シンプルに、タイトル通り・・。
一週間近く寝込んでいました。
・・・食欲ゼロ。
こんこんとただひたすら眠っておりました。
お仕事は全部キャンセル。
でも身体のシステム回復してきたのか、昨日から名探偵コナン三昧をしています。
明日の日曜日のワークも順延にさせていただいたので、
明日まで養生を兼ねてコナン三昧しよう。しめしめ。
しかし、よく寝ました。
月曜日に体の不調を感じた時に、もしや・・と思ったのだけど、
どうやらすべてを停止しても身体と向き合う必要があったようです。
身体と・・・つながるエネルギー体のリカバリー作業。
そして命の動力源の新しいスイッチを押す作業。
こんなことは久しぶり・・・何十年ぶりだったので、
よっぽど必要に迫られていたのだと思う。
覚えておこう。
そして、もしも響く人がいたら覚えておいてください。
もしも。
たとえ、神仏がその命を育み守り、こよなく愛したとしても、
命の動力源のスイッチを押せるのは自分しかいないのだということを。
そしてそのスイッチは、
「ありがとう」なのです。
ありがとうのまたの名を感謝。
そして、愛。とも。
まぁ、ちょっと今回はきつかったけれど、
「これで良い」
そうきてるから、良しということだな。
・・これだけ酷いのがあるとしたら、次回は23年後ぐらいでしょうかね。
・・・体力持つかな。
笑
<<いつだったか、話したことから>>
いつもブログに書いているけど、
ていねいであることを大切にしています。
ていねいって、そこに心が添えられているから。
なので気配りや、気遣いや心配り。
みんな、そう。
届けるもの、伝えるもの、ていねいに。
放つもの、生み出すもの、ていねいに。
ていねいさはいろんなところに、
どの一瞬も、そう。
これは、気づきの瞑想「ヴィパッサナー瞑想」と同じです。
それを、生活レベルで行えるかどうか。
(瞑想初心者は瞑想をしている時だけ、瞑想をしますが、熟練者や真に瞑想を体得した者は、目覚めていても、常に瞑想をしています。歩いている時、仕事している時、おしゃべりしている時。どの瞬間も。・・それを体得している者ならばそのはずです。)
気づきながら、心を添えてゆくこと。
それが、「ていねい」に。
そこには、「雑」はありえない。
ただ、間違いやすいのは、「几帳面」であること。
ていねいと、几帳面は質が違うものです。
ていねいには、心が添えられるから、そこに柔らかさや温もりが生まれます。
几帳面は・・時に自分を苦しめることもあるかもしれない。
「ていねいな人ね」
「几帳面な人ね」
この違い、わかるでしょうか?
私は自分のことを、几帳面だとは思っていません。
もちろん几帳面なところもいっぱいあります。
だけど、「ていねいさ」はとても大切にしています。
そして、そのていねいさは、美しく整えられた「形」ではなく、
そこに添えられる・・「心」・・なのだと思っています。
形は、オリジナルが好きです。
私らしい遊び心のあるものが。
柔らかく、伸びやかに遊び心を持って
自分という宇宙でたった一輪の花を
ていねいに咲かせることを楽しんでる。
と、これがあの時の答えです。
当時は説明する時間がなかったので。
伝わるといいな。