徳川四天王とは | 安 明高 の 生 活

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【南無大師遍照金剛】 * 7

「徳川四天王」とは

戦国の世を太平に導き

江戸幕府を開設した初代将軍「徳川家康」に忠義深く仕官し

江戸幕府の基盤づくりに大きな貢献をした

4名の武将です

 

徳川家康は前途多難な半生を過ごし

天下取りへの道は

決して恵まれたものではありませんでしたが

そのうえで天下統一を成し遂げたのは

優れた部下達の働きがあったからだと言えます。

 

「井伊直政」

井伊直政

井伊直政は

1561年(永禄4年)遠江国祝田に誕生。

女城主として知られる「井伊直虎」に養育され

1575年(天正3年)

15歳の頃、徳川家康に小姓として仕え始めます。

直政は次々と武功を挙げ、「本能寺の変」ののちは

武田家の遺臣を直属の部下とすると

徳川家康の指示で全身の武装を赤一色で揃えた色は

武勇に秀でた象徴とされ、多くの敵軍を恐れさせました。

 

「酒井忠次」

酒井忠次

酒井忠次は

1527年(大永7年)に

徳川家と血縁関係にありました

「酒井左衛門尉家」の次男として三河国で誕生。

忠次は

徳川家康が天下を取るまでに乗り越えてきた

重要な合戦に従軍して勇猛果敢に戦い

数々の武功をあげました。

一方で、「織田信長」が一目置くほどの策士でもあり

「豊臣秀吉」もうらやむほどの才能で

外交面においても徳川家康を支えた人物。

なかでも「吉田城」の無血開城は

そんな酒井忠次の才能を示すエピソードとして有名です。

 

「榊原康政」

榊原康政

榊原康政は

1548年(天文17年)に

「榊原長政」の次男として、三河国に誕生しました。

「豊臣秀吉は織田信長の家臣でありながら

主君の家臣達と敵対し

息子達まで倒した八逆賊の者だ!

そのような豊臣秀吉に味方すれば、天罰が下るに違いないぞ」と

豊臣秀吉が織田家を乗っ取ろうとしていることを

周りに主張したのです。

 

これを目にした豊臣秀吉は大激怒。

まんまと

榊原康政の挑発に乗って、榊原康政の首に10万石を掛け

「榊原康政を殺せ!」と

周囲の武将達を焚き付けたほどでした。

 

豊臣秀吉が関白になった時

徳川家康と和睦の席上に榊原康政が呼び出され

殺される覚悟で歩を進めた処

妹の結納係に、榊原康政が指名され二度びっくりだったのです。

 

「本多忠勝」

本多忠勝

本多忠勝は

1548年(天文17年)

岡崎城主「松平広忠」の家臣

「本多平八郎忠高」の長男として三河国で誕生。

 

勇猛で鳴らした本多忠勝の評判は

敵味方問わず高かったと言われています。

その実力と勝負強さ、大軍相手にも動じない度胸は

度重なる実戦を通して証明され

戦国最強とも称えられるほどです。

忠勝は

幼少の頃より「徳川家康」に仕え

初陣から活躍しました。

若くして旗本先手役に任じられ

幾多の合戦に参陣しては武勲を挙げ

徳川家の勢力拡大に貢献。

忠勝は「生涯57戦無敗でかすり傷ひとつなし」と

伝えられています。

 

この4名が徳川四天王と

いつ頃から呼ばれたのかは不明ですが

1586年(天正14年)に徳川家康の名代として

井伊直政、榊原康政、本多忠勝が上洛した際に

彼らが「徳川三傑」と呼ばれ

この3人に徳川家最古参の家臣である酒井忠次を加えた4名が

のちに徳川四天王と呼ばれるようになったとされています。

(刀剣ワールド 城・徳川家康の名言・逸話・エピソード)

  

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今日も命を授けていただきありがとう (^-^)

二度とない人生

だから 今日が大事、今日が大切 

明日もいい日でありますように 【合掌】

 

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