茶太郎どんと蚤の夫婦 大洞 醇
あるひどく息苦しい夜、トジル氏は目覚めて間もなく、耳の近くで上がる、きわめて小さな話し声に気づいた。常夜灯に浮かぶ部屋の様子は何時もと変わりがなく、ベッド脇では茶太郎の腹が膨満と収縮を繰り返している。小さな入り江の波のように精気がない。トジル氏に拾われてかれこれ七年になる老犬で、それまでの生育歴は不明だが、獣医師は先日、この子はあの頃もう七、八歳だったから、今では十四、五歳になるのではないか、こう言いつつ歯周病の手当てをしてくれた。その茶太郎のあご骨辺りで、一対の蚤の夫婦がトジル氏の聞き耳など警戒せず、しみじみと語り合っているのだ。
「このあいだ茶太郎どんの歯を診に来た医者がいったこと覚えてるかい」
「もちろんですよ。忘れるものですか。あなたは多くても十だろうと言っていたけど、とんだ見立てちがいだったわね。あれから私心配になったから、この犬の身体の尻尾の先まで津々浦々、半日ほどかけて、それこそくまなく歩き回ってみたの。結局、誰にも会わなかったわ。蚤の卵すら見かけなかった。もちろんシラミどんにも会わなかった。それは当然ですよね、犬の十四、五歳といえば、大変な長生きですから、みんな逃げちゃって、この犬で暮らしている間抜けは、私たち夫婦だけというわけよ」
「なんだよ、そんなことしてたのか、お前さんにも若い男ができたと思って、ワシは淋しかったな。それにしてもワシ等は羽化してこのかた、トジルさんの孫娘に可愛がられてる華ちゃんを棲み処に、毎日幸せに暮らして満ち足りていたのに、どんな子細あってこんな老いぼれ犬に棲み替えたのかなぁ」
「あなたもうお忘れですか。彼岸の中日に華ちゃんが、絵心ちゃんのお供でこの家に来て、数時間滞在したときですよ、この老いぼれ犬に悪戯れついた私たちの犬が、あんまり激しく尻尾振ったものだから、先端で気分よく居眠りこいてたあなたが、不覚にも転落したのよ、憶えているわね」
「そんなことがあったのかね。まあ、老いぼれていることにかけては、ワシ等も茶太郎どんに引けは取らないぞ。だからある程度物忘れが酷くなっても仕方がないさ」
「その上あなたは着地に失敗して、床板に頭をしたたかぶっつけて気絶したのよ。これもお忘れかしら」
「ワシは気絶してたからね、自分のことなんか、何も自覚していなかったわけさ」
「ふん、物忘れが激しいくせして、屁理屈だけは達者なんだから」
「屁理屈だけはなんていわないでくれよ。ワシはまだまだあっちの方だって現役なんだぜ、お前さん、お忘れかい、さっきの愉しかったことは」
「あらあら、ますます口が達者なこと、あなたの達者なのは口だけだわ。そんなことより、私の心配は茶太郎どんの余命です。立ち上がるときの身体の慄えを思い出して下さいな、あなたは昨日、危うくまた落っこちそうになったのよ。そうそう、獣医師はトジルさんに、お盆前にはお迎えが来る可能性があると言ったのよ」
「そうだったか、トジルさんも一巻の終わりということか。それにしても犬の医者に診てもらうとは、いくらなんでもセコすぎるなぁ、立派なことを言う方だと惚れ込んでいたのに、まったく見損なってしまったよ。毎日テレビで取り上げている、東京というところの知事みたいじゃないか。トジルさんは飽きもしないでみているよ」
「朝から晩まで、いやいや、深夜まで、同じ話をやってるわね。人間たちには大きなことなんでしょうけど、公私混同なんて、わたしたちにはどうでもいいことよね」
「ありゃりゃ」トジル氏は喉の奥で呟いた。
「獣医に診察してもらったなんてのはとんだ誤解だぜ。こんな噂を広められたらトジル家末代の恥辱だ。一刻も早く間違いを正してもらわなければならない。どうしたらあの蚤夫婦に連絡が取れるだろうか。あいつらの世界にもツイッターとかはあるのだろうか。待てよ、蚤のおかみさん、華の身体を、津々浦々、くまなく歩き回ったのに、誰にも会わなかったといってたな。そりゃそうだろう。昨日絵心に言われて、三時間もかけて、茶太郎の蚤狩りをさせられたんだからな。アレルギー性の絵心に蚤取り粉を使っちゃダメといわれりゃ仕方がないさ。孫娘が遊びにも来てくれなかったら、淋しくて生きてる意味もないからな。お蔭で身体中の節々が、それこそ津々浦々で悲鳴上げてて、とても眠れたもんじゃない。そのときも蚤は殆ど捕まらなかった。耳の穴に一羽、後ろ脚の指の間に一羽、たった二羽しか獲れなかった。それにしても不覚だったな、あご骨のところにいた二羽の蚤を見逃したとはな。でも、ものは考えようだ、あいつらだって仲間がいなければ、噂を広めることも出来ないじゃないか。これで安心した、絵心が大きくなるころ、根も葉もない、変な噂が広まったら大変だからな」
「もしもし、あなた、しっかりして頂戴な。お迎えは茶太郎どんのことですよ」
「『oh sou de atta ka。Doumo omaesan no hanasi ha hyousoku ga awananai』」
「声色なんかで誤魔化そうったって、そうはいかないわよ」
「『sou ha ika nai、ika no kinntama……』」
「何ですかそれは」
「華ちゃん家のテレビで聞き憶えたんだ。けっこうけだらけねこはいだらけ、おしりのまわりはくそだらけ、というのもあったな。フーテンの寅とかいう、効きもしない蚤取粉など売り歩いてる男がいってたよ」
「ちょいとちょいと、そんなことどうでもいいから、私の話も真面目に聞いてくださいな」
「はいはい、真面目に聞いていますよ。ところで華ちゃんから落っこちたワシが、いまじゃなぜ茶太郎どんとこで暮らしているのかね、それにお前さんもいっしょとは」
「それを話していたのに、あなたが横道に逸らしたのよ。ええーっと、そうそう、あなたが気絶してしまったので、私は尻尾の先から大急ぎ根元に移動したの。臭いところだけど、身の安全を確保するためよ。それに振り回されたら、私も落っこちかねなかったからね。そして何度か声掛けしてもあなたは反応がない、どうしよう、どうしよう、長く連れ添ったあなたを、ここで見捨てるわけにいかないわ、こう思って華ちゃんの後ろ脚に移動して、膝の湾曲部から、えいやっと飛び降りたのです。私だって盛りを過ぎて久久しく、いまじゃ構ってくれるのはあなただけ、ここで寡婦になったら一生の悔いと、こう思って死に物狂いだったのですよ。なんとかかんとか着地はしましたが、やはり運動神経が衰えてしまっていたのですね、若い時分なら何なくできたことですが、脚を二本もくじいてしまいましたよ。傷んだ脚を引きずり、あなたに近づいてみると、嬉しいことに息はしているし、頭に傷もないようなので、脳震盪が長引いているだけと分かり、私ホッとして、大声だして耳のそばで呼びかけましたが、まったく反応がない、それで私、あの……恥ずかしいことですが、あなたのアソコを思い切り蹴っ飛ばしたら、やっと意識を取り戻してくれました」
「おお、そうであったか、どうりでケツが痛い訳だよ、それじゃお前さん、あんまり慌てたものだから、狙いを外しちまったな。お陰であっちの方は無事、お手柄だったな」
「私はもう一本の脚を傷めてしまったわ。……私たちはしばらく床に横たわったままでした。くじいた足じゃ歩くことはできてもどこに行く当てもなし。途方に暮れていたら、華ちゃんが絵心ちゃんに呼ばれて行っちまったので、茶太郎どんがよたよたと歩いて来て、私たちの上にペタンと寝そべったのです。それで私たちはサンクチュアリともいうべき犬の体に戻れたのですよ」
「そうだったか、脳震盪のせいだったか。それじゃワシ等は茶太郎どんに助けられたっていう訳だな。命の恩人だ」
「命の恩人じゃない。それをいうなら命の恩犬だぞ」言葉遣いにきびしいトジル氏は喉の奥で呟いた。
「そうなります、いってみれば緊急避難ですよ、そんなわけで私たち、この犬に棲み替えたのです。でもあなたは茶太郎どんに感謝するどころか、初めて茶太郎どんの血を戴いたとき、何んといいましたか。ええ、憶えていませんか」
「『不味い!』だったかな、思い出したぞ、この辺りからは記憶がある。どんな餌を食わして貰ってるんだと思ったね。不味いというか、厭な味だった。腐敗しかかった、酸っぱさのあるどろどろ血で、思わず吐きそうになったけれども、ものすごく腹を空かしていたから、吸い続けるしかなかった」
「華ちゃんのサラサラ血とは雲泥の差がありますよ。若い華ちゃんの健康な血で育った私たちは、柔らかいお腹の原っぱで出会って夫婦の契りを交わし、思う存分生命を謳歌して余生を迎え、尚も夜伽の愉しみに耽ることが出来たのに、久し振りに棲み慣れたあご骨辺りを離れて、尻尾の先に行き絶景といわれる景色を見たくなった私がいけなかったのね。幸せすぎて有頂天になってたんだわ。茶太郎どんに会った華ちゃんは、私たちの想定外の勢いで尻尾を振ったものだから、あなたは目を回してしまい、とうとうふきとばされちまったのよ。ごめんなさいねえ」
「お前さんが謝ることはないよ。ワシを見捨てなかったことを聞いて嬉しい限りさ。茶太郎どんの血の不味さには閉口しているが、これも成り行きってものだからな。ところでお前さん、さっき何て言ったっけ、お盆がどうしたとか」
「茶太郎どんはお盆が来るまでと言ったのよ」
「お盆といや八月だな」
「そうです、余命四カ月、だから急がなきゃ」
「そう慌てなさんな。まだ四月以上も先のことじゃないか。どうせもうすぐくたばっちまうワシ等にとっちゃあ、むやみに長い先のことだよ」
「大地震と同じです、いつお迎えが来てもおかしくない、と獣医師は言ったのよ」
「その前にワシ等の寿命が尽きるに決まってる。夜伽も口だけになってしまったしな」
「さっきは言い過ぎました。言葉の勢いでしたわ、あれで私は満足しています」
「いいよいいよ、慰めなんて言うなよ。ワシ等蚤は、大人になってからの生命は三週間ぐらいのものだ。ワシは二月に羽化して、お前さんは三月始めに羽化したそうだな、そういうことだから、ワシ等どちらも、お釣りがくるほど長生きしてるってことさ。つまりだな、いつお迎えが来てもいいのは、むしろワシ等の方さ。であればこのまま茶太郎どんを、ワシ等の終の住処としても良いのじゃないか。老いぼれ犬の泥水のような血でもワシは我慢するよ」
「そんなの私厭だわ。若くてピチピチした犬の、美味しい血が飲みたいの。愉しみ一つすらない余生を、ただ生きているだけなんて。私たちはこの世に、何の目的で、蚤として生まれて来たの、栄養満点の美味しい血を腹いっぱい吸うためでしょう。確かに私たちに残っている時間は少なくなったわ、だからといってクオリティ・オブ・ライフを放棄することはありませんよ。最後の最後まで精いっぱい命をまっとうすべきなのよ」
「いまお前さん何といったね、クリトリ……・オブ・ライスだったかな」
「QOL、クオリティ・オブ・ライフ、生活の質という意味よ、あなたはいつもエッチにまぜっ返すんだから、まあそれも、確かに、生きてく上では大切なことではありますけど」
「そうそう、思い出したぞ、トジルさんとトジルさんの奥さんも、テレビを観た後で似たようなこと話してたよ。なんでもな、暑がりのトジルさんの奥さんは、人間が住めなくなったらさっさと地球を棄てて、何処かしら環境がよくて、食べ物の美味い星に行って、愉しく暮らすほうが良いという意見だったな」
「この会話は憶えているわ。私も同じ意見だったのですから。ああ、美味しい血が飲みたい」
「トジルさんの意見は違ってたな。地球の長い歴史の中で人間の一生はチッポケなものだと。思い出したぞ、トジルさんはこういったんだ、それは茶太郎の身体を這いまわっている蚤どもより、はるかにはるかにチッポケな存在なんだと。そのチッポケさを忘れて、地球の主人顔して、やりたい放題、享楽に耽り、ゴミだらけの星にしちまって、収拾がつかなくなったら、一目散の隋徳寺なんてのは無責任の極みだと。宇宙の歴史に比べたら、神さまなんてのもチッポケな存在なのに、その神さまをきっと連れて行って、この星も我々の神さまが創ってくれたものだ、なんぞと言い出しかねない。そしてトジルさんはこう付け足して笑っていたな。行きついたところにはかつて文明が存在して、自己破滅的に成長したため絶滅しちまった星ということもあるとね。トジルさんは宇宙に関してはあんがい悲観的なんだな。ところでお前さん茶太郎どんのことをどう思ってるんだね、ワシ等の持ち物と考えてるのかい。自分らを地球の持ち主と思い込んでる馬鹿たれ人間みたいに」
「私はトジルの奥さんと同じよ、茶太郎どんの利用価値がなくなったら、さっさと逃げ出して、華ちゃんのような、美味しい血を吸える、若くて健康な犬のところで暮らしたいな」
「ワシのことはどうなんだ、もう、利用価値なんてコレッポッチもなくなっちまったよ」
トジル氏はながながと欠伸して、隣のベッドで静かな寝息を立てる連れ合いを見た。同衾しなくなって実に久しい。ふっとそんなことを考えながらベッド脇に目線を落とす。そこに仰向けに寝ている茶太郎は、トジル氏が半身を起こしても、目も開けずに眠りを貪っている。ふたたび夜伽とやらの最中なのか、蚤夫婦の会話は聞こえなくなっていた。
「しょうもない助兵衛な奴らだ」
トジル氏は顔を左右に振りながら独り言ちた。それから両手を突き上げて背伸びをした。
「茶太郎、茶太郎、茶太郎」
自分を急行電車のように追い越して老いぼれ、長くてお盆までと宣告された余命を生きる茶太郎に、トジル氏は優し気な囁き声をかけた。一声目には無反応、二声目で耳が動き、三声目で目が開いた。ドロンとして精彩のないのはいつものことだ。
「よしよし、寝てたのか茶太郎、好きなだけ寝てな」
トジル氏は言って茶太郎を眺めている。年の功で用心深くなった茶太郎は、いつ呼ばれてもよいように、いつお迎えが来てもよいように、片目を開けっ放しにして、浅い眠りに戻って行った。わざわざ起こしたくせに、こんどは寝てろなんてどういうことだ、とでもいいたげな態度である。
「お前も智慧者だな」
トジル氏は声に出さずに話しかけ、蚤の夫婦の始末について暫し考えをめぐらした。あいつらめ、とんだ貧乏くじを抽いて、晩年のどんづまりを迎えるわけだな。その不幸に免じてこのまま茶太郎の血を吸わせてやっても良いか。助平亭主の方はワシの宇宙論を理解してくれてるようだしな。今日明日にはどちらもお陀仏、いやいや、あいつら仏などとは無縁だろうから、これで一巻の終わりというわけだ。
結論に達したトジル氏は、不意に尿意をもよおし、頭髪を掻きながら立ち上がった。茶太郎が尻尾を幽かに揺らして、ドロンとしたもう一つの目を開いた。
「茶太郎どん、お前さんはどう思ってるんだい」
トジル氏は声に出さず話しかけると、もう目を閉じている老犬を跨いでドアに向った。