読んだ論考
佐伯啓思
「文明の危機と世界観の転換」

所収
危機の思想
西部邁・佐伯啓思:編
NTT出版
2011年8月

ひとことコメント
巨大地震や津波を「天罰」と言ったり「崇高」なものとつなげて論じる際に、カントの名前を持ち出す記述には、用心すべきである。カントは「崇高」概念を自然現象以外に適用させることを拒んだし、これを言いだす人の無責任さをも示唆している。デカルト以上にカントは「人間」(もしくは「主体」)の自律性と責任と限界を突き詰めたのであって、「神秘的なもの」に依存するような態度とは無縁であったことを強調しておきたい。


昨日書いたように、カントが「崇高」とみているものは、基本的には(第一には)、自然現象であり、言うなれば、「絶景」に近いものである。

自分は安全なところにいる、ということを前提とし、遠まきに「眺め」て、驚嘆するもの、それが「崇高」である。

厳密に言うとカントは、論考「美と崇高の感情にかんする観察」において、「崇高」には、三つの異なる種類があると説明している。

1 恐怖的崇高
2 高貴
3 壮麗

この第二の「高貴」という言い方が、確かに、佐伯の示そうと思うものを裏づけているようにみえる。

また、「崇高」の対象に基づいた分類では、次の二つを挙げていた。

1 数学的
2 力学的

「数学的」については、「絶対的に大であるところのものを崇高」(150ページ)と呼ぶといった説明がなされている。

この「大である」というのは奇しくも、ラテン語の「マグニチュード」を使っている。「数学的」と言っているが、つまりはスケールや規模のことを指し、そのうえで「絶対的に大」であることが崇高である。

「崇高とは、それと比較すれば他の一切のものはすべて小であるようなものである」(154ページ)

もう一つの「力学的」崇高については、佐伯が述べた「大海の嵐、暴風、激しい雷、瀑布、そそり立つ山々」(45ページ)のカントによる詳細な説明がある。

ただし、厳密に言うと、少し異なっている。カントが挙げている例を簡略化して列挙すると次のようになる。


・雷雲
・火山
・暴風
・大洋
・瀑布

ここでは佐伯はランダムに説明していると想像される。しかも「そそり立つ山々」という例はここには出てこない。

この場合、「そそり立つ山々」は、「力学的」ではないので、先に挙げた「数学的」崇高の事例にあたると考えられる。しかしカントは「数学的」崇高の説明では「そそり立つ山々」という事例を挙げているわけではない。類似したものとしては、少し先のところで、「中空に聳え立つ巨大な山塊」(188ページ)といった記述がある。どうして佐伯がこのような書き方をしたのかは不明である。 

さて、続いてここからがもっとも重要なところであるが、こうした「比類のない」「圧倒的な力をもった」自然現象だけが「崇高」の対象ではない。研究者のなかには、この2点に加えて、「高貴なもの」を加える場合もある(たとえば、Clewis, Robert, The Kantian Sublime and the Revelation of Freedom, Cambridge University Press, 2009.を参照)。この第三のものが、まさしく佐伯が述べようとしているものである。

3 高貴なもの

これと、数学的崇高の説明にある「絶対的に大(マグニチュード)」という説明をつなげて、佐伯は、

崇高=高貴=偉大(なる存在)

というものを構成してゆこうとしている。確かにカントもこう言っている。

「自然における美は対象の形式に関する、そして対象の形式を旨とするところは限定にある。これに反して崇高は、形式をもたない対象においても見出される、その場合に無限定性は対象において、或は対象を機縁として表象せられるが、いずれにせよかかる無限定性の全体が考えのなかで付け加えられるのである。」 (145ページ)

カントは「崇高」が、なぜか「自然」という形式をもった対象以外にも、形式をもたない対象にも向けられることがあり、いずれにせよ、その「感情」が「無限定」であるとする。

また、力学的崇高の記述においては、次のようなこともありうる、と述べている。これもまた「第三の崇高」を主張する人たちにとっては力強い援軍である。

「しかし我々は、或る対象に対して恐怖の念を懐いていなくても、その対象を恐ろしいものと見なすことがある。…有徳な人は、神を畏れはするがしかし神に対して恐怖の念を懐くことがない。」(173ページ)

しかも「崇高」は、必ずしもその悟性的認識である、形状や色、造作などにおいてのみ判断できるものではなく、むしろ、構想力や理性と結びついているからこそ懐かれるものである。

「或る物を崇高と判定する場合には、構想力を理性に関係させて理性理念と主観的に合致する、――換言すれば、或る種の心的状態を産出するのである。…真の崇高性は、自然的対象において求められるものではなくて、判断者の心意識においてのみ求められねばならない」(165ページ)

カントもまた、別の具体例を挙げている。「軍人」や「戦争」である。この場合の理由は次のように述べられている。

「臆せず恐れず、従ってまた危険を避けることなく、しかも同時に十分な思慮をめぐらして雄々しく事にあたる」(176ページ)

また、戦争については、「秩序を保ちまた国民法の神聖を認めてこれを尊重しつつ遂行される限り、やはり何かしら崇高なものを具えている」(177ページ)という。

それではやはり、私ごとき者の考えは浅はかで、佐伯の言うような「崇高」観が正しいのであろうか。

佐伯は、「自然の脅威」がただ恐怖や絶望を感じるだけではない、ということを強調する。

「しかし同時に人は理性と想像力をもって、この自然現象のなかに「崇高」な何かを見る。いわば「神的な作用」といってもよいだろう。そしてこの「崇高さ」に圧倒される時、人は理性と構想力によってこの自然現象を作り出している作用(法則)を認識できるだろう。」(46ページ)

カントは「地震」に関する論考を残しているが、そこにおいては、あくまでもそれを自然現象としてとらえるべきであると主張していた。そこに「天罰」や「崇高」をもちこんではならないのである。

カントは、人間が理性の力で自然現象にそれ以上のものを読み込む可能性があることを指摘している。


指摘してはいるが、それをことさら評価しているわけでも称揚しているわけでもなく、むしろ逆である。

カントは、端的に言うと、次の三つの領域を混濁させてはならない、と考えるのである。

1 自然
2 人間の観念
3 1と2を超えたもの

カントは、「2」人間の観念(つまり理性)が、「1」自然や、「3」自然や人間の観念を超えたものに思いを寄せるとき、「崇高」という観念が生まれる、と言っているのであって、「3」
自然や人間の観念を超えたものが、私たちにとってもっとも重要なものであるとは、述べていないのである。

「崇高とは、(自然における)或る種の対象――即ちその表象が感性においては到達せられ得ないような自然を理念の表示と思いなすように我々の心意識を規定する対象のことである。」(186ページ)


実際、カントは、この「崇高」に関する論考においても、次のように述べている。

「崇高が威力に帰せられるとなると、崇高の概念に関する私のかかる解釈に対して反論が唱えられるかも知れない、即ち――荒天、嵐、地震等の天変地異のなかに、怒りとなって示現しながら、しかしまた同時に崇高性を具えた神を目の当たりにするのが常である、このような場合に我々がかかる威力の作用に対して、それどころかかかる威力の意図に対して、我々の心が優位を保持するなどと思いなすことは、狂愚であると同時に権威をなみする罪過ですらあるだろう、という反駁である。」(177ページ)

つまり、地震を天罰とみなし、ひれ伏せ、という考え方があるが、カントはそれは間違っていると考える。

崇高とは、恐怖や不安によって引きだされるものあってはならず、「畏敬の念」に基づくべきものである。

「崇高性は自然の事物のうちにあるのではなくて、我々の心意識のうちにのみ宿るのである。」(179ページ)

少なくともカントは、地震や津波といった「災厄」を、しっかりと「自然災害」として認識することを第一に強調し、そのうえで、「崇高」という概念が、こう した「災厄」において使われがちではあるものの、むしろそれを「天罰」などと言って、政治論の文脈にずらしこむような思考に対して、厳しい批判を投げかけたといえるだろう。

もちろんカント自身とて、信仰を大切にしており、神への敬意というものがその思考にはいつもつきまとっていたので、無信仰な人間にとっては、ときにそのような態度がある種の不徹底さのように受け止められることもある。

しかし、殊にカントは、自然現象と神との関係性を厳しく分断していたことは、よく知られており、「崇高」という概念もまた、佐伯の言うような「崇高なる存在」をほのめかすような意味合いはもたないのである。

しかし、いずれにせよ、「崇高」とは、対象そのものに内在するものではなく、あくまでも人間が勝手にそう思ったものにすぎない。

「自然における対象そのものを崇高と呼ぶのは決して正しい言い表し方ではない」(146ページ)

むしろ人間がこのような「自然における対象」、そして佐伯のように「偉大なるもの=崇高なるもの」を「すごい!」と思って伝えようとすれば、そこに、理性によって獲得された「崇高」という観念は発生しうるのだ。

つまり「崇高」とは、私たちの心のなかにあるもの、なのである。

「崇高に対しては、その根拠を我々のうちに、即ち我々の心意に求めねばならない、――要するに我々の心意が、自然の表象のなかへ崇高性を持ち込むのである。」(148ページ)






 

 


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