づける。

本書で扱われているものと、当ブログで論じたもの(★をつけた)
フロイトによる夢分析(ラカン「精神分析の四基本概念」から)
サンデル「これからの「正義」に話をしよう」における暴走列車の事例
ウイリアム・スタイロンの「ソフィーの選択」
テリー・イーグルトンの「Sweet Violence」による「破局」
デイヴィッド・ラウプにおける「絶滅」の進化論
バーナード・ウィリアムズによるゴーギャンの「道徳的な運」
ウルリッヒ・ベックの「リスク社会」
竹内啓の偶然性
カントの定言命法
ジョルジョ・アガンベンによる「ムーゼルマン」
阪神・淡路大震災
オウム真理教による地下鉄サリン事件
カントの地震論と視霊者の夢
レベッカ・ソルニットの災害ユートピア
ナオミ・クラインのショック・ドクトリン
ハイデガーの人間の不気味さ(Unlichkeit)
ウラン爺(東善作)
武田徹(名前は出てくるが参照文献が挙げられていない。実際は「私たちはこうして「原発大国」を選んだ」を参照している)
第五福竜丸事件
原子力の平和利用(中曾根、正力)
大江健三郎
日々美子(放射能酒)
見田宗介による戦後史理解
手塚治虫の鉄腕アトム
マーク・ゲインの「ニッポン日記」
加藤典洋「3・11」
アイリーン・ウェルサム「プルトニウムファイル」
吉岡斉「新版 原子力の社会史」
リチャード・ローティ
旧約聖書「創世記」の大洪水
ライプニッツの神議論とヴォルテール、ルソー
ロールズの正義論
高木仁三郎
中西準子の環境リスク論
ウェーバーの資本主義の起源とプロテスタントの予定説
ジャン=ピエール・デュピュイ「ツナミの小形而上学」
ギュンター・アンデルスの「ノアの箱舟」の寓話
カントによる未来への倫理(「世界公民的見地における一般史の構想」)
ハイデガー「形而上学の根本諸概念」
フェリーニ「サテリコン」
良知力「向う岸からの世界史」
田川建三による神の国論(ヨハネとイエスの差異)「イエスという男」
ノンアルコールビール
江夏の21球
ハンス・ヨナスのMortality and Morality
ウェーバーの「召命」(「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」
マルクスの「階級」
堀江邦夫「原発ジプシー」
ソクラテス
キルケゴール
スラヴォイ・ジジェク「サブクラーク」
スティーブン・ジェイ・グールド「系統的体小化の法則」
ヘーゲルの「実体の主体への転化」
マルクス「資本論」
ジャック・ランシエール「無知な教師」
柄谷行人「哲学の起源」
ハーバーマスの「合理的討議」
レヴィ=ストロース「浮遊するシニフィアン」
ラカンの「通り道」

さまざまな事例とともに描かれる「深い覚醒」は、十分に興味深いが、少々読むのに骨が折れることもある。

というのは、本書で行われていることが、「3.11」そのものとその「源流」への肉薄ではなく、「3.11」という経験の「源流」を探っているからである。

このなかでは、とくに、ノンアルコールビールのたとえと、江夏の21球のたとえが、「喩」としてふさわしくないように思えた。

ほかの事象ならいざ知らず、「3.11」に対しては、こうしたアプローチは、少々違和感を覚える。

かつてプロ野球でくりひろげられた江夏豊の「21球」という話題が語られるが、これにはがっかりさせられた。

「日本シリーズの最終戦の一点も与えれない場面での無死満塁で、マウンドに立たされた投手は、深刻な原発事故に遭遇したようなものである。」(171ページ)

そうだろうか?

オウム真理教による地下鉄サリン事件や米同時多発テロ事件との対比であれば、事例が拮抗していると思うのだが、江夏の1球はそうなのだろうか。

少なくとも野球の醍醐味を知らない人間には、この江夏のどたん場でふみとどまれた「人間力」、大澤の言うところの「ぎりぎりの覚悟」(72ページ)がどれほどのものかは分からない。

しかしこの話を聞いて、原発事故において「真の想定外の事態を克服」(171ページ)する可能性を考える、というのは、あまりしっくりこない。

深刻な原発事故に遭遇」が「誰」の問題として考えているか、があいまいなのである。

当時首相だった管直人の「政治家」としての判断の問題なのか、当時安全委員会の委員長だった班目春樹の「科学者」としての判断の問題なのか、それとも、原発を動かしている企業体であった東電の勝俣恒久前会長や清水正孝元社長ら幹部たちの「経営者」としての判断の問題なのか、さらには、現場をしきっていた吉田所長の「技術者」としての判断の問題なのか、判然としない。

江夏のようなすごい球を投げることが、あのとき、誰かできていれば、事態は変わったのか、そういう問いであれば、どう考えても、管直人の言動がそれに近いようにも思うが、あまり、たとえとしては、重みに欠けていないだろうか。

プロ野球における一シーズンでの優勝が決まるか決まらないかをたとえとして持ち出して、生死を賭した、しかも国家レベルでの存亡の危機を考えるのは、私には少し難しい。

この両者は、同じ次元の深刻さをもちえない、と私は思うのだ。


また、ノン・アルコールビールのたとえも適切さに欠けているように思える。

私にとって、ビールなら愛着があるので、たとえとしては受け入れやすいものであったが、ノンアルコール・・ビールを飲んで自動車事故を起こしたようなもの、という説明が釈然としない。

もちろん、「ノンアルコール」と言ってもわずかにアルコール分が含まれているものもあるかもしれない、ということなのであろうけれど、0.8%のホッピーはさておき、最近市場に出ている一般的なノンアルコール・ビールは0.00%と表示されているから、つまり、0.004%程度のアルコールを含んでいるということになる。

これが運転時に事故を起こして「酒に酔った」と言えるかどうかは、私にはわからない。単に、アルコール度数が身体にもたらした影響だけではなく、酒宴において気分が高揚したり、酩酊な場の雰囲気に影響を受けるということも多分に要因としてあるのかもしれない。

しかしたとえ、この「0.00%」が飲酒運転にならない、一つの指標もしくはそのぎりぎりの分岐点を表しているとしても、それを「原子力の平和的利用」という「あいまいな言語」のたとえとして用いるのは、今ひとつ分からない。

これは、あえてたとえるとすれば、被曝線量に対してではないだろうか。


なお、私にとって、この見田宗介による「夢よりも深い覚醒」とは、大事な言葉であるように思えるが、少し大澤と理解が異なっていたようだ。

弟子でもないのに、僭越ながら言わせてもらいたい。まず、大澤はこう言う。

「3・11の出来事は、われわれの日常の現実を切り裂く(悪)夢のように体験された。その夢から現実へと覚醒するのではなく、夢により深く内在するようにして覚醒しなくてはならない。」(264ページ)

それに対して、私が考えていたのは、こうである。

通常、夢は眠っているときに見るもので、覚醒すると夢は終わり、現実に立ちもどることになる。つまり、一般的には「覚醒」とは、「夢からの覚醒」を意味する。

しかし、私たちは、今、「夢」を見ることができなくなっている。原発事故は、「夢」を消してしまったのだ。

では、「現実」だけを見れば、それでいいというか? いや、違う。私たちが戦後、ずっと夢を見続けてきた、という現実を、はっきりと直視すべきであり、この夢=現実(それは夢≠現実でもある)の経緯や背景など、さまざまな諸要素をひとつひとつ丹念に洗い直さねばならない。

夢から覚醒すればよいということではもちろんないし、大澤の言うように、夢に深く内在するようにして覚醒するのでもない。

夢に「内在」することも、もうできないのだ。

「内在」せずに、夢=現実を、夢≠現実ではない、というようにして覚醒することである。

夢「よりも」深く覚醒する、のである。




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