(「樹」大正5年11月号)
山頭火34歳の感想
俳句を止めるとか止めないとかいう人が時々ある。
何という薄っぺらな心境であろう。
止めようと思って止められるような俳句であるならば
止めまいと思うても止んでしまうような俳句であるならば
それはまことの詩ではない。
止めるとか止めないとか
好きとか嫌いとかいうようなことを超越したところに
まことの詩としての俳句存在の理由がある。
自我発現乃至価値創造の要求を離れて句作の意義はない。
直接的表現を云々する態度は間接的態度である。
現実味と真実味とを区分したり
人生味と自然味と優劣を
争うたりする境地を脱していない。
考うべき問題はもっと奥にある。
第一義の問題をそのままにして置いて
第二義第三義の問題に没頭するとき
俳壇は堕落するばかりである。
一切の事象は内部化されなければならない。
内部化されて初めて価値を持つ。
生命ある作品とは必然性を有する作品である。
必然性は人間性のどん底にある。
詩人は自発的でなければならない。
価値の創造者でなければならない。
新らしい俳人は
まず人間として苦しまなければならない。
苦しみ、苦しみ、苦しみぬいた人間のみが詩人である。
――(九、二六、夜)――
(「樹」大正五年十一月号)
(青空文庫作成ファイル)より
(続きます)
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今日も命を授けていただきありがとう (^-^)
二度とない人生
だから 今日が大事、今日が大切
今日もいい日でありますように 【合掌】
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