伊奈神社(須走) | オ~イパンダのブログ

オ~イパンダのブログ

日頃、感じたことや知ったことを気ままに綴ります。

ここは富士山の須走にある伊奈神社です。伊奈半左衛門忠順(ただのぶ)を祀っています。実は最近まで伊奈忠順という人物を知りませんでした。

 



伊奈神社
「須走浅間神社」から東へ半キロほどの所にあります。

 


少し前、新田次郎の小説「怒る富士」を読み、主人公の伊奈忠順に大いに感動、感銘。そして作品の最後にこの神社の記載があり、無性に行きたくなって来たものです。^_^;

 






伊奈忠順像

 

 

富士山の宝永の大噴火(1707年)は関東地域に大被害をもたらしましたが、特に酷かったのがここ須走地区です。災害対策の最高責任者だった伊奈忠順は酒匂川の砂除けや堤防修復などに従事しますが、同時に幕府から見捨てられたこの地区59村の救済に命を懸けて尽くします。

 



境内は清掃が行き届いています。    

 

 

復興開始から4年後、忠順は事業半ばで死去します。40歳前後と云われています。飢餓に苦しむ村人を救済するために幕府の意向に逆らって罪を受けたとも、自ら切腹したともいわれています。小説では後者です。

「怒る富士」の最後にはこうあります。(要約)


  駿東郡北部の諸村では伊奈半左衛門忠順の徳を慕って
  処々に小祠を建てた。その当時は幕府の目をおそれて
  参拝は一人ずつこっそりしたということである。


  現在小山町須走下原にある伊奈神社は分散していた
  伊奈神社を合祠して昭和32年に建てたものである。


富士の大噴火による復興には30年以上の歳月がかかりますが、忠順の救済により救われた農民たちはその遺徳を偲び、小さな祠を建て、その後、須走村に伊奈神社を建立し忠順の菩提を弔ったのでした。大正時代になって忠順の業績を称えて従五位下に叙せられています。




晴れていれば、本殿の背後に富士山がそびえています。

 

伊奈家の先祖は室町時代に長野県の伊那に居を構えており、そこから「伊奈」という名を使い始めたようです。その後、三河に移って松平氏の家臣となり、徳川家康の江戸入国に従った伊奈忠次は代官頭(関東郡代の前進)となり、徳川氏の関東領国支配の中心的役割を担うことになります。

伊奈忠次は関東を中心に各地で検地、新田開発、河川改修を行い、江戸の繁栄をもたらします。また武士や町民はもとより農民に炭焼き、養蚕、製塩などを勧め、桑、麻、楮などの栽培方法を伝えて広めたため、農民たちからも「神様仏様伊奈様」と神仏のように敬われていたといいます。

特筆すべきは、利根川や荒川の付け替え普請(利根川東遷、荒川西遷)を実施したことでしょう。60年という親子三代にわたる大工事でしたが見事に成し遂げています。
2年目の冬、利根川が「江戸川」と「利根川」に分かれる野田市の関宿に行きましたが、そこにある関宿城博物館では当時の状況を詳しく知ることができます。

 


 


なお、忠次の孫「伊奈忠克」は祖父「忠次」、父「忠治」の仕事を継いで関東郡代として治水工事、新田開発をおこないます。そして、江戸初期における利根川東遷事業がはじめの完成を見たのは忠克の代のことでした。また玉川兄弟と共に江戸への水供給水道である玉川上水の施工に、父の後を受けて水道奉行として加わっています。

蛇足ながら、関東各地に残る備前渠や備前堤と呼ばれる運河や堤防はいずれも忠次の官位「備前守」に由来しているそうです。また、埼玉県の伊奈町は忠次が町名の由来で、次男「忠治」の名もつくばみらい市伊奈地区(旧筑波郡伊奈町)の由来となっています。

 



いまも須走地区を見守っているかのようです。



忠克の2代後(忠次の4代後)の「伊奈忠順」は、1698年の将軍綱吉の50歳の誕生日を記念して架けられた深川永代橋の架橋工事をはじめ、深川埋め立て工事(1700年)や江戸本所堤防修築(1704年)、浅草川治水工事(1705年)などの工事を担当しています。

こうしてみると家系として伊奈家は測量や土木に強く、また実直な性格を引き継いでいたようです。そして「代官のための農民ではなく、農民のための代官」であろうと務めた人物のようです。

 




もう300年も前のこととは言え、日本人にこのような頭の下がる思いの人物がいたことを大いに誇りに感じます。そして嬉しく感じると共に、「正しく生きることの大切さ」を改めて考えさせられます。