こんにちは。
 
 
「憲法のおはなし」くぼいなみ です。


今日は私と憲法のことについて書いてみました。


私には、「こうあらねばならない(かも…。)」に縛られて、「普通」にしているのがしんどくて、でも必死で「普通」に暮らして、「普通」に合わせられない自分は人間失格、私なんていなくなっちゃえと思っていた数年間がありました。


特にお寺にお嫁に来たときに、誰にも頼まれてないのに自分で勝手に「お寺の嫁らしくスイッチ」を押してしまい、それからがつらくて苦しい日々の幕開けでした。


その頃の私のテーマ曲は「ドナドナ」ニヤニヤ


そして私が誰になろうとしていたのかは謎…真顔


今考えるとみんなとっても歓迎してくれていたし、優しくしてもらっていたのに。私が勝手に思っていた「普通」とか「お寺の嫁らしく」って何だそりゃって思うけれど…


でも、人との出会いや、本や映画や音楽や整体を通しての自分観察、そして傾聴を学んで自分の気持ちに深くじっくり向かい合うことで


お寺の嫁とか主婦とか母とかいう肩書の1つひとつが私。


そしてそれ以前に、私は私。


全部ひっくるめて私。


そんな風に思えるようになりました。


そこに至るまでの出会いや学びや気づきに力強い根拠をくれていたのは、間違いなく


「すべて国民は
個人として尊重される」


という 13条だったと思います。


この条文を知ってからからだに落とし込むまでには数年かかったけれど、「個人として尊重される」ことが憲法で約束されていると知っていたから、どんなに揺らいでも迷っても根っこの部分で、私は私でいいと確信を持っていられたと感じています。


だけど


自分が自分を尊重できるようになっても、
いくら私が強く気持ちを持って私でいようとしても


社会全体の共通認識が…


「女性は女性らしく」とか
「日本人らしく」とか
「お母さんらしく」だったら。


「普通に」とか
「平均的に」が
良いことだったら…


「先生の言うことを聞く子」
「家族に尽くす嫁」
「会社に従順であること」
「国の政策に従うこと」
「国の役に立つ人間」が良し


とされることが社会全体の抗いようのない共通認識だったら。。。


実際に改正草案にはそんなようなことが書かれているんです。


(余談ですが、夏休み前に学校で配られるプリントで、小学生・中学生らしい服装で過ごしましょうって何なんでしょうか。カツオやワカメみたいなの?)


例えば戦時中だったら…


いくら「私」が幸せでも、思ったことを言えない、弱いことを責められる、好きなことができない。


死ぬことを国から強要されて拒否できない…。


誰かの都合で命を落とす…。


国のための個人であることが重要で


生きることすら自由にならない。


勇気を出して「こんなのおかしい。」「こんなの嫌だ。」なんて言おうものなら近所から責められたり、家族にまで影響が及んだり。そんなことが起きていた時代があったことを心に留めておかなくちゃと思います。


それに似たようなことは今だってあって。


学校、部活、職場、町内会、家庭などなど


身近なことに当てはめてみたらいいかもしれません。


今だって、私だって、ん???って思っても言いづらい場面があるし。


曖昧で、誰が決めるんだか誰が判断するんだかわからない基準の中で生きるって、相当窮屈だし理不尽じゃないかしら。


国の一番の決まりの憲法は、法律などを作る上での指針となっています。


そんな憲法が個人よりも国や組織を優先しだしたら、間違いなく社会はどんどんその方向に進んでいくでしょうね。


1人ひとりが自分に忠実に、自分を大切に自分らしくいる。同じように、他者にも目を向ける。


それはとても大切なことだけれど


1人ひとりに委ねるだけじゃなくて


勇気や覚悟を持たなくても「これが私」と言える社会になるように。


社会全体が当たり前に優しくなくちゃ。


私は、見えない枠に窮屈な思いをしている誰かに憲法を知ってもらうことでサポートができた嬉しいし、憲法に書かれていることの良い面やそうでない面や、改正草案に書かれていることを1人でも多くの人に実際に見てもらって、身のまわりのことを一緒に考えていけたらいいなぁって思っています。