洗 車     大洞醇
   その日トジル氏は確たるわけもなく車を洗う気になった。物置から洗車用具を持ち出すと水道にホースを繋ぎ、まずフロントガラスから洗い始めた。水量を調節して二本のワイパーアームを立ててブラシでガラスをこする。ワイパーアームの根本周囲をよく洗い、腐った落ち葉やごみを取り除く。ガラス表面が鳥の糞が溶けて綺麗になり、トジル氏は我知らずロシア民謡をハミングしていた。にちようびにふふふふふふふーふふふーふふふふふ
リズミカルにドアミラー背面をブラシでこすり、さらにボンネットを洗っていると、何やら必死に言葉を交わす声が聞こえてきた。トジル氏はハミングを止めてよくよく耳を澄ました。それはドアミラー可動部のくびれに巣食った蜘蛛の夫婦の会話だった。
「覚えていますね、貴方は、この車は安全だ、といいましたよ。それなのにどうですか、突然水を浴びせられて、ナイロンブラシでごしごしやられたのよ。息子と嫁はどこかへ流されてしまいました。安全宣言などした貴方のお蔭で、私たち一家は全滅ですよ」
「でもここを選んだのはお前さんだぜ。風当たりが強くて吹き飛ばされるから、ナンバープレートの後ろが一番安全だといったのに、嫁と二人で鏡のそばがいいといって、さっさと巣作りを始めちゃった。嫁が言えば糞でも食っちゃう息子もここがいいというからな」
「見てください、私のこの身体を。片目つぶされて、脚も何本折られたか分かりません。息子夫婦にはもう会えないでしょう。貴方のせいで、私たちは、突然、破滅ですよ」
「妻よ、俺が悪かった。許してくれ。こうなるとは夢にも思わなかった。車を洗う気になるなんて、気でも狂ったとしか思えない。今日日の地震だの噴火だのを考えれば、何があっても不思議じゃないと、準備万端怠りなくしなきゃいけなかった。実は俺も、さっきの騒ぎで下半身がつぶれて、ぜんぜん動けないのさ、呼吸が苦しくて目が霞んできた。お前さんと夫婦になれて幸せだったよ。こんな最後を迎えるとは思わなかったが……ああ……俺は……」
トジル氏はホースの水が止まったことに気づいた。
「お父さん、車洗いなんて、なんの風の吹き回しかしら。お昼ですよ」
トジル夫人が腰に両手を当てて、水道栓のそばに立っていた。
「いやね、あんまり蜘蛛の巣だらけじゃ、買い物に行っても恥ずかしいだろうから」
トジル氏はとっさに言い訳して、照れるように足元に目を落とした。ボンネットから流れ落ちた水が、道路に向かって蛇行しながら流れていく。一匹の蜘蛛が濁った流れから逃げ出そうともがいている。さいごにバケツの水を一気に撒いてトジル氏の洗車は終った。