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台湾探見~Discover Taiwan Week、4回目に聴きに行った講座は、『日本語世代に訊く、日本時代と今 - 建成会の人々』。
 
 建成会というのは、日本時代に台北にあった小学校のこと。ここは現在、台北当代芸術館というモダンアートのギャラリーになっています。この建成小学校に通っていた台湾人のお三方が、当時の話をしてくださいました。
 

 
左から、進行を務める片倉佳史さん、シャロンさん、藍さん、レイコさん。とくに藍さんには、以前個人的にお世話になったことがあり、楽しみに伺いました。以下、走り書きですがおもしろかったところをレポ。
 
・当時、台湾人が日本人の小学校に通うには、家庭でも家族全員が日本語を話し、日本式の暮らしをしていなければならず、役人が家まで確認しに来る、ということもあったそう。
・富裕層であることも条件のひとつだった。シャロンさんや藍さんのご家族は、日本名に改名することはしなかった。なぜかというと、改姓名をするともらえる配給が増えたりするんだけど、そんなことしなくても富裕層だから生活に困っていなかったから。とくに藍さんは当主が総督府の評議会員だったり、第一銀行を作ったりした、台湾8大家族と呼ばれる名家の出身だったから、名前を非常に大切にされていた。
・総督府評議会員は、35名いて、日本人20人、台湾人15人。ここに選ばれるのだけでも、相当なエリート。
・片倉さんから説明があったのは、改姓名は強制ではなく、むしろ認可制だったこと。厳しい審査があって、それに通った家族だけが改姓名を許されたという。林さんが大林さんに、黄さんが廣島さんになったり、元の苗字が残る形で改姓名することが多かったらしい。それにしても、改姓名って、許されればけっこう自由に変えられたのかな。
 
・当時、台湾人が行けた大学は台北帝大の医学部のみ。日本にはない病気を治療・研究するには台湾人のほうがよいという考えで、そのほか人文学科に進むことは許されなかった。これは、独立思想など先進的な考えを持たれるのを防ぐためでもあった。だから、お金のある家の子どもは、日本の大学に留学させた。内地に行ってしまえば、おとがめはなかったそうだ。藍さんも自身も、昭和5年京都北白川生まれ、京大法学部出身という。お話を聞いていると、内地に住んでいるときは、台湾よりも自由で差別が少なかったような印象を感じるんだけど、実際のところはどうだったんだろう。
・当時の中学の分布もおもしろかった。台北には4つの中学があり、一中、三中、四中は日本人、二中が台湾人の中学校だった。極めてまれだが、二中に日本人が通うケースもあった。
 
・藍さんのお父さんは、上海で日本の諜報員のようなことをしていた。その関係で、敗戦後、国民党に追われ、密航船で日本へ。そのとき100キロ14俵もの砂糖を積んで、14日間かけて日本のウワジマに到着(愛媛か?)。藍さんのお父さんは、砂糖を売って、台湾独立運動の資金にしようとしたが、ヤクザの襲撃に遭い、砂糖を盗まれてしまう。
・外国人証明書を獲得するために、上海でお世話になった日本人が嘘の証明書をつくったりして、協力してくれた。
 
・昭和20年5月には、台北大空襲があった。子どもだった藍さんは、ヤシの木に当たった機銃掃射の弾をナイフでほじくり出して、それをキーホルダーのようにして身に着けて遊んだりした。
・終戦後、灯火管制も不要になり、夜の街に明かりをみた時の嬉しさは忘れられない。
 
今回もまた時間の関係で、個人的に聞きたいことたくさんあったのだが、質問コーナーの時間はなく、、、でも、たいへん貴重な時間でした。
 
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