幕末の長岡藩家老であった河井継之助に関する史跡や碑はたくさんあります。長岡市内には悠久山公園の「河井継之助の碑」をはじめ、長岡駅北の「河井継之助記念館」、前島神社の「開戦決意の地」、「長岡藩本陣跡」などがあります。
また長岡以外の小千谷市や見附市にも、河井継之助に絡んだ史跡が実に数多くあります。
昨年は継之助を主人公とした映画「峠 最後のサムライ」(役所広司さん主演)が上映されましたが、そのロケには多くの長岡市民がエキストラとして協力したようです。それほど継之助は地元では偉人、英雄として尊敬され、崇められているようです。
米百俵の小林虎三郎、戊辰戦争後の長岡を復興させた三島億二郎と共に「長岡維新三傑」の一人と言われていますので、ある意味、当然と言えば当然かもしれません。
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ところが、長岡市内に眠る継之助の墓石をみると状況はそう簡単でないことが分かります。継之助(河井家)のお墓は長岡藩主牧野家の菩提寺である栄涼寺にあります。ここには三島億二郎など長岡藩出身の名士が多く眠っています。
継之助のお墓は会津、只見、そして長岡の3カ所にあるようです。そして前者の2カ所はともかく、長岡の栄凉寺のお墓を見る限りにおいては、継之助は単なる偉人・英雄でなかったことを実感します。
実はお墓を訪れる前に、司馬遼太郎の短編「英雄児」(1964年)や資料等で継之助の墓石は「多くの人によってムチ打たれ、倒され、いまは無残としかいえない姿」にあると聞いていました。
なぜなら、継之助は優秀な藩政改革者だっただけに反発者も多く、また北越戦争を起こして長岡を荒廃させた張本人として、特に家族を亡くした者たちによって恨まれていたからです。
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栄凉寺の本堂を右に見て、北に向かって河井家の墓所に近づくと、墓石群の手前に異様な墓石が建っているのに気付きます。形そのものがかなり古いのに加え、表面が無残にも崩れ落ち、2つに割られた墓石を接続した跡も確認できます。
河井家の墓所には墓石が4基あり、そのうちの2基は「河井家墓」とはっきり読め、もう1基はおそらく「先祖累代墓」だと思われます。それら3基はそれほど古いものとは思えないことから、南の朽ちた墓石が当時の継之助のお墓だった可能性があります。ただし、案内板にはどれが継之助のお墓であるかは明示していません。あえて明確にしていないような気もします。
戊辰戦争後、継之助の遺骨は会津から長岡へ送り届けられ、河井家の墓がある栄凉寺に埋葬されます。しかしその後、継之助の墓石は彼の藩政改革に反発する者や長岡を荒廃させた張本人として恨む者たちによって、何度も倒されたと伝わっています。英凉寺の話では、それは今から50年ほど前まで続いたようです。つまり継之助への恨みは100年もの間、続いたことになります。
そうした行為がなくなったのは、継之助を主人公とした司馬遼太郎の小説「峠」(1968年)がベストセラーとなってからのようです。「峠」によって継之助の考え方や生き方に共感し、評価する声が広がり、好意的に捉える人が増えていったようです。ただ、継之助の人物を賞賛する声が高まる一方で、戦争責任者として継之助を非難する言動は現在でも続いているようです。
英凉寺のお墓を見た翌日、河井継之助記念館を訪れ、そこにあった朽ちた継之助のお墓の写真を見て、やっぱりこれだと確信しました。そして、記念館の方に「これだけの偉人・英雄なのにどうしてお墓は朽ちたままの状態なのですか?」と聞いてみました。
すると「市の管理ですから何とも言えませんが」と前置きしながらも、「恨まれている部分もまだ残っていますから、あえてそのままにしてあるのでは…」という話でした。
ということからも、私が見た朽ちた墓石は継之助のお墓であることは確かなようです。ただ、多くの案内書やネットなどで見る継之助のお墓は、「先祖累代墓」と刻まれた墓石が多くなっているようです。
もしかしたら、継之助の遺骨はいまは「先祖累代墓」あるいは「河井家墓」の中で眠り、朽ちた墓石は史跡として残されているだけなのかもしれません。不要な墓石ならば撤去すればよいのに、あえて置いているのはそういう理由があるからだと考えられます。
河井継之助記念館の初代館長を務めた郷土史家の稲川稲川氏(2019年逝去)は、継之助のことをこう指摘しています。
民を救うと言ったにもかかわらず、自ら戦争をして
長岡を焼いてしまった。
批判されるのも仕方ないとしつつ、和平の外交が駄目に
なれば戦争で白黒を決めるしかない。
そういう時代背景を考えないと継之助の評価はできない。
ちなみに旧稲川館長は継之助嫌いだったそうで、自分を館長にしたのは「継之助に批判的な市民からの批判を抑えることを当時の市長が意図した可能性がある」と推測していたそうです。
只見の河井継之助記念館が1973年に開館したのに対し、長岡での開館は33年後の2006年です。これも批判的な長岡市民の声を無視できなかったからといえそうです。
こうしてみると、死してもなお「正義とは」「信念とは」「生きるとは」「サムライとは」などを、現代の我々に問いかける河井継之助のようです。