汁説 織田信長 『第2回 名将織田敏定と美濃の大混乱』 | C.I.L.

汁説 織田信長 『第2回 名将織田敏定と美濃の大混乱』

さて前回の続きである。


前回は『織田伊勢守敏広』と『斎藤妙椿』の連合軍を破った『織田大和守敏定』が新たな尾張守護代となり、清洲城に入城した所までだった。


ここまでの流れだけでも分かる通り、どうやら大和守敏定は戦国武将としての資質に優れた人物だったらしく、清洲入城後も伊勢守敏広との戦に勝利するなど、順調に領国運営に乗り出したかに見えた。


だがしかし、大和守敏定の清洲入城から数ヵ月後に大事件が起きる。


幕府に対して証文まで書いて大和守敏定のサポートを約束した斎藤妙椿が、岩倉城の伊勢守敏広と再び手を組んだのだ。


そしてまたしても【伊勢守敏広&斎藤妙椿vs大和守敏定】という抗争劇が繰り広げられる事となった。


時の将軍足利義政は斎藤妙椿に対して 「もう止めなよー粘着キモイよー」と和解を勧めようとしたが、斎藤妙椿は相当頭に血が上っていたのか将軍様の使者に会おうともせず、イケイケGOGO!で戦を続け、大和守敏定は本拠の清洲城を取り囲まれてしまう。


言い伝えによると、この戦で大和守敏定は目に敵の矢を受ける重傷を負うも、「そんなもん関係ないわ!アホか!」と戦い続けたという。(夏候惇かお前は)


だが健闘及ばず、大和守敏定は「今後は大和守家と伊勢守家で尾張を分割して共同統治しましょう」という限りなく敗北に近い条件で伊勢守敏広と和解する事となった。


時に1479年の事である。


ちなみにこの時、大和守敏定が担ぎ上げていた正式な尾張守護のはずの斯波義寛は何も出来なかった。


当時の斯波家はすでに衰退し始めていて名目上の守護でしかなく、織田家同士の抗争に介入する実力を失っており、『織田家が大義名分を得る便利なアイテム』でしかなかったのである。


さて、幕府の後押しを得たはずなのに 『尾張国共同統治』 という屈辱を味わった大和守敏定が大人しく黙っているはずもなく、その後も伊勢守敏広と泥沼の抗争劇を演じる事となる。


まず和解が成立した約2年後の1481年に再び大和守敏定と伊勢守敏広との間に戦が起こり、大和守敏定が見事に連戦連勝。さらにこの戦の直後に宿敵伊勢守敏広が死亡し(敗死説あり)、さらには伊勢守敏広に担がれていた斯波義廉が越前の朝倉氏を頼って逃げ去った。


これによって流れは一気に大和守敏定に傾き、敗れた敏広の弟と息子は尾張守護である斯波義寛に降伏した。


こうして尾張の事実上の支配者は織田大和守敏定という事になり、泥沼の織田家同士の抗争はひとまず一段落したのである。



※ここでちょっと混乱を避けるために軽くおさらいしておく。


大和守敏定という名将の活躍によって、尾張の守護代の地位は大和守家が勝ち取ったものの、元を正せば織田家の本家は伊勢守家なのである。


織田家本流=伊勢守家(岩倉織田家)
尾張守護代=大和守家(清洲織田家)


この構図をちょっと覚えておいてね。




さてさて、尾張の織田家はその後しばらくの間は尾張守護斯波家の下に(表面上は)まとまり、幕府の命令で合戦に参加するといった動きはあったものの、概ね順調に尾張の統治を進めていた。


だが1488年にまたしても伊勢守家と大和守家の間で戦が起きてしまう。


この戦でも大和守敏定は戦上手ぶりを発揮し、伊勢守方の城を次々と攻め落とすと、伊勢守家の本拠岩倉城に攻めかかる等して快勝し、再び和議を結ぶ事になった。


その後1490年頃に、近江の六角家が幕府に逆らったとして、幕府の命を受けた諸国の連合軍が討伐する事となった。この六角討伐戦には織田家の軍勢も参加しており、ここでも大和守敏定は大きな戦功を挙げている。



だがその直後、隣国の美濃で順風満帆な織田敏定の運命を左右する事件が起きた。


1494年に、美濃守護の土岐成頼の跡継ぎの座を巡って戦が起きたのだ。


この戦の発端は、土岐成頼が嫡子である土岐政房ではなく、妾の子である土岐元頼に後を継がせようとした事にある。


これによって美濃国は 『土岐政房派』 と 『土岐成頼&元頼派』 に分裂する事となり、周囲の国々も様々な思惑を胸に援軍を出し、次第に大掛かりな戦へと発展して行った。


この一連の戦に尾張の国も巻き込まれた。


大和守敏定は、息子寛定の嫁に 『土岐成頼&元頼派』 の有力武将の娘を迎えていた事や、長年に渡って遺恨のあった斎藤妙椿の養子斎藤利国が 『土岐政房派』 だった事もあってか、『土岐成頼&元頼派』 を支援する事にした。


だがしかし、岩倉織田家(伊勢守家)の当主であった織田寛広(敏広の息子)は、斎藤利国の養女を嫁にしていた事もあり、『土岐政房派』 についてしまったのだ。


1495年、美濃の混乱に介入しようとした大和守敏定の軍勢は、それを防ごうとした岩倉織田家の軍勢と対陣したのだが、この陣中でなんと大和守敏定が死亡してしまう。(病死説と戦死説があって死因は定かでない)


清洲織田家を背負っていた名将織田敏定が亡くなると、敏定の息子の織田寛定は陣を引き払って清洲へと引き上げる事となった。


その後、美濃戦線では土岐元頼らが大敗し、六角家を頼って近江に落ち延び、土岐成頼は家督と守護職を土岐政房に譲って出家してしまった。


美濃の土岐氏の混乱は自業自得としても、それに介入しようとした清洲織田家の不幸はそれだけでは収まらず、織田敏定の後を継いだ織田寛定は、美濃の動乱の中で兄弟もろとも戦死してしまったのである。


色々な意味で清洲織田家にとってこれ以上ない痛恨の出来事であった。


だが、対する岩倉織田家にも、清洲織田家に負けず劣らず不幸な出来事が待ち構えていた。


土岐政房を新たな美濃守護とする事に成功した斎藤利国は、余勢をかって岩倉織田家と共同で清洲織田家を攻めたのだが、その隙を突くように六角家を頼って近江に逃れた土岐元頼らが再び美濃に侵攻し、一時収まったかに見えた美濃の動乱がさらに悪化してしまったのだ。(1496年)


この土岐元頼に力を貸した一派は、六角家、細川家、北畠家、清洲織田家などであり、対する美濃守護土岐政房には京極家、浅井家、朝倉家、岩倉織田家などが味方した。


この戦は結局、土岐元頼とその重臣が敗死する事で一応の決着をみたのだが、話はこれだけで終らない。


ケジメの問題として、勝者である美濃守護土岐政房が「元頼に味方した六角を討つ!」と戦を仕掛けたのだが、そこで斎藤利国親子が土民(もしかして差別用語?)に殺されてしまったのである。(いわゆる土一揆ってヤツ)


この斎藤親子の死によって、岩倉織田家は美濃とのパイプ役を失なって支援を受けられなくなり、尾張守護代の肩書きを持つ清洲織田家に対してまたしても劣勢に立たされる事になったのだ。



という所でなんかもう息切れとか眩暈がして来たんで続く!



で、信長が出てくるのいつ?


(つうか信長を語るのに応仁の乱の前から話し始める事が誤りだったんだよな…)