西本願寺 「大谷光真 門主」の御法話 -183 | 安 明高 の 生 活

安 明高 の 生 活

御先祖の御加護に感謝し
日本各地の神仏などを参拝の後
お四国を錦札で巡拝できる喜びを感じて
種田山頭火さんと
西本願寺,門主さんの魅力を紹介してます。

四国霊場の正式なお礼参りとは
高野山又は京都の東寺なのですよ。
【これは総ての先達が知っているよ】

救われるということ - 4

 

自分自身が、

自分の行動を決め、

自分の考えに従って日々の生活を続けていくということは、

一応、

それで大人の生活でありますけれども、

実は、

その自分自身というものをかえりみました時に、

果たして、

それが本当にすべてであるかどうか、
ということなのです。

浄土真宗の教えを聞かせていただくということは、

自分自身が最後の依りどころにはならないということを

教えていただく、

という面があると思います。

人間の真実の姿、

本当の依りどころが、
人間自身の中には見つからないということを知らせて

いただくのであります。
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それは、

同時に、

人間の本当の依りどころは、

生死を超えた阿弥陀如来のおこころの中にあるということを、

知らせていただくことでもあります。

もちろん、

ただ単に、

知識として、

頭の中に入れるということではなくて、

それが本当に身についたものなら、

それが信心ということだと思いますけれども、

そういう知り方、

納得の仕方、
段階に至って、

本当の人間になっていく、

また、

なったといえるのではないでしょうか。

今日、

信仰に目覚めることを、

新しい主体の確立という言い方をする方もあります。

同じ大人の生き方であっても、

人間を最高のものとし、
人間の知性、

あるいは意志といったものを最高の依りどころとし、
最後の依りどころとして生きている人が大半であります。

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また、

そうした人たちの作っております人生、

社会が、

今日の世の中といってもよいでしょう。

しかし、

それをもう一歩深く、

仏さまの光りにあてて振り返って見ます時に、

それだけでは生きていけない人生であり、
社会であることを、知らされるのであります。

そこに、

私は、

阿弥陀如来のおこころに支えられた生き方を味わわしめられる

ことであります。

この世で救われるということの本当の意味は、

お浄土に生まれることに決定する、

生命の根本が明らかになるという意味であります。

けれども、

もう少し、

それを広げて考えますと、

そういう仏さまに支えられた自分自身、

ただ今、

ここにいる私の生命が、

仏さまの生命に支えられた生命として味わわれる、

受けとれるということであります。

そうなりますと、

この人生は、

ただ単に、

死んだ後、

お浄土に生まれるための待合室ではなくて、

一日一日が、

阿弥陀如来のおこころの中に包まれた貴重な一日一日なので

あります。

私の持っている力を出しきって、

生命のともし火を燃やし尽くして歩むべき尊い一日が、

きょうの一日であることを知らせていただけるのであります。

 

   (続きます)

 

浄土真宗本願寺派 大谷光真 門主述
本願寺出版社刊 「願いに応える人生」より

*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆  

 

今日も命を授けていただきありがとう (^-^)

二度とない人生

だから 今日が大事、今日が大切 

今日もいい日でありますように 【合掌】

 

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