私は~だから。
おれは~だ。

という言葉は、
自らの
アイデンティティを
言明すると
同時に、

ある他者が、
そのカテゴリーに
入らないことを、
暗に示す。

いや、
場合によっては、
他者を排除したり、
他者の価値を
貶めたいがために、
そうすることも
あるようだ。

たとえば、
私の場合、
自分が「日本」を
主張するのは、
せいぜい海外に
行って他国との
比較をする際
くらいであって、
ふだんは、
「日本」と「私」は
あまり積極的に
結合していない。

また、「男」と「私」も、
それほど、
意図的に
つなげることは、
まずない。

私にとっては、
「日本人」「男」
というのは、
理念上の、
言葉の上での、
何かを示している
ものでしかなく、
そこに自分の
思い入れが
あるわけでは
ない。

だが、
人によっては、
妙にこれらに
固執することが
ある。

この際の、
どうしようもなく、
それらを
頼りにするほかない、
そういう人も
いるのかもしれない。

そのやりきれなさ、
どうにもならなさ、
それを、否定したい
わけではないが、
冷静に考えてみて、
そういったアイデンティティは、
必ず他者を犠牲にして、
自分を救い出そうと
しているのではないだろうか。

これは、不可避か?

別の道はないのか。