2019年を振り返って005 | ナンパ奮闘記

ナンパ奮闘記

東京を中心にナンパ活動、その戦績を紹介します。

1945年の3月末に沖縄の慶良間諸島という沖縄本島から少し西にある小さな島にアメリカ軍が上陸した。そこから一気に4月1日には沖縄本島の西海岸に上陸し、ここから約3ヶ月間の戦いがいわゆる沖縄戦と言われている。この上陸した西海岸は読谷という沖縄本島のちょうど真ん中あたりの地域でそこから約2週間でアメリカ軍は北部を占領した。日本軍は中部に待ち構えていたが南にどんどん追いやられていった。首里城の地下に司令部を立てていたが、そこも捨てて最南端の方まで退いていく…。

 

石碑を一通り見終わり、僕たちは平和祈念資料館の中へと入っていった。入場料¥300を払って中の展示を見て回った。中には沖縄戦の歴史にまつわる年表や実際に着用していた住民の服や生活用品、そして防空壕の中の様子などがリアルな人形とともに展示されていた。比較的新しい構造の展示施設ではあるが照明は暗く全体的に重たい空気が流れ陰鬱なムードだった。沖縄は当時はまだ琉球という日本とも言えないどちらかというと独立した自分たちの文化や言語などがあり戦争とは無縁の状態だった。そこに日本軍がいきなりやって来て基地を構えて、住民たちを戦いに巻き込んだという悲惨な事実があった。想像してもらいたい、自分が南国の楽園の島で平和に暮らしていたらいきなり日本軍がやって来て「今日からここは我々が使わせてもらう。君たちの文化は捨てて、こちらのやり方に従ってもらう、そしてその使っている言葉も標準日本語をしゃべること。さらに人手が足りないので若い男子は全て戦いに参加してもらう」と言われたらどう思うだろうか?普通、軍隊は軍隊と戦うものだがこと沖縄戦は日本の敗北が濃厚な戦争末期の人手が全く足りてない状態で10代前半の子供も含む住民が戦いに駆り出され日本軍の手伝いをさせられていた。展示物はこれでもかというくらい残酷な歴史を僕たちに突きつけていた、それまで平和に暮らしていた住民たちが突然日本軍が現れて戦争に駆り出され、日本軍のために食糧など全て持っていかれ、多くの命が奪われていった。アメリカ軍の方も誰が住民で誰が日本軍なのかわからず無差別に命が奪われていったという。東京は空襲にあったが沖縄戦はアメリカ軍が上陸し住民のいる場所で日本軍と地上戦で戦った、空からの攻撃、銃撃、火炎放射、海からは艦隊射撃で狙われ、爆弾が大嵐のように降り注ぎアメリカ軍は「ありったけの地獄を集めた」戦場と呼んでいる。アメリカ軍も沖縄戦は精神異常やトラウマになる兵士が続出したという、泣きながら爆弾を抱えてアメリカ軍目掛けて走ってくる女や子供もいたらしく、想像しただけで震えが止まらない。

 

沖縄戦は軍隊が住民を守らなかったと語り継がれている。中には日本兵に命を助けられた人もいるかもしれないでもほとんどが日本兵に命を脅かされたり、敵国のスパイと見なされ実際に命を奪われている人がいたと展示されていた。栄養失調、餓死、そしてマラリアで死亡した人たちもたくさんいる。中には自決する人も多数いたという。日本軍の教えは生きて虜囚の辱めを受けずというようは捕虜になるくらいなら死を選べという教えだった。大怪我を負って沖縄の洞窟内に寝かされた軍人たちの中には毒が入った飲み物を飲まされ集団自決したという事実も残っている。一方で住民たちにも自決を迫っていたという、兵士と同じ軍官民共生共死という方針で住民がアメリカ軍に投降するのも許さなかったという。「国のために戦う」という名目で多くの命が奪われた。果たして日本軍はこれだけ多くの人たちを犠牲にして何を守ったのか?展示物を見れば見るほど守っていない、むしろ死に追いやっているとしか思えなかった。沖縄の北側が占領されて投降した沖縄の住民たちはアメリカ軍から食べ物などをちゃんと与えられていて、子供達がテントなどの中でアメリカの教育を受けていたりという映像の記録が残っていた。投降した方がちゃんとアメリカ兵が守ってくれたように思える映像だった。戦争の捕虜も人間として扱うべきだが、日本軍は歴史をちょっと調べてみれば捕虜に対して容赦していないことがすぐにわかる。コリンファース主演の映画「レイルウェイ」という映画で1942年の泰緬鉄道の建設のことを描いていて、一応日本でも配給はされている映画だが日本軍がイギリス人やオランダ人、オーストラリア人の捕虜たちに強制労働を強いていた様子が比較的ソフトに描かれているので見てもらいたい。マラリア、コレラや栄養失調さらに次の作戦のために建設を急いだせいで1日10時間以上も働かせ合計で10万人以上の捕虜がこの建設で命を落としたと言われる。あまり勧めたくないが「日本鬼子(リーベンクイズ)」というドキュメンタリー映画がある、1931年の満州事変から15年に及んだ日中戦争の中で中国に対する侵略行為を実際に実行した元日本軍兵士14人を取材し、自分たちが実際にしたことを本人の顔出しそのままにインタビューを収録したという映画だ。これを見ると加害の歴史がよくわかるが内容がかなりエグいので見る人はかなり覚悟して見た方がいい、中には笑いながら自分の行った残虐行為を語る人たちがいた、さも自分の功績のように目を輝かせていた。その人たちによれば中国侵略していき村々を襲って食料を奪い、村人は殺し、若い女はかたっぱしから犯してからその後で殺害した。中には犯した女を井戸に蹴落として、近くで赤子が泣いていたのでどうやらその女の子供だったらしいので、赤子も一緒に井戸に放り込み手榴弾を入れて一緒に殺害したと本当にその映像で本人が語っている。猟奇殺人などのニュースがたまにあると人間の怖さに改めて恐怖するがそのどれよりも僕はこの日本軍の行いの方がゾッとする。

 

戦争には勝った国と負けた国があり、そして勝ち負けに関係なく加害者と被害者がある。日本は原爆を二回も落とされて戦争の悲惨な歴史として刻まれた。その印象が強いからか、どうしても日本は「戦争によって甚大な被害を受けた」という印象が先行し日本人の記憶に刻まれているが、日本も加害の歴史が事実としてあることを忘れてはいけない。中国や韓国が反日運動をしているニュースを見て「いつの時代の話言ってるんだよ?」とか「はいはい、またやってるよ」と鼻で笑う人がいる一方で日本も毎年8月6日、8月9日には原爆被害にあった人たちを弔う式典が開催され大々的にニュースで報道されている。アメリカ大統領がそこに列席することに「お前らが落としたのにどの面さげて列席してるんだ?」とか憤る人や東京大空襲の悲惨な歴史を引っ張り出してはアメリカに対して敵意を剥き出しにする人がいる、それは「いつまで昔のことを言っているんだよ?」と矛盾するのではないだろうか?僕は原爆被害にあった人を軽蔑するつもりじゃないし悲惨な歴史を繰り返すべきじゃないと心から思っているしどんな理由があっても戦争には大反対である。だが自分たちのやったことに目を瞑って、被害にあったことだけをいつまでも語り継ぐことに疑問を感じているのだ。

 

加害の歴史の贖罪はお金を払って終わりではないと思う、被害者が相手を許すかどうかだと思うのだ。許しを得るまで誠意を見せることが大事だと思う。韓国の徴用工問題とか「もう戦後に賠償はとっくに済んだ」と言って何も取り合わない日本の姿勢に僕は疑問を覚える、「お金を払ったらもう黙れよ」という態度は絶対に取ってはいけないと思う。遺族の方々に対しての謝罪とそれに見合った賠償も必要だと思う。そこまでの誠意を見せて被害者が「あなたの誠意はわかりました、もう結構です」と言ってくれるまでやり続ける必要があると思う。金が全てじゃない、これ以上お金が払えないなら謝罪やその歴史があったことを正式に認める、そして教科書に掲載したり、事実としてちゃんと後世に伝えるように努力をすること、それらの姿勢を見せ続けることが大事だと思う。中には「いや、それをやると永遠にたかられる。金を払わされる」という意見もあると思う。万一たかりはじめたらそれはまた次の問題になる、そんなことをすれば今度は近隣諸国からのイメージがガタ落ちになるから被害者国もそこは慎重に考えるはずだ。

 

「お金を払ったからもういいだろ?黙れよ」という考えはじゃあ、あなたに息子がいて明日その子が車に轢かれて亡くなったとする。運転手が金持ちで慰謝料を大量に支払って来て「お金を払ったからもういいだろ?黙れよ」と言ってきたらどう思うだろうか?それで許せるだろうか?以前に僕の知り合いと議論したことがあった、その人は僕より年上で子供もいる。その人は昨今の中国や韓国のことに関して「昔のことを今色々と言ってくるのはおかしい。もう賠償も済んでいる」という主張だった。そこで上述のように「あなたの息子が交通事故にあったら」という話をしてみた、でも彼は「それとこれとは違う」と主張した。何がどう違うかを聞いても彼は答えられなかった。彼の主張は戦争で起きた昔のことをいつまでも引きずっていると前に進めない、だからどこかで終わったことと線引きをしないといけないというのが彼の主張だった。でもそれを言っていいのは被害者の方である。加害者がそれを言ったら被害者としては怒りが増すだけである。

 

沖縄は戦争の後も翻弄され続けた。展示の最後の方は戦後沖縄の当時の生活様式などが当時の街角の様子などをマネキンなどと一緒に展示していた。アメリカ軍を主なお客としてオープンしていたBarやいわゆるキャバレーのようなお店、アメリカのタバコの銘柄、英語で書かれた錆び付いた看板など当時使われていた実物がいくつか展示してあり、先ほどの沖縄戦の展示スペースとは違ってやや明るいタッチで陳列されていた。戦後の沖縄はアメリカ軍政下におかれ、やがて朝鮮戦争が始まると沖縄を東アジアの要としてアメリカ本土からの駐留軍を追加し、旧日本軍の施設以外にも住民の土地を強制的に接収した。これは「銃剣とブルドーザーによる土地接収」と呼ばれて、沖縄戦の時は日本軍が守ってくれず、戦後はアメリカが軍事力にものを言わせ土地を奪っていくという翻弄される歴史を辿っていた。そして1952年の平和条約において沖縄は正式にアメリカ軍の管理下におかれ、琉球政府が創設されるとアメリカの軍事施設が次々と建設されていった。無理矢理土地を奪っていくアメリカ軍と住民との間で事件が起こり被害者も多く出るようになると、「島ぐるみ闘争」と言われる抵抗運動を県民たちは起こすようになる。抵抗運動が激しくなり琉球政府はアメリカに対し「土地を守る四原則」を直接アメリカ政府に訴え、この要請に対しアメリカ下院軍事委員会はプライス議員を団長とする調査団を沖縄に派遣した、しかしプライス議員は結果的に長期にわたって沖縄をアメリカの統治とすることでの利点などアメリカに都合のいい報告をアメリカ議会にしただけで沖縄住民の期待を大きく裏切る結果となり1965年の夏には島ぐるみの闘争はさらに過激になっていった。

こうした沖縄の抵抗に対し、アメリカ政府はオフリミッツという米軍関係者を民間地域への立ち入り禁止とすることで戦後復興の最中なのに経済的なダメージを与えた。結果として琉球政府は米軍基地として土地を使用することを認めざるを得ないという歴史を辿った。

 

ニュースで普天間基地の問題など沖縄の問題を聞いてもいまいちピンとこない人がほとんどだろう。でも、自分の家のそばに米軍基地があって快晴の空を米軍の軍機が飛び交い、いつ墜落してくるかわからない不安と恐怖と騒音に今でも悩まされ、沖縄戦で使用された不発弾がいまだに地中深く埋まっているという恐怖にも怯えないといけないと想像すれば少しは沖縄の人たちの気持ちに寄り添ってあげられるのではないだろうか。酔っ払った体格の良い軍人が夜道で女性に絡んできたり暴行などの問題も取り沙汰されている。

 

資料館を見終わり外へ出ると抜けるような青い空が広がっていた。太陽の光が室内の暗闇に慣れた目を鋭く貫いた。この美しい空と海、豊かな自然と独特の文化と風土、そして助け合い歌と踊りと芸術を愛する自由な精神、戦争に巻き込まれその美しさゆえどちらの国にも翻弄されてしまった沖縄という南の楽園。戦争の暗い歴史の中で失ったものは計り知れない、家や生まれた土地を失った人たち、家族や愛する人を亡くしてしまった人たち、それでも沖縄の人々は希望を捨てず明るい明日が必ずやってくると信じ続けた。「ありったけの地獄を集めた」戦場となった土地に咲く血のように赤いデイゴの花言葉は「夢」。夢を信じ続け希望を持ち続けて乗り越えて来た歴史があるから沖縄のこの島と人々は力強く美しいのかもしれない。

 

一陣の風が平和祈念公園の中、木々を揺らし駐車場へ向かう僕たちの体をすり抜けた。なぜかはわからないが風に乗って、The Boomの「からたち野道」が聞こえたような気がした。

 

 

赤い実にくちびる染めて

空を見上げる

これ以上つらい日が来ませんようにと

飛び石踏んだ

 

からたち野道 花ふく小道

泣いたらだめよと虫の音小唄

からたち野道 はるかな小道

あのひとのもとへと続く道

 

紅い血にくちびる噛んで

空を見上げる

もう二度とつらい日が来ませんようにと

まぶたを閉じた

 

からたち野道 垣根の小道

泣いたらだめよと沢の音小唄

からたち野道 はるかな小道

あの人の歌がきこえた道

 

赤い実にくちびる染めて

空を見上げる

これ以上つらい日が来ませんようにと

飛び石踏んだ

 

からたち野道 草笛小道

泣いたらだめよとなずなの小唄

からたち野道 はるかな小道

あなたのもとへ駆けてゆきたい

 

ひとりぼっちの陽だまり小道

いつも二人で歩いてた道

こずえの花を摘みとりながら

泣きべそかいては困らせた春

 

からたち野道 花ふく小道

泣いたらだめよと虫の音小唄

からたち野道 あの日のままの

あなたのもとへ駆けてゆきたい