救われるということ - 4
自分自身が、
自分の行動を決め、
自分の考えに従って日々の生活を続けていくということは、
一応、
それで大人の生活でありますけれども、
実は、
その自分自身というものをかえりみました時に、
果たして、
それが本当にすべてであるかどうか、
ということなのです。
浄土真宗の教えを聞かせていただくということは、
自分自身が最後の依りどころにはならないということを
教えていただく、
という面があると思います。
人間の真実の姿、
本当の依りどころが、
人間自身の中には見つからないということを知らせて
いただくのであります。

それは、
同時に、
人間の本当の依りどころは、
生死を超えた阿弥陀如来のおこころの中にあるということを、
知らせていただくことでもあります。
もちろん、
ただ単に、
知識として、
頭の中に入れるということではなくて、
それが本当に身についたものなら、
それが信心ということだと思いますけれども、
そういう知り方、
納得の仕方、
段階に至って、
本当の人間になっていく、
また、
なったといえるのではないでしょうか。
今日、
信仰に目覚めることを、
新しい主体の確立という言い方をする方もあります。
同じ大人の生き方であっても、
人間を最高のものとし、
人間の知性、
あるいは意志といったものを最高の依りどころとし、
最後の依りどころとして生きている人が大半であります。

また、
そうした人たちの作っております人生、
社会が、
今日の世の中といってもよいでしょう。
しかし、
それをもう一歩深く、
仏さまの光りにあてて振り返って見ます時に、
それだけでは生きていけない人生であり、
社会であることを、知らされるのであります。
そこに、
私は、
阿弥陀如来のおこころに支えられた生き方を味わわしめられる
ことであります。
この世で救われるということの本当の意味は、
お浄土に生まれることに決定する、
生命の根本が明らかになるという意味であります。
けれども、
もう少し、
それを広げて考えますと、
そういう仏さまに支えられた自分自身、
ただ今、
ここにいる私の生命が、
仏さまの生命に支えられた生命として味わわれる、
受けとれるということであります。
そうなりますと、
この人生は、
ただ単に、
死んだ後、
お浄土に生まれるための待合室ではなくて、
一日一日が、
阿弥陀如来のおこころの中に包まれた貴重な一日一日なので
あります。
私の持っている力を出しきって、
生命のともし火を燃やし尽くして歩むべき尊い一日が、
きょうの一日であることを知らせていただけるのであります。
(続きます)
浄土真宗本願寺派 大谷光真 門主述
本願寺出版社刊 「願いに応える人生」より
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今日も命を授けていただきありがとう (^-^)
二度とない人生
だから 今日が大事、今日が大切
今日もいい日でありますように 【合掌】
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