第3章
夜の帳~その3~
注意:生々しい表現のため、怖い可能性があります。お気をつけください。
「ひぃいいいい」
絹田は、思わず悲鳴をあげた。
懐中電灯を手に、佇んでいた。
いや。
動くことが出来なかった。
が、正しいだろう。
502号室に到着した絹田は、ナースコールのあったベッドAへ向かった。
カーテンをさっとめくり布団へ近づくと、患者は絹田に向かって手をブンブン横へ振り、
「私じゃなくて、横、横のベッドの井上さん・・」と、指を指して訴えた。
どうやら、502号室の患者が、皆、ナースコールを一斉に押して井上さんのことを知らせてくれたようだ。
窓側にある井上さんのベッドへ向かう。
カーテンは、途中まで開けられたままだ。
そこには。
床に横たわっている人がいた。
懐中電灯で照らすと、暗闇の中でもぞもぞと動く人が、ゆっくりとこちらに手を伸ばす。
伸ばしたその手は。
血に、まみれていた。
「ひぃ」
そして。
じっとこちらを見つめる目元も、赤い液体で滴っている。
「ひぃいいいい」
あまりの驚きで、悲鳴がでた。
そのまま、動くことが出来ない。
それでも。
懐中電灯を握ったまま、ゆっくりと光を顔へ当てて照らす。
その人物は、井上さんだった。
意識が恐怖に支配されていたが、人物を特定できた時。
やっと。
患者さんだ。
助けなくては。
脳内でなんとか、指令を出す。
ポタ・・ポタ・・。
ピチャッ・・。
意を決して、
「大丈夫ですか?」
と、声をかけながら近づく絹田。
ピチャッ・・。
絹田の一歩は、確実に。
水溜まりへ足を踏み出した音。
だった。
(・・え?)
よく見ると。
それは、赤い水溜まりだった。
その時だ。
「絹田くん!動くな!」
「絹田さん!そのまま!近づかないで!」
ピシャリとした声に、足が止まった。
声の方を振り向くと、当直の佐藤先生と渡辺さんだ。
二人とも手にはゴム手袋をして、防護衣に袖を通しながら駆けつけきた。
ブルーの処置用シーツで素早く井上さんを囲む。
「先生、ここです」
「ああ、顔面は擦過傷だな。頭部の外傷は無し。ああ、口腔内が、切れているかもしれない。処置室へ運ぶぞ」
「先生!ルート、外れてます。ここからも、血液が」
「逆血か。点滴ルートを、すぐに抜いて。抜針部分、圧迫して。処置室で再度ルート確保」
「はい!」
「ストレッチャー持ってきました」
「よし。移動するぞ」
絹田は、何も出来ず。
その場で佇んでいた。
「絹田さん。しっかりして。あなた、血が付いているの。このまま、看護は出来ないから、ひとまずシャワーと着替え・・ね・・」
高橋さんが、そっと絹田に声をかけた。
でも、深夜勤は看護師3人。
途中で業務を抜けることは・・。
絹田が考えていると、
「絹田さん。まずは、感染対策です。あなた、このままだと何も出来ないでしょ?大丈夫。井上さんは、処置室で先生たちが対応しています。ほら、三枝先生も、いらしたわ」
見ると、研究棟にいた先生たちも駆けつけていた。佐藤先生がコールで呼び出したのだろう。
「わかりました・・」
絹田は、下を向いた。
ドラマでは。
血だらけの現場でも臆することなく患者を助ける場面をよく見るが。
実際は違う。
血の色も。
血の匂いも。
音も。
暗闇も。
何もかも。
実在する感覚だ。
絹田の五感全てに訴えて来るような。
リアルだった。
リアルな現場があった。
血が付いた状態は見た目の問題もあるが、それよりも問題なのが。感染リスクである。
絹田のナースシューズは、血の水溜まりで一歩動くごとに、赤い足跡がつく。ナース服も、血飛沫が飛んでいた。井上さんは、一般的な感染症は陰性だ。しかし、医療の現場において、血液はその全てにおいて危険汚染物だ。このまま動き回ると、その箇所すべてが、感染の恐れがある。
感染対策のため、スリッパへ履き替え、防護用のフットカバーをつける。使い捨てシーツで身をくるまれる。
その状態で、当直室のシャワールームへ追いやられた。
絹田が戻ると、処置は無事に終わっていた。井上さんは、そのまま処置室で朝まで過ごしてもらうようだ。
「ご迷惑をおかけしました。すみませんでした」
「大丈夫そう?仕事は、まだまだあるわよ」
「はい!大丈夫です!」
絹田は前を向いて答えたが、いつもより元気がないようだ。
それから。
仕事をしながら、今回の事件について高橋さんがわかっていることを説明してくれた。
絹田の予想していた通り、井上さんは、消灯後に喫煙所へ向かっていたそうだ。
しかし、いつもと違っていたのは点滴をしていたことだった。点滴をしながら、車イスを操作しても問題はないはずだが、ふとした瞬間に車イスの車輪に点滴のチューブが絡み付いて動けなくなったのだ。なんとか、一人で外そうとチューブを力まかせに引っ張ると、接続部が緩み、ポタポタと漏れだし慌てた井上さん。なんとか、部屋に戻ったが・・。
「ベッドサイドの引き出しを座ったまま開けようとして、転げ落ちたそうよ」
「鍵付きの引き出し・・ってことですか」
「そう。持っていたタバコを隠してから、看護師を呼びたかったみたいね。」
点滴チューブは、車イスの車輪に接続部分が引っ掛かり途中で外れていた。そのため、点滴の薬液がそのまま流れ出し水溜まりを作っていたのだ。点滴は、薬液のボトルと患者の血管をチューブで繋ぎ、ポタポタと滴るように血管へ薬液を注入する。途中で外れているということは・・・。患者の血管内に留置されている点滴チューブから、そのまま 床に向かってポタポタと血液が流れ出ていた。流れ出た血液は、薬液と混ざり、赤い水溜まりを形成したのだ。
その赤い水溜まりに、絹田は無防備に踏み込んだのだ。
そう。
どんな急変でも、感染対策は怠ってはならない。自分のためにも相手のためにも。
実際、完全防備の佐藤先生と渡辺さんは、落ち着いて対応していた。
これが、医療現場・・か。
(私、ダメダメじゃん・・)
つづく。