仕事のデキる男「石田三成」 | 安 明高 の 生 活

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【南無大師遍照金剛】 * 7

 

旧浅井家臣の子に過ぎない青年が

電撃出世をするはずがない。

よほど賢かったのだろう――という

石田三成が仕事のデキる男であったことは確かです。

 

三成は羽柴秀吉に小姓として仕官した後

二十代前半で有能な家臣として

他家にまで知られるようになります。

 

加藤清正や福島正則といった猛将とはひと味違い、

事務系の仕事に適性を見せる三成。

賢さを主君に見抜かれ、

出世を遂げていた様子がうかがえます。

 

ちなみに三成は、遺骨をもとに複顔したため、

身長や顔つきが判明しています。

身長は156センチで骨格はかなり華奢。

江戸時代の記録によると、

色白、目が大きく、睫は濃く、声は高かったとのこと。

復元された顔も無骨というよりも穏やかです。

 

石田三成の名が他家にまで知られ、

彼の名による“発給文書”が見られるようになるのは

天正10年(1582年)頃から。

武田勝頼と武田家が滅亡し、

【本能寺の変】で織田信長が倒れ、

羽柴秀吉が天下取りへと邁進するようになった時期からです。

 

 

三成も武功をあげますが、

やはり彼は戦場よりも

外交や内政で存在感を示すタイプでした。

 

天正13年(1585年)に

秀吉は、従一位関白に就任します。

秀吉はなぜ将軍ではなく関白になった?

三成もこのとき、

従五位下治部少輔に叙任されています。

三成26才の時でした。

 

このころ担当した大事な役割は、

対上杉家との交渉です。

当時の上杉家は、

危機を脱したところ、織田信長と対峙し、

武田家の次は自分たちが滅亡すらのではないか、

とすら考えていた上杉家です。

 

ところが急転直下の本能寺により窮地を脱し、

その後は天下人となる秀吉に

接近を開始してました。

とはいっても、

上杉家は始めから秀吉に臣従すると

決めていたわけでもなく、

両者には緊張感が漂っていました。

(日本初の歴史戦国ポータルサイト・武将ジャパンより)

 

(続きます)  

*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆

 

今日も命を授けていただきありがとう (^-^)

二度とない人生

だから 今日が大事、今日が大切 

明日もいい日でありますように 【合掌】

 

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