徳川家康の生涯ー9「徳川御三家の祖」 | 安 明高 の 生 活

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【南無大師遍照金剛】 * 7

尾張徳川家の祖となった徳川義直

徳川義直は1600年(慶長5年)

徳川家康の9男として誕生。母は側室「於亀の方」です。

徳川家康が天下人となって初めての子どもであり

徳川家康の寵愛を受けたと言われています。

尾張名古屋は色で持つ、愛された派手好き藩主

徳川義直は1606年(慶長11年)に元服。

翌年1607年(慶長12年)に死去した松平忠吉の死去に伴い

尾張国清洲に移封して清洲藩主となります。

 

その後、1616年(元和2年)に

徳川家康が亡くなると名古屋城に入国。

17歳という若さで尾張藩の初代藩主となり

尾張徳川家を率いる立場となったのです。

名古屋城

また、交通の要衝である尾張を任された徳川義直は

積極的に内政に取り組むだけではなく

産業の復興などにも力を注ぎ

尾張藩の基礎を築き上げていきました。

 

紀州徳川家の祖となった徳川頼宣

徳川頼宣は1602年(慶長7年)

徳川家康の10男として「伏見城」で誕生。

母は側室「於万の方」です。

3人(傍流も合わせれば5人)もの将軍を輩出した名門藩

徳川家康から期待を寄せられていた徳川頼宣は

わずか2歳で

兄・松平信吉の遺領となった常陸国水戸20万石を継承。

1609年(慶長14年)には

駿府50万石に加増転封になります。

 

そして、徳川家康の没後

1619年(元和5年)には駿府から紀伊国和歌山へ移封。

紀州藩が成立するとともに

徳川頼宣は紀州徳川家の祖となったのです。

和歌山城天守閣

なお、紀伊国へ入国後、徳川頼宣は

「和歌山城」の改築や城下町の整備に尽力。

また、1641年(寛永18年)には

家臣を統制するために「御家御条目」という法令を制定し

紀州藩の治安維持に力を注ぎ

基盤を固めていきました。

 

水戸徳川家の祖となった徳川頼房

徳川頼房は1603年(慶長8年)

徳川家康の11男として伏見城で誕生。

母は側室・於万の方です。

 

徳川頼房は

兄・徳川頼宣とともに

徳川家康の隠居城である駿府城へ移り

徳川家康のもとで養育されました。

 

1609年(慶長14年)

徳川頼房は徳川頼宣の駿府転封に伴い

常陸国水戸の領主となります。

しかし、幼少であったことから

しばらくは駿府で過ごしました。

水戸藩:茨城県/ホームメイトの画像

徳川家康の没後

1619年(元和5年)に水戸へ渡りますが

わずか2ヵ月で再び江戸へ帰還。

 

これは徳川秀忠の次男であり

将軍の世嗣(世継ぎのこと)である「徳川家光」の学友として

江戸に留め置かれたためだと言われています。

薬医門

水戸藩主でありながら、

江戸で過ごしていた徳川頼房ですが

水戸城の改修や城下町の整備に尽力。

様々な法令を定め

水戸徳川家の基盤を固めていきました。

(刀剣ワールド・徳川家康とゆかりの城)

 

  (続きます)     

*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆

 

今日も命を授けていただきありがとう (^-^)

二度とない人生

だから 今日が大事、今日が大切 

明日もいい日でありますように 【合掌】

 

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