ポスト3・11 変わる学問 気鋭大学人からの警鐘
河合塾 編
朝日新聞出版
2012年3月16日
本書の特徴はいくつかある。
1)登場人物が多い
2)テーマが多岐にわたる
3)あまりイデオロギッシュなところがない
4)登場する人物の年齢に幅がある(「気鋭」というのは年齢不問ということか)
1人あたりに割かれているページが少ないので、これをもって、少々ものたりないと思う人もいるかもしれない。
しかし、全体的には、新鮮な内容が多いので、ランダムに読んで、興味のあるものだけ、自分でさらに掘り下げれてゆけばよいように思う。
私としては、読み応えがあった。
ただ、どうだろうか。これが中高生向けというのは、少々納得がゆかない。
もちろん、専門分野の魅力を訴えるのは、悪いことではない。
しかし中高生には、むしろ、この機会に、もっとベーシックに、化学や物理学、生物学、地学、数学、がそのまま、自分たちが「ポスト3.11」を生き延びてゆくさいに必要な知恵であるとみなしてしっかりと学んでほしいし、文系の勉強も同じく、生きるうえでの「技術」であることを、もう一度呼び起こしてほしい。
学校。そこでは、どうしてこんなに学ぶことが多いのか。多すぎるのではないか。そう主張する人も少なくないし、私なども、あれほど多岐にわたる内容を詰め込むような「教育」が良いとは思っていないが、各論や計算や暗記などよりも、それぞれの「科目」が「サブジェクト化」したその意味について、もう少ししっかりと時間を割いて子どもたちに伝えてほしいと願う。
それがなされたうえではじめて、本書のような実例集みたいなものは、うまく機能するように思える。
そうでなければ、ただ、百花繚乱のさまに感嘆するだけになってしまうだろう。
それはさておき、とりわけ興味深かったのは、以下の内容だった。
藻が未来のエネルギーになるという渡邊信(生物学、64歳)の話。まだ実用化にはかなり時間が必要であるが、少なくともかなり具体的な見通しが述べられているのには、驚いた。
単純に、日本が「産油国」になるという発想が、もう、おもしろい。まるで錬金術のような話である。
石油代わりと聞くと、ついつい、石油をがんがん使ってしまうだけで、あまりよくないのではないかと思うのだが、そうではないようだ。
よく考えられていて、もちろんそれだけでエネルギーもしくは生存の問題がすべて解決するわけではないが、少なくとも、藻を増やすことで発生する二酸化炭素も大量に消費され、二酸化炭素排出量の削減にも貢献できるという。
こういう話を聞くと、理工系には、まだまだ「ファンタジー」があるのだな、と痛切に感じる。
だって、人文社会系なんて、せいぜい、おひとりさまの老後とか、終わりなき日常とか、動物化とか、怒る技術とか、なんとなくローカルな感じがする。あ、マイクロファイナンスとか、もう少しグローバルかつ根源的な問いをつきつけているものもあるかもしれないが、原子力エネルギーやこの藻油プロジェクトのような、発想を転換させて「新たな時代」をつくろうとする強い意欲が感じられない。
過去には哲学的な思考においても、いくつものそういったアクティブな試みが残されてきた。
プラトンの鉄人国家構想、デカルトの方法論的懐疑、カントの恒久平和論、ヘーゲルの包括的弁証法的世界(史)理解、ニーチェの超人論、そして、何よりも、マルクスのコミュニズム論。
マルクス以降、ダイナミックな社会イメージの提示というのは、なかなかみあたらない。
個人的には、大学に入って、最初に驚いたのが、大学の教官が、学校のない社会について考えてみよう、といった講義をしていたことだ。
学ぶということにあたって、現在の制度である学校教育は最善な制度(サービス)なのかどうか。正よりも負の生産性が高まっているとしたら、別の形を構想しなければならない、そういった発想こそが、学問の醍醐味であるだろう。
ただ、その「別の形=オルタナティブ」を明瞭な形で描けていなかったことが、今なお、歯がゆく思っている。
また、ここでも何度か述べているように、フーコーやボードリヤールの記述には、確実に20世紀社会の不可視のシステムの姿を私たちにつきつけた。
逸脱したものや異常なものを「正常」から分離し、それを「閉じ込め」「監視」したうえで「矯正」することで生産性を高めてきた社会。それがフーコーのつかまえた現代社会のイメージ。
そしてボードリヤール。彼は、逆に、不可視の体制を、エイズやインターネット、放射性物質の拡散などにみてとる。1970年代以降、次第に、可視の現実よりも、世界中につながっているネットワークと実際に拡散する見えない粒子、細菌、情報など、つまりはシミュラークルによって困惑する私たちの姿をとらえている。
それらの洞察は、とても鋭い。だが、やはりマルクスのような「社会イメージ」の構想力がない。
そのなかでは、ドゥルーズ=ガタリが描いた「リゾーム」がかなり未来志向なのだろう。
もしくは私たちが従来の思考の枠のなかでものごとを考えてしまっているから、リゾームが標語としては理解できても、リアリティのある未来社会イメージにまで焦点が定められないだけなのだろうか。
それとも、今構想されつつある未来像自体が、一義的ではなく、多様化を前提としているために、ビジョンやプロジェクト化しにくいのだろうか。
中沢信一の仕事は、この「ビジョン化」に近いのかもしれない。その意味では、貴重な人だと思うが、いつの時代でも「夢想」と「構想」は紙一重であり、誤解や混乱はつきものであるので、注意深く発言していってほしい。
中沢一人となると、その神秘性が閉塞化するが、これを複数にしてゆければ、違ったものとなるのかもしれない。
おそらくこれは、政治の停滞ともつながっているのだろうけれども、人文社会系のなさねばならないことの一つに、こうした「藻油」のような思考を、単一ではなく、複数化してゆくことが、挙げられてもよい。
河合塾 編
朝日新聞出版
2012年3月16日
本書の特徴はいくつかある。
1)登場人物が多い
2)テーマが多岐にわたる
3)あまりイデオロギッシュなところがない
4)登場する人物の年齢に幅がある(「気鋭」というのは年齢不問ということか)
1人あたりに割かれているページが少ないので、これをもって、少々ものたりないと思う人もいるかもしれない。
しかし、全体的には、新鮮な内容が多いので、ランダムに読んで、興味のあるものだけ、自分でさらに掘り下げれてゆけばよいように思う。
私としては、読み応えがあった。
ただ、どうだろうか。これが中高生向けというのは、少々納得がゆかない。
もちろん、専門分野の魅力を訴えるのは、悪いことではない。
しかし中高生には、むしろ、この機会に、もっとベーシックに、化学や物理学、生物学、地学、数学、がそのまま、自分たちが「ポスト3.11」を生き延びてゆくさいに必要な知恵であるとみなしてしっかりと学んでほしいし、文系の勉強も同じく、生きるうえでの「技術」であることを、もう一度呼び起こしてほしい。
学校。そこでは、どうしてこんなに学ぶことが多いのか。多すぎるのではないか。そう主張する人も少なくないし、私なども、あれほど多岐にわたる内容を詰め込むような「教育」が良いとは思っていないが、各論や計算や暗記などよりも、それぞれの「科目」が「サブジェクト化」したその意味について、もう少ししっかりと時間を割いて子どもたちに伝えてほしいと願う。
それがなされたうえではじめて、本書のような実例集みたいなものは、うまく機能するように思える。
そうでなければ、ただ、百花繚乱のさまに感嘆するだけになってしまうだろう。
それはさておき、とりわけ興味深かったのは、以下の内容だった。
藻が未来のエネルギーになるという渡邊信(生物学、64歳)の話。まだ実用化にはかなり時間が必要であるが、少なくともかなり具体的な見通しが述べられているのには、驚いた。
単純に、日本が「産油国」になるという発想が、もう、おもしろい。まるで錬金術のような話である。
石油代わりと聞くと、ついつい、石油をがんがん使ってしまうだけで、あまりよくないのではないかと思うのだが、そうではないようだ。
よく考えられていて、もちろんそれだけでエネルギーもしくは生存の問題がすべて解決するわけではないが、少なくとも、藻を増やすことで発生する二酸化炭素も大量に消費され、二酸化炭素排出量の削減にも貢献できるという。
こういう話を聞くと、理工系には、まだまだ「ファンタジー」があるのだな、と痛切に感じる。
だって、人文社会系なんて、せいぜい、おひとりさまの老後とか、終わりなき日常とか、動物化とか、怒る技術とか、なんとなくローカルな感じがする。あ、マイクロファイナンスとか、もう少しグローバルかつ根源的な問いをつきつけているものもあるかもしれないが、原子力エネルギーやこの藻油プロジェクトのような、発想を転換させて「新たな時代」をつくろうとする強い意欲が感じられない。
過去には哲学的な思考においても、いくつものそういったアクティブな試みが残されてきた。
プラトンの鉄人国家構想、デカルトの方法論的懐疑、カントの恒久平和論、ヘーゲルの包括的弁証法的世界(史)理解、ニーチェの超人論、そして、何よりも、マルクスのコミュニズム論。
マルクス以降、ダイナミックな社会イメージの提示というのは、なかなかみあたらない。
個人的には、大学に入って、最初に驚いたのが、大学の教官が、学校のない社会について考えてみよう、といった講義をしていたことだ。
学ぶということにあたって、現在の制度である学校教育は最善な制度(サービス)なのかどうか。正よりも負の生産性が高まっているとしたら、別の形を構想しなければならない、そういった発想こそが、学問の醍醐味であるだろう。
ただ、その「別の形=オルタナティブ」を明瞭な形で描けていなかったことが、今なお、歯がゆく思っている。
また、ここでも何度か述べているように、フーコーやボードリヤールの記述には、確実に20世紀社会の不可視のシステムの姿を私たちにつきつけた。
逸脱したものや異常なものを「正常」から分離し、それを「閉じ込め」「監視」したうえで「矯正」することで生産性を高めてきた社会。それがフーコーのつかまえた現代社会のイメージ。
そしてボードリヤール。彼は、逆に、不可視の体制を、エイズやインターネット、放射性物質の拡散などにみてとる。1970年代以降、次第に、可視の現実よりも、世界中につながっているネットワークと実際に拡散する見えない粒子、細菌、情報など、つまりはシミュラークルによって困惑する私たちの姿をとらえている。
それらの洞察は、とても鋭い。だが、やはりマルクスのような「社会イメージ」の構想力がない。
そのなかでは、ドゥルーズ=ガタリが描いた「リゾーム」がかなり未来志向なのだろう。
もしくは私たちが従来の思考の枠のなかでものごとを考えてしまっているから、リゾームが標語としては理解できても、リアリティのある未来社会イメージにまで焦点が定められないだけなのだろうか。
それとも、今構想されつつある未来像自体が、一義的ではなく、多様化を前提としているために、ビジョンやプロジェクト化しにくいのだろうか。
中沢信一の仕事は、この「ビジョン化」に近いのかもしれない。その意味では、貴重な人だと思うが、いつの時代でも「夢想」と「構想」は紙一重であり、誤解や混乱はつきものであるので、注意深く発言していってほしい。
中沢一人となると、その神秘性が閉塞化するが、これを複数にしてゆければ、違ったものとなるのかもしれない。
おそらくこれは、政治の停滞ともつながっているのだろうけれども、人文社会系のなさねばならないことの一つに、こうした「藻油」のような思考を、単一ではなく、複数化してゆくことが、挙げられてもよい。
- ポスト3・11 変わる学問 気鋭大学人からの警鐘/橋爪大三郎、佐藤文隆、本田由紀ほか

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