久地円筒分水 | オ~イパンダのブログ

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日頃、感じたことや知ったことを気ままに綴ります。

 
川や用水などの流れる水量を、例えば1:2:3:4の割合で4つに分水するとしたらどういう方法があるでしょうか。
 
普通に考えれば流れを堰き止めて、その比率に応じた幅の4つの水門を作れば良いと思い付きます。しかし、この方法では流れが偏ったりすると正確な分水が保てなくなります。そうなると分水先では公平な水量の確保ができず、水騒動が起きてしまいます。
 
 
明治43年当時の久地分量樋
 
ここ川崎市高津区の久地に、かつて「久地分量樋」(くじぶんりょうひ)がありました。江戸時代に造られたもので昭和16年まで利用されていたものです。多摩川から取水されて流れてきた二ヶ領用水の水を、流域耕地面積に応じて4方向(久地堀、六ヶ村堀、川崎堀、根方堀)へ灌漑面積に比例した木製の樋(水門)によって分けるものです。これにより流域の広大な水田を潤し、近世川崎地域の生産力を高めます。
 
しかし、その後も水量をめぐる争いが絶えませんでした。正確な分水ができなかったことに加え、日照りなどの際に農民が自分の地域への用水量を増やすため、分量樋の他の地域への流れをふさいだりしたからです。
 
二ヶ領用水「久地分量樋」(くじぶんりょうひ)跡
 
  久地分量樋は、多摩川から二ヶ所で取入れられ、久地で合流
  した二ヶ領用水の水を、4つの幅に分け、各堀ごとの水量比率
  を保つための施設で、江戸時代中期に田中休愚(丘隅)によっ
  て作られました。そして、昭和16年(1941年)、久地円筒分水の
  完成により役目を終えました。
 
「久地分量樋跡」碑
 
そこで考えられたのが円筒分水という装置で、より正確な分水を求めて現在の「久地円筒分水」が築かれました。昭和16年のことです。また同時期に、余剰の水を新平瀬川に流す施設も造られたことから久地分水樋はその役目を終えます。
 
なお、かつての久地分量樋の遺構は残っていませんが、そこには「二ヶ領用水久地分量樋跡」の碑が建てられています。久地円筒分水より少し上流の二ヶ領用水に沿った所です。
 
久地分量樋があった二ヶ領用水
 
ちなみに、多摩川の中野島から取水する二ヶ領用水は、江戸初期に幕府代官の小泉次太夫によって約14年の歳月をかけて完成しています。その後、さらに宿河原取水口も新設し、灌漑面積を増加させています。
 
 
新たに造られた「久地円筒分水」では、サイフォンの原理を利用して円筒中心部に水を湧き出させ、その水が円筒外周部から越流・落下する際に一定の割合で分配させる仕組みとなっています。
 
 
具体的には、二ヶ領用水から取り入れられた水は平瀬川の下(地下)を潜り、噴き上がってきた水を円筒の円周比により四つ堀に分水し、各堀へ正確に用水を供給しています。つまり、円筒の外縁部に設けられた仕切り間隔の比率で、用水が正確に分水されるようになっているのです。
 
 

またこの構造は、分配される水量が外観から把握できることから、流量を勝手に変更するような不正が行われにくいともいえます。
 
 
 
この久地円筒分水は当時(昭和16年)としては大変優れた自然分水方式だったことから、各地で同様のものが築造されます。そして、その歴史的な重要性や全国に広がる初期の円筒分水の事例であることから、平成10年(1998)に国の登録有形文化財に登録されています。
 

国の登録有形文化財碑
 
傍には設計を手掛けた「平賀栄治顕彰碑」や土木学会の「土木遺産」認定碑なども見ることができます。
 
二ヶ領用水400年・久地円筒分水70年記念
平賀栄治 顕彰碑
 
  この世界に冠たる独創的な久地円筒分水は、平賀栄治が設計
  し手がけたもので、1941(昭和16年)に完成した。
  多摩川から取水された二ヶ領用水を平瀬川の下をトンネル水路
  で導き、中央の円筒形の噴出口からサイフォンの原理で流水を
  吹き上げさせて、正確で公平な分水比で四方向へ泉のように用
  水を吹きこぼす装置により、灌漑用水の分水量を巡って渇水期
  に多発していた水争いが一挙に解決した。
 
  平賀栄治は1892年(明治25)甲府生まれ。東京農業大学農業
  土木学科を卒業し、宮内省帝室林野管理局、農商務省等の勤
  務を経て、1940年(昭和15)に神奈川県の多摩川右岸農業水
  利改良事務長に就任。多摩川の上河原堰や宿河原堰の改修、
  平瀬川と三沢川の排水改修、そして久地円筒分水の建設など
  に携わった。
  川崎のまちを支える水の確保に全力を捧げた「水恩の人」は、
  1982年(昭和57)89歳の生涯を閉じた。
  
2010年3月27日     
 
 

久地円筒分水の西側には、南から北へ平瀬川が流れています。平瀬川の向こうには二ヶ領用水が西から東に向かって流れてきており、堰を介して平瀬川に合流します。しかし、よくみると堰の南側に取水施設のようなものが見えます。そう、ここから水をトンネル水路へ誘導し、平瀬川の地下を通って円筒分水に導いているのですね。
 
二ヶ領用水の堰と円筒分水への取水施設
 
地下のトンネル水路の長さは約40mといったところでしょうか。見た目にはもう少しあるように思えますが、案内用の断面図を見るとその位のようです。深さはどの位でしょうか? 説明がみつかりませんが、断面図の寸法からすると地下10mといったところでしょうか。
 
地下のトンネル水路を通って円筒の下まで来た用水は、そこで上に向かって湧き出ます。円筒の真ん中の円が直径8m、越水の外縁部は直径16mあるそうです。用水は一定の比率で分けられたその16mの外縁部を乗り越えて、それぞれの堀へ流れていきます。
 
 
この久地円筒分水を偶然に見たのはもう15年程前になります。見たくなって久し振りに寄ってみました。円筒分水は自然の原理を利用しているため、電気エネルギーなどを使わないばかりか排気ガスなどもない優れものです。環境にもやさしいといえます。
 
ここ久地円筒分水を参考に、今でも全国各地で円筒分水が使われているようですが、中でも久地円筒分水は規模が大きいようです。そのせいか周囲は整備され、ちょっとした小公園となっています。ぶらりと寄るには最適といえます。
 
 
こうした久地円筒分水を眺めていると、改めて先人の考えたことに本当に頭が下がる思いがします。そして、「考えること」と「知恵を持つこと」の大切さを示唆されたような気がしています。(^o^)