吉本さんが、亡くなった。

なぜか、かつて海水浴で溺れて以来、吉本さんは、すでに、「あちら」の世界に行ってしまったかのような錯覚にとらわれていた。

というのも、彼の著作というか対談集に、死の位相学というものがあって、そのなかで吉本さんは、死んだときに天井あたりから自分や遺族の姿を眺める風景にこだわっていたのだが、私には、なんとなく、吉本さんが、あのとき以来、その上空から私たちのことを眺める存在になっていたような気がしていた。

ところがそういった私の妄念とはうらはらに、吉本さんはそのあとも、もう本も満足に読めず、字もルーペを使って書くようになっても、「老い」に立ち向かい、どうってことないぜ、という姿勢を崩さなかった。

昨年来の震災、特に原発事故に対しても、あくまでも平静を装い、たとえ原発反対を叫ぶ人びとの反感を買っても、人間が造ったものは人間がそれを克服するしかないという考え方を、決して変えようとしなかった。

それは、第二次世界大戦後に、多くの知識人が手のひらを返して、「戦後体制」に即した主張を行ったことに対する憎悪と同じように、私たちに向けて響いてくる。

おまえたちは今までのうのうと原発のある社会で生きてきたくせに、それを受け入れていた自分を否定せずに、すべてひとのせいにしている。違うだろう。おまえが招いたものなのだから、おまえが最後まで責任をもって引き受けるんだな。それを「脱原発」とか言って、なかったことにするのは、おかしいだろう。

そう吉本さんが、上空から、叫んでいるようだ。

思い返せば、私の世代にとって吉本さんは、おそらく、まず、「反核異論」の人であり、「コム・デ・ギャルソン」の人であった。つまり、政治活動家たちの言うことを真に受けるな、ということと、一流の作品は、何も小説や絵画とかだけにあるのではなくマンガやファッションにおいてもある、ということを学んだ。

個人的には、共同幻想論に圧倒された。その文体、その姿勢、その構築力、完成度の高さ。「日本」というものを考えるときには、いつもこの本に立ち返ってきた。

いずれも、直接的な関係性をもたない、第三者的な立場であったが、三つ、吉本さんと近しいエピソードがある。

一つは、イバン・イリイチとの公開対談を、当時の新評論、藤原良雄氏が主催した際、観客として、参加したことであある。はじめて生の吉本さんをみる。この二人、まったくかみあわないどころか、吉本さんは完全に最初からキレて、イリイチの話を聞こうとしなかったのが印象的だった。吉本さんは文明批判みたいなものが嫌いなのだ。ああ、この人、意外と他人の話を聞かないのだな、と思ったものだ。ちょっと残念だった。相手の話をじっくりと聞いて、そのうえで反論するなり質問するかと思いきや、俺はおまえの話についていくつもりはない!と体じゅうが否定していたのを覚えている。具体的には、そっぽを向いたのだった。

二番目は、雑誌の編集の仕事をしていたときに、吉本さんのお宅に、お邪魔したことである。玄関に入るなりテレビの音声が聞こえてきた。噂にたがわぬテレビっ子。おおこれが当時、話題になったシャンデリア(室内の写真が雑誌に掲載されてシャンデリアがあるということで、吉本さんがブルジョア化したと非難した人がいたのだ)。和室に通されて初めてお話したときは、逆に、むしろ人あたりがよかったので、緊張の糸がほぐれて、ほっとした。あのときは、吉本さんにお会いできた、というだけで、有難さがあった。しかも、お茶まで淹れてくださった。全部一人でやるんだな、と思ったものだ。

三番目もまた、仕事絡みであるが、恩師である山本哲士氏があるとき毎月吉本さんをお招きして戦後50年について語りつくしてもらおうという会をつくった。それに、録音や撮影などで、おそらく5-6回は参加させていただいたと思う。確かこれは、すでに本になってまとめられていると思うが、このときは毎回、一つ質問をすると、えんえんと吉本さんが30分くらいひとり言のように喋る、ということを何度か繰り返し、結局3時間くらいほとんど一人で語るのを、ひたすら拝聴した感じだった。へとへとになるが、心地よい疲れだった。語る言葉が、そのまま「思想」となって吐き出されている、稀な人だった。「ぼくら」という主語を使うときが、ときどきあるのが、気になった。それから数年後である、吉本さんが海で溺れたのは。

あとは、ひたすら、作品を読んで、吉本さんと向き合った。これからも吉本さんは、私にとって、ぶれない思想家として、絶対的な力を持ち続けることだろう。

吉本さんは、本当に、骨太で、揺るがない、逞しい思想家だった。