馬場、鶴田、冬木、橋本、そして三沢。

プロレスラーの死。

試合中だけでなく、肉体を酷使した者たちの、
死。

鍛え上げることが、同時に、
なお一層死の臨界へと向かわせる。

プロレスは茶番とかやらせとか、
八百長とかリアルじゃないとか、
いろいろと言われた。

一方で、格闘技との対比による、
プロレスというものの意味への問いが、
より一層ハードな試合、ハードな技を
要請してきた。

おそらくその契機は、
間違いなく猪木にある。
(いや、猪木を悪く言いたいのではない、
しかし、その端緒をきったのは明らかに猪木である)

もちろん、三沢は、これまで何度となく、
くりかえし、くりかえし、戦い、
さらに、もう一歩、いや、まだ、もう一歩、
たえず観客を満足させるために、
おのれへの甘えを許さずに、一試合、一試合、
大切に生きてきたにちがいない

おそらく、どのレスラーよりも、先に向かったのでは、
ないだろうか?

もっと先へ、さらに、もっと先へ。

しかし、それが、突然、とだえる。

本当に、突然。

残された私たちには、何ができるのだろうか。

今は考えられないが、魂としての三沢光晴を、
これからも大切にしていきたいと、思う。

言葉にまだ、できない。

いや、なんとか言葉にしたいのだが、
この事態を十分に受け入れることのできない、
自分がいる。