力士像と回向院 | オ~イパンダのブログ

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日頃、感じたことや知ったことを気ままに綴ります。

JR両国駅の西口に「力相撲」という名の像があります。四頭身くらいの可愛い感じのする力士が組み合っている像です。両国は大相撲のメッカですから当然かもしれません。(^o^)

 



「力相撲」

 

 

国技館通りの歩道に立つと、横綱土俵入りの「柏手を打つ直前の力士像」を確認できます。下には手形が見えます。

 



柏手を打つ直前の雄姿

 

 

その力士像につられて南下すると「四股前の横綱像」、四股から「せり上げってくる不知火型の横綱像」、そして「雲龍型のせり上がりの横綱像」を見ることができます。

 



四股前の横綱

 


なお、横綱土俵入りの型には「雲龍型」と「不知火型」の2種類があります。それぞれ「雲龍久吉」と「不知火光右衛門」がおこなっていた土俵入りの型を起源とされているそうです。


2つは「せり上がりの型」や「綱の締め方」に違いがあり、せり上がりの型の違いとしては1回目で四股を踏んだ後、せり上がりの時に右手のみを伸ばすのが雲龍型、両手を伸ばすのが不知火型です。

 



不知火型のせり上がり

 


ただ実際には動作の細かい部分などで、指導する親方や横綱自身のアレンジなどによって異なっており、完全には2つの型に集約できないのが実状のようです。

 



雲龍型のせり上がり

 


雲龍型のせり上がり力士像を堪能した後、ふと南を見ると、かつて勧進相撲が行われた回向院の山門が見えます。回向院は1657年(明暦3年)に開かれた寺院です。

 



回向院の山門

 


明暦3年3月2日、江戸三大大火のひとつ「明暦の大火」(振袖火事)が3日間に亘って発生し、市街の6割以上が焼土化、10万人以上の尊い人命が奪われます。その多くは身元や身寄りの判らない人々だったといいます。

そこで当時の将軍家綱は、無縁仏を手厚く葬るようにと隅田川の東岸に土地を与えてお堂を建てさせます。これが回向院の始まりです。

その後の回向院は、浮世絵士の山東京伝、義太夫節を創った竹本義太夫、鼠小僧次郎吉など著名人の墓がある寺院として知られ、多くの町民が参拝していたそうです。

 



並ぶさまざまな供養塔

 


そうしたこともあってか、江戸後期(1768年)には勧進相撲が回向院境内で初めて行われます。以降、勧進相撲興行の中心は回向院とされ、ここの境内で開催された勧進相撲(回向院相撲)が今日の大相撲の起源となり、明治42年に旧両国国技館が建てられるに至っています。

 

 

ちなみに「勧進相撲」とは、寺社の造営・修復に要する費用を捻出するため開催された相撲のことです。神社の祭礼に相撲が行われることが多かった「神事相撲」にあやかり、「勧進相撲」と称して興行をすることが常態化したようです。

勧進相撲は戦国時代から行われていたとされ、江戸時代初期も都市部を中心に全国各地で行われ、特に京・大坂・江戸の三都相撲が盛んだったようです。ところが社会の風紀を乱すなどの理由から禁止されてしまいます。しかし相撲人気は衰えず、幕府も勧進相撲を認めるように転換していきます。

再開された勧進相撲は、深川の富岡八幡宮、湯島の天神社など各所で開催され、この段階では回向院は多くの開催場所のひとつに過ぎませんでした。ところが天明年間(1781年~)から回向院での開催が多くなり、天保4年(1833年)以降、江戸における大相撲の開催場所を独占するようになり、今日の大相撲の本流となっていきます。

なお「勧進元」という呼称は、形式的にではあるものの昭和19年まで残り、その名残りとして地方巡業の主催者のことを勧進元とよぶことが多くなっています。

 



境内の「力塚」

 

 

昭和11年、大日本相撲協会(現、日本相撲協会)が物故力士や年寄の霊を祀る大きな「力塚」を建立します。また、回向院の入口には境内に建設されていた旧両国国技館の案内もあります。

このように、現在も相撲と回向院のつながりには強いものがあるようです。

 



旧国技館の案内

 


土俵入りの力士像は、両国駅から南に向かって数か所に建立されていました。もしかしたら回向院を目指して作られていたのでしょうか。