汁説 織田信長 『第8回 信長と宗教』 | C.I.L.

汁説 織田信長 『第8回 信長と宗教』

自分で言うのもなんですが、織田信長についてどこまで書いたのかすっかり忘れておりました。


必死に過去ログを漁ってみたところ、次は信長の宗教観について書くべきかなと思い至った次第でございます。


■参考リンク 汁説織田信長 過去ログ

・第1回

・第2回

・第3回

・第4回

・第5回

・第6回

・第7回



で、織田信長というと 『宗教弾圧』 という単語が頭に浮かぶ人も多いと思われる。


確かに信長は当時の多くの人が聖域と思っていた比叡山を焼き討ちした。さらに一向宗に対して無慈悲な殲滅戦を行った。この2つの事実だけ見れば、信長は宗教に対して厳しい人物だったと感じてしまってもおかしくはないだろう。


だがそれらの背景に何があったか、そしてその後どうなったかを考えると、必ずしも信長が宗教弾圧者ではないということが理解できると思う。



『比叡山焼き討ち』

当時の比叡山は単なる寺社ではなく、武装した僧兵がたむろす軍事拠点という一面も持っていた。さらにそういった僧兵達は女も抱けば不浄な物を喰らうという、荒んだ生活を続けていたのである。


さらに武力と権威を盾に様々な利権を手にしており、統治者としては頭の痛い存在であった。


さて、この僧兵という存在は何も戦国時代に始まった物ではなく、古く平安時代にはすでに存在していたことが確認されている。


その始まりは 「僧体になれば税金逃れができる」 という、今で言うなら 「宗教法人なら税金払わなくて済むから」 的な理由で、エセ宗教家になる人間が大勢出現したことが発端である。


こんな始まり方をしているのだから、そりゃもう荒んで当然、堕落して当然という物であろう。


そんな比叡山が信長の宿敵である浅井・朝倉を匿い、信長の警告も聞かずに 「アンチ織田」 的な態度を取り続けたため、信長は極端な制裁手段に出ざるを得なくなった。


しかも匿うといっても個人の身を隠すという意味ではない。浅井・朝倉の連合軍に対して、比叡山を軍事拠点として提供したのである。これは信長に対して直接弓を引いたも同然で、やり返されて当然のことなのだ。


こうして起った軍事行動こそが、今日 『比叡山延暦寺の焼き討ち』 と呼ばれている作戦なのである。


「敵対している人間を匿ったからってだけで物騒な!」 と思う人もいるかもしれないが、寺社が自衛のために武装する点は置いておくとしても、戦争中の国の要人を匿う&軍事拠点を提供するという行為はいただけない。


それは 「巻き添えにされてもOKですよ」 「私はアナタに敵対しますよ」 というサイン以外の何物でもないだろう。


だから信長は比叡山に対して何度か警告を発し、それでもダメだと悟ったからこそ実力行使に出たのである。


「だからって非戦闘員まで殺すことはないじゃないか?」 という声も挙がりそうなので先に言っておく。


この当時の比叡山は、宗教の笠を被った戦国大名と言っても差し支えないほどの兵力を持っていた。これは比叡山に限ったことではなく、比叡山@天台宗も、本願寺@浄土真宗も、法華宗も、みんなそんじょそこらの大名じゃ手出しできないほどの軍事力があったのである。


そしてこの兵力は宗教戦争という名のシマ(利権)争いに使われた。


主に京都を中心とした利権争いを目的として、法華宗が山科の本願寺を攻め滅ぼして大坂(正確には石山)に追いやったり、比叡山と本願寺が組んで法華宗を攻めたり、それに細川家や六角家といった近隣の戦国大名が加勢したりと、泥沼の戦争を繰り返していたのである。


早い話が、この当時の寺社は宗教団体とヤクザが合体したような存在だったのだ。


よって、信長の行為を非戦闘員の虐殺と捕らえるのは歴史認識が間違っているとしか言いようがない。



さて、話を比叡山の焼き討ちに戻すが、その実態は今もなお不明で、正確な規模が把握できていない。


分かっているのは1571年の9月に織田軍が延暦寺を取り囲み火を放ったということだけで、これは当時京都に住んでいた文化人達が残した日記などに記されているので間違いはないだろう。(中には京都の屋敷から比叡山が燃えるのが見えたと書いている人物もいる)


だが現代になって延暦寺の地質調査をしたところ、「信長が焼き討ちをしたという年代の焼け跡が発見されなかった」 という結果が出てしまい、これを理由に様々な憶測が飛び交うこととなった。


その新説の中でも有力なのは 「信長は延暦寺を取り囲んで歯向かう僧兵を切り捨てる程度のことはしただろう。だが大々的に焼き滅ぼすような真似はしなかった。」 というもので、私もこの説に賛成する。


加えて言うなら、火の範囲についても僧兵がたむろしていた砦のような場所はすべて放火するなり切り込むなりして潰して回ったと思うが、肝心の宗教施設に関してはお目こぼしがあったのではなかろうか?


ついでに言えば、延暦寺を焼いた人間は信長一人ではなく、信長の時代に近い人間でも将軍足利義教、管領細川政元の2人が延暦寺を焼き討ちしている。比叡山というのは京都に近いこともあり、その時々の政治状況によって常に危険と隣り合わせだったのだ。


こうした 「定期的な焼き討ち」 によって延暦寺の様々な施設が焼失していただろうし、すべてを信長のせいにしてしまうのはちょっと無理がある。


なぜこう考えるかというと、地質調査の結果もあるが、信長の目的な何だったのかという点にある。


信長としては延暦寺が武装して、比叡山が丸ごと軍事拠点と化している点に危惧を感じたわけであり、宗教施設としての延暦寺を否定したわけではない。


であるから、軍事拠点と目される場所だけ潰してしまえば、信長の目的は達せられるのである。


当時の人の感覚になって考えれば分かると思うが、まだまだ迷信の類が信じられていた時代にあって、「聖地と呼ばれている土地を兵隊で取り囲んで殺傷沙汰を起こして火をかけた」 などと言えば、そりゃもう話のインパクトが物凄くて尾ひれがついて広まるだろう。


さらに信長としても他の宗教勢力に対する威嚇の意味もあって、こういった噂が流れるのを意図的に見逃していたとか、むしろ自分で宗教勢力が震え上がるような偽情報を発信したとも考えられる。


自分が当時の宗教家だったとして考えれば、「あの聖地比叡山ですら焼かれたのだから、歯向かえば自分も織田軍に殺される!」 と考えるだろう。


こうしたそれぞれの思惑によって伝え広められた噂話こそが、『信長の比叡山延暦寺焼き討ち』 の実態なのではなかろうか?



またこう考えても面白い。


この焼き討ちの後に、信長と天台宗(比叡山は天台宗の本山)の関係がどうなったか?についてである。


聖地に火をかけた以上、本当に信長が宗教弾圧者であるなら、禍根を残さぬために天台宗を徹底的に弾圧したはずだ。


だが実際は天台宗という宗教自体には何の手も打っていない。確かに信長の焼き討ちによって延暦寺の権威は著しく低下したが、かといって天台宗自体が潰されたわけではないのだ。


ここからどういった結論が導き出されるかというと、信長は最初から 『政教分離が目的だった』 という一点に尽きる。


織田信長という人は、政治に口出ししたり、武装したり、統治者に歯向かうような真似をしなければ、どんな宗教でも寛容な心で接しているのである。


「キリスト教は擁護したけど仏教には辛く当たった!」 という人も多いと思うが、それこそ大きな勘違いである。


結果として仏教に都合の悪い処置を採ったことはあったが、それにもちゃんとした理由があるし、第一信長は特定の宗教に対して 「禁止令」 を出したことはない。


日本に様々な宗教が入り込むことも、それぞれが熱心に布教活動を行うことも許しているのである。


ただそれも無条件というわけではなく、いくつかのお約束がある。それは簡単にまとめると下記の5点になる。


・嘘(※1) をつくな

・政治に口出しすんな

・武器を持つな

・民に迷惑かけんな

・勝手に利権構造(※2) を作んな


信長が宗教に対して言っているのは実はこれだけなのだ。



■補足

※1について

"嘘" には宗教によくある 『奇跡』 も含まれている。信長は作り話を極端に嫌う性格で、奇跡や怪奇現象の類に関して徹底的に実証主義を貫いているのである。


実際に例を挙げると、「私は奇跡を起こせる仙人です」 という人間を信長が呼び出し、「じゃあオレの前でやってみろや」 と迫り、奇跡を起こせなかったので罰を与えたという逸話が残っている。


他にも 「この沼には怪物が住んでいる!」 などという噂を聞きつければ、小刀を持って自ら池に潜ってその存在を確認しようとしたりしている。


仮に信長の目の前に某死刑囚がいたとすれば、信長は間違いなく 「オレの目の前で空中浮遊してみろや」 と迫っただろう。それで某死刑囚が空中浮遊に失敗すればどうなっていたことか。


信長とはこうした詐欺や欺瞞を嫌う大変分かりやすい性格なだけなのだ。


「デカイ口を叩くなら、それなりのことをオレの目の前でやってみせろ」


これが信長の意思なのである。



※2について

前回の話にも書いたが、当時の寺社は勝手に関所などを作って収入を得ていた。信長はこれを禁止したのである。


これによって民からすれば生活が快適になり、税金も信長一人に納めればよくなり、無駄な出費が減った。


信長とは血も涙もない人間と言われているが、当時の民衆からしてみれば奇跡的なまでの善政を行ってくれるヒーローだったに違いない。


ちょっと話が飛ぶが、武田信玄と織田信長の決定的な違いはここにある。


信玄が天下を取れなかった理由に様々な原因を挙げている人がいるが、最も大きな点は 「信長ほど民衆の支持を得られなかった」 ということだろう。


信玄は攻め込んだ土地での略奪・暴行などを止めるどころか、むしろ 「取り放題だぜ!」 と推奨していた。男も女も奴隷として捕まえ金山で強制労働させたり、器量のいい女は褒美として家臣に与えたり、さらには戦で捕まえた女の旦那が 「女房を返してくれ」 と願い出たときに、「返して欲しければ金持ってこい」 などと言い放っているのである。


これではいくら戦に勝っても怨みばかりが残ってしまう。


武田信玄はなぜか英雄視されているが、こうしたように実際にはかなりの悪政を布いていたと言われても仕方のない人物である。(当時はそれが普通だったとも言うが)


これでは仮に寿命が何年か伸びたとしても、信長には "絶対に" 勝てなかっただろう。


なぜなら自軍の兵隊に一切の略奪や民への暴行を禁止し、破った者を徹底的に罰した信長とは、"民からの支持" という点において雲泥の差があるからだ。


他にも 「武田家が滅ぶ要因を作ったのは信玄であって勝頼ではない!武田家を滅ぼしたのは突き詰めれば信玄自身だ!」 とかなんとか色々と言いたいことがあるのだが、今回の話題は信長なのでこれについてはいつか別の機会に。




『一向宗弾圧』

比叡山の焼き討ちと並んで信長の悪事と呼ばれているのが、この一向宗徒に対する厳しい弾圧だろう。


しかしこれもまた壮大な勘違いなのである。


まず先に一言だけ言うが、信長と一向宗が戦うハメに陥った理由が何だか分かるだろうか?


それは当時の本願寺の法主であった顕如が、「信長は仏敵だ!戦わないと浄土真宗を破門する!地獄に落ちるぞ!」 と激を飛ばし、一方的に信長に対して戦を仕掛けたからなのである。


これは紛れもない事実で、信長はそれまでどちらかと言えば (矢銭などの要求はしたが) 一向宗に対して気を遣っており、本願寺も表面上は織田家と友好関係にあった。


それがある日突然、石山の辺りで戦争していた織田軍に対して、本願寺が一方的に攻めてきたのである。そして伊勢長島でも一向宗徒が戦を仕掛け、織田方の長島城が陥落し、尾張まで攻め込まれて信長の弟が自刃するという大事件が起きる。


これが信長と一向宗の果てしない10年戦争の始まりになったのだ。これ以降、何度か和解したり戦争したりを繰り返し、日を追うごとに両者の戦いは苛烈さを増していくことになる。



そもそも本願寺が栄えたのは、8代門主の蓮如という人物の 【子沢山政策&お手紙で応援作戦】 によって、日本各地に弟子が広まったことにある。(詳しくは各自調べれ)


これによって本願寺は勢力を伸ばし、後の隆盛の土台を作ったのだ。


これを継いだ子孫達は他の仏教勢力とドンパチを繰り返したり、周囲の強国と手を結んだりしながら、石山(今の大阪辺り)や越前などに大きな拠点を作り、顕如の時代を迎える。


顕如も信長の政教分離政策によって圧迫を受けていたのは事実だが、それにしてもいきなり戦争を仕掛けるというのは愚策だったような気がしないでもない。


本願寺隆盛の土台を作った蓮如は、本願寺が政治に口を出したり、他の勢力に対して戦を仕掛けるといった行為を嫌い、「それは本願寺を自ら潰す結果になる」 と、弟子達を厳しく戒めた。


この点を考えると、蓮如と顕如では視野が違いすぎたと言わざるを得ない。


すべては結果論になってしまうが、顕如が迂闊に 「信長は仏敵」 だと断言してジハードを起こしたせいで、本願寺は退くに退けなくなって多数の血を流す結果となり、著しく勢力を減退させてしまったのである。


顕如の父である10代門主の証如の時代にも、本願寺が内部分裂したり、周囲の国の戦争に巻き込まれて出兵した事実があるが、それでも本願寺が音頭を取って戦国大名に攻めかかるといった暴挙には出なかった。


それを顕如はやってしまったのである。


当時は将軍足利義昭を中心に信長包囲網が敷かれていたが、浅井・朝倉の滅亡や武田信玄の死、そして将軍義昭の追放などがあり、結果として本願寺だけが 『vs信長戦線』 に取り残される結果となったのである。


しかし一度 「仏敵」 とまで口にしてしまった以上、顕如も不利だろうと退くわけにはいかない。信長を仏敵と呼び、「戦に加わらなければ破門だ!地獄に落ちるぞ!」 とまで宣言したのに妥協してしまっては、一気に信徒からの信用を失うからだ。


こうして顕如は信長との戦を延々と繰り広げることになり、ついには上杉・毛利を頼みとした第二次信長包囲網も崩れ、万策尽きた顕如は勅命という形の無条件降伏によって信長に降伏することとなる。



さて、ここでちょっと思い出して欲しい。


本願寺は、正確には顕如は、なぜ織田家との戦争を決意したのだろうか?


本願寺に残る資料には、織田信長が顕如に対して 「石山から退去しろ」 と通告してきたと書いてある。


顕如が信長に戦を仕掛けるにあたって信者に送った檄文の中に、「信長に石山から出て行けと言われた!もう我慢できない!これより本願寺は織田家と戦争する!従わないヤツは破門する!」 とあるのだ。


しかし織田側の資料には、信長が本願寺に対して 「石山からの退去を通告した」 という記述は一切ない。


さらに言えば、本願寺の織田家に対する攻撃は完全なる奇襲攻撃であり、信長はなぜ自分が本願寺に攻められなければならないのか分からず仰天したという。


井沢元彦氏などが著書でこの点について追求しているが、私もこれはおかしいと思っている。


信長が本当に本願寺に対して 「石山から出て行かないと攻め滅ぼすぞ!」 と脅迫していたと仮定するなら、本願寺が織田家に対して攻めかかって来ることは容易に予想できたはずなのだ。


だが信長はそんな可能性など思いも寄らないとばかりに、石山本願寺のすぐ目の前で三好家(いわゆる三好三人衆) と戦争をしていたのである。


そして本願寺の奇襲を受けた信長は、三好家を取り逃がしたばかりか、信長への牽制のために近江に進出していた浅井・朝倉軍を比叡山が匿った(軍事拠点を提供した) ために、八方塞りになって身動きが取れなくなってしまったのである。


その隙に長島の一向宗信者が織田方に攻め掛かり、尾張の城を落とされ弟を失い、これ以上ないほど反信長同盟軍を勢い付かせる結果となってしまったのである。


果たしてあの信長がこんな醜態を晒すだろうか?


こうした流れを冷静に考えていくと、本願寺顕如の言う 「信長に脅されて仕方なく戦争を決意した」 という言葉が 「嘘なんじゃねえの?」 と思えてくるのである。


では顕如の目的は何だったのか?


顕如は当時の信長と反織田同盟とのパワーバランスを見て、あれこれと考えていたに違いない。もしかしたら前もって比叡山や反織田同盟から誘いの声があったのかもしれない。


結果として、顕如は信長に対して攻撃を仕掛けることを決意した。恐らく反織田同盟が勝つと読んだのだろう。


当時の宗教勢力は戦国大名と変わらない立場だったというのは何度も説明したが、それを前提に考えるならば、いかに本願寺であっても負けると思っている方に味方するとは思えない。


となると、顕如は反織田同盟が勝つと思ったからこそ、自らの利益のために織田家に対して戦を仕掛けたのだろうと予想できる。


確かに本願寺が仕掛けた瞬間のことを考えれば、信長にとって取り返しのつかない敗戦を招いていた可能性は大きい。まさに一撃必殺の仕掛けだったのだ。


しかしこの時は信長の方が一枚上手だった。


信長は絶体絶命の窮地に立たされたと認識すると、即座に足利義昭を脅して反織田同盟と無理矢理に和睦を結ぶことに成功したのである。弟2人と大勢の家臣を失うというツケは払わされたものの、何とか反撃体勢を整えてみせたのだ。


そして反織田同盟に参加している面子を各個撃破し、最後に残った本願寺を降伏させ、武田家を滅ぼし、毛利や上杉家を追い詰め、信長は日本の覇者となった。


そんな信長が、本願寺に対してどのようなケジメをつけたかご存知だろうか?


なんと許しているのである。


弟や大事な家臣を大勢殺してくれた本願寺を、全面的に許しているのだ。


これは一体どういうことだろう?


信長が冷血で極悪非道な宗教弾圧者であったとするなら、この結末はあまりにおかしいと思わないだろうか?


こうした史実から推測すると、信長というのは宗教の自由を認める寛容な人物だったと言わざるを得ないのである。


「本願寺の抵抗が激しかったから妥協したんじゃないの?」 と言う人もいるだろうが、全盛期の本願寺ならともかく、矢尽き刀折れた本願寺に対して、「今後オレの統治を邪魔しないなら過去のことはすべて水に流して許す」 と宣言しているのだ。


この件に関しても、比叡山の焼き討ちと同じく、やはり織田信長の目的は 『政教分離にあった』 と思えるのである。


繰り返しになるが、本願寺顕如は己の野心のために兵を起こして、織田家に戦を仕掛けてきた。そしてお互い一歩も退けない状況に陥り、信長は伊勢や越前で壮絶なまでの根切り(殲滅作戦) を展開した。そこで数千~数万という膨大な人数の一向宗徒を皆殺しにせざるを得なかった。


それはなぜか?


「顕如が徹底抗戦を唱えたから」 である。


当時の信長の立場で考えれば、顕如が退かない以上はやらなきゃやられるのだ。現に信長の弟が2人も殺されており、他にも重臣が何人も戦死しているのである。宗教ならではの死をも恐れぬ兵(いわゆる死兵) が万単位で牙を剥いて来るのだから、そりゃもう皆殺しにするしか身の安全を確保する手段がない。


こんな泥沼の深い遺恨が残りそうな激戦を繰り広げた相手に対して、降伏後は信仰の自由も本願寺の存続も許しているのである。


こうした結論だけ見ても、織田信長がいかに宗教に対して寛容だったか理解できるだろう。



確かに織田信長は破壊者であったが、それは古いしきたりや利権に対して向けられた物であり、一度破壊が終われば民衆を守り、日本経済を発展させ、あらゆる宗教の自由を保護する守護者としての一面もあった。


織田信長とは、世界史上まれに見る 理想的な独裁者 だったのである。


こうした信長の一連の宗教政策によって、日本では宗教家が軍事力を持つことが出来なくなり、世界中でいち早く政教分離を実現させた国家となったのだ。


創価や反日本勢力が暗躍している現代の日本にとって、織田信長ほど再来が求められている偉人は他にないだろう。




というわけで、次回は未定だが ~続く~ としておく。