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やってきました台湾探見~Discover Taiwan Week3回目の参加。
 
この日のテーマは、『張文芳先生に訊く 日本統治時代の台湾、そして日本』。走り書きレポです。
 
 
まずあじめに、張さんの簡単な自己紹介がありました。
・張さんは昭和4年(1926)桃園生まれで、今年93歳。
・6歳~小2まで、貿易商をしていた父の仕事で、家族で大阪豊中市服部に住む。
・昭和12年のシナ事変のときに台湾で戻る。
・昭和15年にまた大阪へ。そのまま中豊島小学校を卒業されます。(だから張さんの日本語が関西なまりなんですね)
・昭和17年に天理中学に進学し、在学中に学徒動員で魚雷製造に従事。
・昭和20年、横浜磯子の日航整備員技術者養成所に入所。そのまま終戦。昭和21年に台湾へ戻る。
・屏東女子中学の書記、ニット工場の経営と貿易、翻訳業を経て、現在は、正しく美しい日本語を伝える友愛会の代表。
・2015年には、「長年にわたり日本語の普及、日台間の相互理解に寄与」した功績が認められ、旭日双光章を授与されました。(このあたり、自分からは進んでお話にならない控えめなところなんか、日本人という感じがする)
 
・横浜に住んでいた頃、山手の防空壕に4時間も避難して、出てきたら、街じゅう機銃掃射にやられた死体が山積みになっていた。横浜は坂が多くて、その坂を、血がずっと流れ続けていた。
・帰還するときは、広島の宇治美から。当時の日本は、夏はゴミ、冬はシラミが多くて、消毒のためにDDTを頭からかぶせられたりした。
・基隆港に到着して、やっと帰れると思ったら、船内で天然痘が発生して、そのまま3日間上陸禁止。
・そのときに船上から、「祖国」からやってきたといわれる国民党軍のみすぼらしさを見て、これは大変なことになる、と思った。
・国民党の軍役中など、経済は破綻状態で、一番いい服装でさえ自作のわらじ。長ズボンが破れてきたら半ズボンに作り替えるなど当たり前だった。
 
・小3~4のとき、桃園神社の落成式の餅まきに行ったことを覚えている。(6歳で大阪に移住しているとおっしゃったような気がしたので、これは帰省中の話?あ、私が「6歳のとき」を、「小6のとき」と覚え違えたのかも)
・台湾では毎月1日興亜奉公日に、梅干一個だけの日の丸弁当を食べていた。味がたりないので塩をかけたりしていた。
 
・当時台湾には日本人用の小学校と、台湾人の公学校があり、台湾人が小学校に入るのは特例。条件としては、①家族に犯罪者がいないこと、②裕福であること、③家族全員が日本語を話せること。だから張さんのほかに、小学校に通っていた台湾人は一人だけ。彼は養鶏場の息子だった。今となっては、養鶏場が富裕層というのは実感がないが、当時、鶏卵というのは病院のお見舞いに持っていくような高級品で、内地用、日本人向けの商売だったらしい。
 
・基隆港から内台航路で日本へ行った。
・基隆駅から港まで、当時はエスカレーターもないので、階段で3階くらいあがったところに船着き場があって、そこに橋をかけて乗降していた。昔は管弦楽団が「蛍の光」を演奏したりして、それは風情があった。船が離れる時、5色の紙テープを投げる。基隆港から船が出る時、海に向かってまっすぐではなく横向きに進んでいく。時間をかけて離れていく船、波止場に散るテープを船上から見ていた。
・3泊4日で門司か下関へ着いたと思う。
 
・当時、台湾から日本へいくとき、高級品だったバナナを竹籠に入れて個人輸入し、それを売って日本での生活費にした。果物の改良が進んで、高い木は低く、実は大きく、糖度は高くなっていた。
 
・張さんは、中2のときに「トヨシマフミオ」に改名。強制ではなかった。
・張さんの母は、大阪の街を歩くとき、わざわざチャイナドレスを着ていた。
 
・戦後、日本にいる台湾人は戦勝国の人間となり、総会華人バッヂというのが与えられ、電車はタダで乗れて、配給もあった。
 
・その後、張さんが長年続けている台湾語に見る日本語の研究の話など。
 
時間の関係もあって、これでもかなり端折りながらお話されていた。なんたって93年間を振り返るんだから、本当は丸一日かけてお話を聞きたいくらいだった。
台湾が日本に統治されていた時代に生まれ、日本語で教育を受けた世代のお話を聞ける機会は本当に貴重なので、今のうちにたくさん聞いておかなければ。
 
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●拙著出てます