読んだ本
原発と権力――戦後から辿る支配者の系譜
山岡淳一郎
ちくま新書
2011年9月

ひとこと感想
副題にあるように、「支配者」というものを想定し、その「支配者」が「原発」をもたらしたと考えて、その枠組みのなかでのみ原発をとらている。もちろん、一面において、このような理解が重要でないわけではないが、こうした著作は数多く出ている。そのなかで本書の特徴は、戦後から現在まで通覧的に原子力と政治についてとらえることができる点である。また、隠された人間関係を明らかにしている点が特に優れている。


***

本書の著者、山岡の動機は、「原発を国策として推進してきた権力の系譜を書こう」(234ページ)ということである。

 目次
 はじめに
 第1章 「再軍備」が押しあけた原子力の扉
 第2章 原発導入で総理の座を奪え!
 第3章 資源と核 交錯する外交
 第4章 権力の憧憬 魔の轍「核燃サイクル」
 終章 21世紀ニッポンの原発翼賛体制
 あとがき

山岡は、最初に「原子力の扉」を開いた者が誰であるのか、第1章で語ろうとしている。

●後藤文夫

後藤文夫は「東条内閣の国務大臣を務めた」男で、「A級戦犯容疑を解かれ」(18ページ)たのだそうだ。

次に登場するのは、元秘書官の橋本清之助、である。彼はのちに原子力産業会議の代表常任理事につく。

橋本清之助

橋本は、朝日新聞の田中慎次郎を招いて原子力に関する情報を集めはじめる。

田中慎次郎

田中慎次郎は、「尾崎秀実の上司」で「ゾルゲ事件に連座」し朝日を退社したが戦後に復帰。早くから原子力に関する情報を得ており、『原子力の国際管理』朝日新聞社調査研究室           (社内用、1949年)をはやくもまとめており、さらに、これからの時代に原子力発電が有効であることを主張するプラケット『恐怖・戦争・爆弾(法政大学出版局、1953年)の翻訳もしている。著書『原子力と社会』(朝日新聞社)も1953年に刊行している。

そして山岡は、ここに、学問界、政界の動向を結びつけようとする。

学問界においては、武谷三男が登場する。平和利用のための三原則をうちだすなど、慎重な姿勢を見せていたのに対して、山岡は、本心は、原子力研究がとにかくしたかったのではないか、とらえる。しかし彼は本書では脇役にすぎない。

そして政界。よく知られているように、ここで中曾根が登場する。彼がGHQに対して原子力研究の自由を許可するよう訴えたのが功を奏して、サンフランシスコ講和条約では、特に原子力研究は禁止されなかった、とする。

中曾根康弘

政界の動きにあわせて、学問界はそれまでの慎重論が後退し、積極的に動き出した人物がいた。これも当ブログではおなじみの二人、伏見康治と茅誠司である。

伏見康治
茅誠司

また、もう一人、よく分からない物理学者がいる。嵯峨根遼吉である。彼はこのとき米国に留学していた。のちに中曾根はカリフォルニアで嵯峨根と会っている。少なくとも中曾根に協力した人物ということになるだおう。なお、中曽根は米訪問で、キッシンジャーとも知己を得ている。

嵯峨根遼吉

そして、ここに「アトムズ・フォー・ピース」である。1953年アイゼンハウアーは国連総会で、これまでの方針を変えて、原子力研究を他国に開放することを宣言する。

これを受けて、1954年1月に、当時の経団連会長である石川一郎、そして、郷古潔、この二人が訪米し、嵯峨根のいるローレンス研究所を訪ねている。

石川一郎
郷古潔

郷古潔という人間は、「戦中は三菱重工業の社長を務め、東条英樹内閣の顧問として、艦船や兵器生産を指導した財界人」(47ページ)だそうである。

そして、例の、原子力予算については、中曾根は、以下の人物の協力を得ている。

齋藤憲三 
稲葉修 
川崎秀二

齋藤憲三は、TDK創設後政界に入った政治家で、稲葉修と川崎秀二は、改進党の議員である。

「中曾根がこしらえた予算で原子力利用の筋道がつけられた。しかし、これを事業化し、原子力発電を稼働させるには、もう一人の役者に登場してもらわねばならない。読売新聞の社主にして、CIAから「ポダム」の暗号名で呼ばれていた正力松太郎である。」(53ページ)

●正力松太郎

というように、
第1章は、これまでのいくつかの本でも述べられていたような内容が主である。続いて第2章に進む。

正力についても、もう、当ブログではさんざん書いているので、くり返したくない。山岡の趣旨だけを抜き出しておこう。

「正力にとって原子力は宰相の座を射止めるための武器であった。」(56ページ)

正力が「歯ぎしりして悔しがった」(59ページ)り、「ほくそ笑んだ」(60ページ)かどうかは、わからない。余談だが、どうやら山岡の持ち味は、こうした登場人物の表情を空想して書くことのように思える。

前述の橋本
清之助が、正力に入れ知恵をしたと山岡は考える。なぜならば橋本は関東大震災のときには、内務省警保局長であった後藤文夫の秘書として働いていたからである。後藤は、正力はそのとき警視庁官房主事だったから、上司にあたるわけだ。こうした人脈は、あとからふりかえると鮮明であるものの、そのただなかにいる場合は、意外と見えにくいものだ。本書はこうした隠された人脈を暴くのが得意である。

ここに、日本発送電の総裁の小坂順造が登場する。

小坂順造


橋本は小坂に原子力発電の可能性を伝え、
日本発送電解体後に、電力経済研究所を設立する。正力の秘書は橋本の甥であり、小坂と正力も親戚関係にあったという。

しかしこうした正力の熱意の源泉は、すべて自分が首相になりたいがためのものだった、と山岡はふんでいる。

こうした動きに続いて、ついに、先日読んだ、吉見俊哉「夢の原子力」が描いた、博覧会とマスメディアによる原子力平和利用キャンペーンがはじまる。

このあと、いかにして正力が政治家になり、原子力関連を牛耳る過程が描かれるが、それは省略しよう。

ここで、ちょっと興味がひかれたのは、河野一郎が登場する箇所である。河野一郎は、河野洋平の父であり、河野太郎のお爺さんにあたる。

米と英とで原発の売り込み合戦があり、結果的に英国の原発を購入することが決まったあと、受け皿を、国の特殊会社である電源開発と九つの電力会社の連合体とで競い合いがある。正力は九電力の側におり、あたかもそのまますんなりと決まりそうになったところで、河野一郎が意義を申し立てたという。

河野は結局、献金を得ることによって鉾を収める。しかし、これで正力の思惑通りになったかと言うと、そうではない。

英国からの原子炉の導入の過程で、さまざまな難題が押し寄せ、形はできたものの、政治家としてはその先につなげられず、結局、科学技術庁長官のポストを追われることになる。

しかし、正力がつくりあげたいびつな体制は、今なお続いている。どういう体制かというと、二つの集団がある。

・科学技術庁
  原子力研究所
  原子燃料公社
  研究炉
  核燃料関連

・電力会社と通産省の連合体
  日本原子力発電(英国の原子炉を東海村に導入)
 
また、本書で明言されているのは、最初の原子力開発利用長期基本計画において、最終ゴールが、増殖型動力炉の国産化に置かれていた、ということである。

つまり、その界隈においては、あくまでも英国や米国から輸入するのは、「つなぎ」にすぎず、大事なのは、このゴールだったようだ。

増殖動力炉は、当時においては熱中性子型増殖炉というものを目指していたが、その後高速増殖炉に切り替えられ、「もんじゅ」として、現在に至っている。

長い時間がすぎても、こうした原型は、そのまま維持されているというわけだ。

また、原子力の舞台をつくりあげた正力は、それができたとたんに追い出されるわけだが、そのあとがまを一手に引き受けたのが中曾根だった。

これも有名な話であるが、中曾根をはじめとした4人の議員はジュネーブの原子力平和利用国際会議に参加する。

前田正男
志村茂治
松前重義

自由党の
前田正男、社会党左派の志村茂治、社会党右派の松前重義、これに中曾根を加えた4人は、このあと、1955年から1956年にかけて原子力基本法をはじめ数々の法案を国家に議員立法として提出する。

つまり、ここには右も左もない。彼らは、日本の未来を、この原発に賭けたのである。

こうして、一度は正力が主役かと思われた第2章も、終わってみれば、中曾根が中心人物であることが、だんだんとはっきりしてくるのだった。

第3章では、田中角栄が登場する。

●田中角栄

しかし、それにしても、私たちはあまり意識しないが、政府が主導する増殖炉や国産炉の流れは、良くも悪くも、純粋に研究開発の追求がなされるわけだが、もう一方の産業界の方は、一体何をしようとしていたのであろうか。

最初に導入したのが英国の黒鉛ガスを使ったコールダーホール型原子炉は、経済面のみならず技術的にも問題が多くあらわれ、しかも当時は石油がもっとも注目を浴びるなかで、原子炉の意義が弱まっていたという。

1960年代以降、電力各社は、各地に原発を建設することを、まるで責務であるかのように、進めてゆく。

この流れと田中角栄とは、切っても切れない縁であった。ちょうど1960年代半ばからは、軽水炉が注目を浴びはじめる。二つのグループがある。

GE社グループ
 沸騰水型軽水炉(BWR)
 
東芝・日立系 
 東電

WH社グループ
 加圧水型軽水炉(PWR) 
 三菱原子力工業
 関電

両者の競争も激しくなり、原発は今や、一つの巨大な商品として、売りこみがかけられる。とくに試運転までの全行程分を
責任もって進め、しかも、価格を変えずに支払うという「ターンキー方式」によって、導入側はかなり気が楽になりなったようである。

話は田中角栄に戻るが、彼が新潟出身なのは有名であるが、同郷で理研の所長をしていた大河内正敏と偶然にも知りあう。理研といえば、長岡半太郎や仁科芳雄らを中心に1940年代前後の核物理学関連の研究における代表的機関である。

田中はこの理研で若い時代に、仕事がてら、いろいろと学んだという。

この理研における経験や人脈が、その後の日本列島改造論につながるというのだから、人間関係というのはおそろしいものだ。

田中は、柏崎の原発建設予定の土地を関係会社に買わせ、地上げされた利益を抜き取っていった。1960年から70年代においては、こうした田中方式によって、各地の原発地域が出現する。

他方で、科技庁のほうは、高速増殖炉、核燃料再処理、ウラン濃縮に力を入れる、現在からみるとよく分かるが、要するに、核武装が「潜在的」に可能となる技術ばかりに専心していた。

実際に内輪では、日本は、核武装をいつでも可能にしておくことが、至上命令であったようにみえる。

今でもさまざまな議論がなされるが、このことも、言わば公式には述べないが、事実であるようだ。

私たち国民にはそのことははっきりと知らされずに、「国家」は「自分」を他国から守るために、核武装を最初から選択していたのである。

つまり今、「脱原発」を掲げるということは、この核武装の道をも閉ざすことになるのだ。

だから、原発問題は、単なる平和利用の問題では全くない。

原発は、最初から、軍事利用を併せもっていたのである。

皮肉をこめて言えば、「核の平和利用」とは、こうした「核抑止力」をも含めて「平和」を維持するために役立てられる、という意味だったのだ。

この第3章、前半は田中角栄だが、後半に少し、佐藤栄作が登場する。佐藤栄作の場合、ノーベル平和賞を得ていることもあり、どうも原発と結びつきにくい。とりわけ非核三原則などもまとめていうこともあり、違和感を抱くかもしれない。しかし、実は米側とのきわどい交渉を進めた。

そのあとをついに首相となった田中が原発をさらに推し進める。1974年に電力三法の成立は、それまで民間企業にまかせていた原発の拡幅を、通産省が援助することになった。しかし折しも石油ショックが起こり、田中は世界中をまわって、エネルギー資源を確保しようと奔走する。そのために、米国に目をつけられ、権力の座を奪われる。ロッキード事件が起こった、と山岡はとらえる。

そして第4章。1980年代。ふたたび、中曾根の登場である。といっても実は田中角栄の時代においても中曾根は幹事長として権力のそばにいた。こうしてみると、中曾根が長期にわたって「原子力」に絡んでいることがよく分かる。

下北半島を原子力の「基地」にしようとしたのも、中曾根である。政府側の研究開発が進むが、同時に田中角栄がレールを敷いた各地における原発の増設も軌道にのり、当然のように数が増えていった。

中曾根のところでは、おもしろい人物が登場する。与謝野馨である。あの、与謝野である。東大在学中に中曾根から日本原子力発電を勧めら入社、その後、ナベツネの口添えで中曾根の秘書となり、後に自民党入り。民主党政権になった際に離党し、たちあがれ日本に合流するも、管直人が経済財政政策担当大臣にする。今年に入って喉頭がんを患い声も出ず政界から引退するもようである。

1990年代末から2000年代は、事故と不祥事に焦点があてられる。「日本の原子力を牛耳ってきた権力は、じわじわとくさっていた」(194ページ)と指摘される。

もんじゅの事故、動燃総務部次長の不審死、JCO事故など。ここに当時の福島県知事、佐藤栄佐久の一連の動きが紹介されるが、大半は彼の著作を読めばわかる話であり、以前ここに書いたので省略。

山岡は、本書の末尾で、こう書いている。当時の首相、安部晋三などを例にしつつ、「自民党の世襲政治家の胸奥には核武装への憧憬があるようだ」(209ページ)という理解をしている。

「原子力と核兵器開発は、政治という薄皮一枚で隔てられているにすぎない。」(211ページ)

このことは、先日読んだ、吉見俊哉の「夢の原子力」の「夢」のなかに、この「核兵器開発」も含まれていることを再確認させる言い方である。

また、電力会社、電事連、その他から出ている広告宣伝費が、マスコミの動きを封じたということが指摘される。これもまた、特に新しい話ではない。

現在のホットイシューとして、トリウム原子力発電所が話題にされる。キーワードは、レアアース、電気自動車、スマートグリッド。これについては、また別の機会に考えたい。

結局最後まで読みとおすと、原発に関して最大の力を発揮したのは、中曾根だということになる。彼は、政界の風見鶏であったかもしれないが、原子力に対しては、一貫した態度を示し続けた。

と、きれいにまとめたかったのであるが、これもみなさんご存知のように、彼は詞原発事故後、あちこちで、原発のもたらしたマイナス点を認めつつ、これからは自然エネルギーの時代だ、と簡単に言ってのけていた。中曾根、おそるべし、である。

なお、私としては、
たとえ中曾根をはじめとした政治家たちが、あれこれと何かを考え行動したとしても、私たちが、それに対して(暗黙であれ)同意していなければ、ここまでには至らなかった、という思いが強い。

山岡の考えでは、マスコミも広告宣伝で抑えられていた以上、原発を擁護することになったのであり、そういった情報統制のなかで、国民は自ら判断する力をもてなかった、と言うかもしれない。

しかし本当であろうか。

政治家たちの権力のための道具というだけではなく、私たちもまた、原発に何かを託し、何かを見ないようにして、これまでやってきたのではないか。

政治家だけを弾劾することは、結局、自分たちのいい加減さを誤魔化す言い訳の部分もあるのではないか。

犯人探しが可能なのは、殺人のような明確な因果関係がわかるものにかぎられる、と私には思われる。

とりわけ、日常の「バイオ・ポリティクス」においては、個人が問題なのではない。主体の選択や行動の問題ではない。「場」の問題なのである。



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