「あんたには夏美って付けるつもりやったのにねぇ」

 

これは何度も聞いた母から僕に対するセリフ。

1980年2月29日のほぼ正午。

福岡市中央区の某病院にて僕は産まれた。

僕は男3人兄弟の末っ子。

 

僕の母はずっと女の子を欲しがっていたそうだ。

当時の医学がそうだったのか、母が選んでそうしたのかはわからないが、産まれるまで子供の性別はわからなかったのだそう。

兄二人が産まれた時にも女の子じゃないことを少し残念がっていたらしい。

3人目だった僕の時は、兄二人の時とは妊娠期の様子が全く違ったのだそうだ。

普段はそこまで甘いものを欲さない母だが、僕がお腹にいる頃には毎日甘いものが食べたくて仕方がなかったのだとか。

 

「今度こそ女の子に違いない」

 

母はいつしかそう思い込むようになり、産まれてくる前に僕の名を夏美と決めていた。

産まれてくるの全然冬なんだけどな。夏美はおかしいだろ夏美は。

 

「元気な男の子ですよー!」

「ええええええええ???」

 

僕が産まれた瞬間の母の第一声がこうだったそうだ。

 

「あんなリアクションする母親は見たことがありませんでした」(某産婦人科助産師)

 

上記のような発言が助産師からあったかなかったかは知らないが、それくらいのリアクションだったらしい。

産まれたての僕、かわいそう。

 

まぁしかし、実際は僕の母親は3人の兄弟に分け隔てなくこれ以上はないくらいの愛情を注いで育ててくれた。

母には感謝しかない。

 

僕が2~3歳の頃、僕の母方の祖父が亡くなった。

僕のことを可愛がってくれたらしい祖父の記憶は僕には残っていない。

祖父が亡くなり、僕の家族と祖母は同居することになった。

どういう経緯があったかは知らないが、祖父が残してしまった借金がありそれを僕の両親が肩代わりすることになったのだという。

経済的に苦しくなった我が家は母も働くこととなり、僕ら三人兄弟の面倒はほとんど祖母が見ることとなった。

 

祖母と言ってもこの時はまだ50前後。

まだまだ若く、よく母親と間違えられたのを覚えている。

祖母は主人を失った悲しみと寂しさを全て3人兄弟の面倒を見ることで穴埋めした。

兄二人は小学生だったが、僕はまだまだ幼くて一番手がかかる。

そんな僕にこそ、本当に愛情をやりすぎなくらいぶつけていたように思う。

甘やかされまくって育った記憶しかない。

 

例えば、僕はある時期、晩御飯をまともに食べたことがなかった。

「もう食べたくない」と言ってご飯を残す。

そしてスナック菓子やジュースを口にしても、祖母は全く怒らなかった。

僕がそんな食生活で栄養失調になってしまい、病院に連れていったときに先生に「これは栄養失調ですね」と言われた時は本当に恥ずかしかったと、母は最近でも時々その話をするほどだ。

 

母は子供の面倒を祖母に任せなければならないほどに、本当に激務をこなしていた。

そして母は祖母にはかなり厳しく育てられたので、祖母に任せておけば大丈夫だと思うところもあったらしい。

しかし実際の祖母は僕に対してしつけというものをほとんどすることがなく、何かをやりなさいと言われたことは一度もなかった。

歯磨きをしろとすら言われないので、口の中は虫歯だらけ。

小学校の時間割を見て、次の日の教科書とノートをランドセルに詰めるのは僕の祖母。

朝起きたら靴下や洋服を祖母に着せられていた。

 

今思うと本当にかわいそうな子供である。

 

わがままが服を着て歩いているような子供で、小学校2年生くらいの時に授業中に席を立ってスタスタと歩き出し、仲のいい友達の席へ言って「今日ウチに遊びに来る?」と聞いてみたり。

家の近所の駄菓子屋に行くのが好きで、毎日祖母に「100円ちょうだい」とお菓子代をせびった。

 

好きなことをして生きていたい。

欲しいものは欲しい。

やりたいことは今すぐやりたい。

常にみんなの中心でいたい。

 

そんな僕の根底にある人間性は、この時に形成された気がしてならない。

僕の幼少期は本当に、子供でなければ救いようがないほどのダメ人間の生活そのものだったのである。

 

 

つづく

今の部屋に住んでちょうど2年。
築年数はそこそこいってるが、それを感じさせない綺麗な外観のマンションで気に入っている。
山手線沿線から徒歩5分ほどであの家賃なら大満足。
ちょっと……というかかなり狭い事以外に不満はない。

7階ということもあり、部屋で虫を見たことはない。
一度僕の部屋のベランダを死に場所と決めた蝉が息絶えていたことはあるが、それも室内で見たわけではない。
てか蝉って7階とかまで飛んでくるのな。
最後にどこまで飛べるか挑戦したのかもな。
もっと高く、もっと遠くへ。
あの空の向こうには何があるのか、お前は7日目の夜に飛んでいくことを決めたんだ。

「お前の思いは俺が見届けたよ」

そう呟いて僕はチリトリで拾ったその蝉を思いっきり7階から茂みへとぶん投げた。
虫嫌いなんだよね。


2年1ヶ月目のとある日、僕の部屋にどこから紛れ込んできたのかとても小さな羽虫が飛んでいた。
非常用にゴキジェットは買ってあるが未開封。
狭い部屋で当たるかわからない小バエにスプレーをジェット噴射することは躊躇われた。

小バエくらい、手で叩き潰せばいいじゃないかと思うかもしれないが、僕には無理だ。
ハエという生き物には、実にゴキブリの約2倍のばい菌が付着しているらしい。
ハエは動物の死骸や糞などのばい菌だらけのものを好む。
そういう風にできている生き物なのだ。
それを手で叩き潰すということは、糞や死骸を手で触ることと同意義なのだ。

という動画をYouTubeでほんの2週間前くらいに見た。
見た僕にはそれはできなかった。

そいつを初めて見た次の日にもまだ飛んでいるのを見かけて僕は決意した。
もう家の目の前のコンビニでコバエホイホイを買ってこようと。
スーパーまで行けば安く買えるとしても、割高でもいいから早くこいつを殺ろうと。

目の前の誰も聞いたことのない名前の謎のコンビニに行くと、コバエホイホイは置いてなかったものの、類似品のコバエがポットンなる商品を発見。
500円くらいしてヒヨったが、あいつが飛び回るのを早くやめさせたかった。

買って帰り、一週間断食した後の弁当を開けるかのような勢いで、僕はコバエがポットンを開封する。
開けると「コバエが好きな匂い」らしいものがツンと鼻に刺さる。
小蝿と小車ってなんか似ている。
でもこの匂いは小車は全然好きじゃなかった。

それでも我慢して部屋に置いた。
あいつがポットンするまでの辛抱だ。

僕の願いは届かず、次の日もその次の日も、コバエはポットンしなかった。
そもそもこの商品ってコバエがわきそうなところに置いとくと数匹入ってくれる的なものっぽくて、一匹をやっつけるためだけに買う人はいなさそうである。

だから商品が悪いわけじゃない。
僕の選択が間違っていたんだ。

やるせない思いをあざ笑うかのように、コバエが僕の目の前のテーブルに止まった。
僕はおもむろに平手でコバエを叩いてみた。
当たると思っていなかったが、ここ数日間僕を苦しめたコバエはいとも簡単にテーブルで潰れた。

ティッシュでコバエを包みゴミ箱へ。
ハンドソープで手を洗う。
ハエ太との思い出が脳裏に蘇り、ロードムービーのように流れていく。

ハエ太「なぁ、ちょっとお邪魔していいかな?」
ハエ太「俺、ここ気に入ったよ。帰りたくないな」
ハエ太「決めたんだ、俺、ずっとお前と一緒にいるって」
ハエ太「お土産ありがとう。あれすごくいい香りだけど、あれ食べたら俺死んじゃうんだ。ごめんな」
ハエ太「落ち込んでるのかい?俺でよかったら話聞くよ……なぁ、話すだけでも楽になることもあるy……うわああああああ」


手を洗いながら僕は小さな声で呟く。

「お前との日々、楽しかったよ」

そして僕はハエ太が入ったゴミ袋をゴミ置場にぶん投げた。
虫嫌いなんだよね。
続けているということは進化しているということ。
僕らは成長をやめられない生き物だ。
逆に何も変わらないことを何年も続けられる人の方が希少だろう。
いつだって未熟だと思っているし、向上心は忘れずにいたい。

それでも人には自己顕示欲というものがあり、自分が頑張っていることや辿り着いた正解を誰かに披露して認めてもらいたかったりする。
未熟者のくせにだ。

過去にも書いた戦術などを改めて見直し、また1から書いていきたいと思う。
僕が10年以上のプロ活動の中で見つけたものなので、参考になる部分はどんどん使って欲しい。

その名も『勝負パンツ必勝法2019』だ。

大事な対局の日に穿くパンツの色や柄というのは、その日の対局にもろに影響する。
これはイギリスの哲学者トランブリー・フクス氏も論文を発表し、業界を震撼させたのは記憶に新しい。
氏の「あの日僕のパンツの色が情熱の赤でなければ、今ある幸せの半分も手に入れていなかっただろう」という言葉はあまりにも有名。


それでは本題に入ろうと思う。
まず大事なのはパンツの色だ。
パンツ選びの基本となるので押さえておきたい。

・赤
言わずと知れた情熱の赤。
赤ありルールではその力を強く発揮する。
カン5待ちになれば当然リーチ。
ロンであれツモであれ、赤であがれる確率が飛躍的にアップする。
当然だろう?
赤いパンツを穿いているのだから。

・黒
黒は闇の象徴。
そう、ヤミテンだ。
黒いパンツを穿いたならばリーチは控えなければならない。
どんな戦いにも地の利というものがある。
闇に潜む能力が高い者がわざわざ大手を振って居場所を知らせる必要はないのだ。
黒いパンツを穿いた日は闇の中で黒魔法を唱えよう。
その魔法で相手は攻撃されたことにも気付かずに息絶えてゆく。

・白
白は光の象徴。
白待ちが有効だというのは非常に浅はかな考え。
光は皆の心の中にあるもので、白いパンツを穿いたところで光はそう簡単に射し込んでくれない。
光とは癒し。癒しとはテンパイ料。
そう、形式テンパイだ。
役なんてなくても構わない。
白いパンツを穿いたなら、ガンガン仕掛けてテンパイ料で微差のトップを目指そう。

・青
大海原の青。
海は命の源。
つまりどういうことかわかるだろうか。
うん、そうだな、そうだよな、ピンフだよな?
理由はわかると思うのであえて書かないが、青のパンツは平和をたくさんアガれる。
横に横に伸ばすのが得策と言えよう。
ただし、忘れてはならないことが一つだけある。
その海の青は、空の青を映しているだけに過ぎないという事を……。

他の色にも詳細はたくさんあるのだが、この辺りでやめておく。
この4色を押さえておけば後は応用でなんとかなる。

次のステップ、柄の話に移ろう。


・無地
これはフラットでいられる精神を作る。
痛恨のミスも手痛い放銃も、全てをなかったことのような落ち着いた心を保たせてくれる。
いいんだ、お前は何も悪くないんだ。

・ボーダー
これはリーグ戦やタイトル戦の予選のようなボーダーを意識する戦いの日に適した柄だ。
昇級しそうとか降級しそうとかの日にボーダー柄のパンツを選ばないのは愚の骨頂。
負けるべくして負けたのだと思い知れ!

・チェック
対戦相手をくまなくチェックだ。
トーナメントなどの相手の特徴をよく知っておいた方がいい対局では当然チェック柄のパンツを選ぶべきだろう。
分析能力が飛躍的にアップする。
相手を分析する時には心のマイクロフォンを手に持ち、心の中で「チェックチェック!チェックワンツーYEAH」とラップ調でビートを刻むといい。

・ハート
心震える熱い対局がしたい日はハート柄一択。
勝ち負けにこだわらず心のままの打牌選択ができるだろう。
ただし、下半身にハートがあるという状況で、好みの異性が同卓すると逆効果。
あなたの下心が剥き出しになり、麻雀どころではなくなるだろう。


最後に、究極の奥義としてノーパン打法というものがある。
ありのまま、あるがままに、そして思い切った闘牌ができるかわりに、自分は今ノーパンで真剣勝負をしているのだという罪悪感と焦燥感が襲いかかる。
これは想像以上に、自分とのつらい戦いになるだろう。
素人が手を出してはいけない。
神はちゃんと見ているのだから。


いかがだっただろうか。
存分に役立ててほしい。


追伸。
これはジョーク記事である。
真に受けてどんな目に遭っても一切クレームは受け付けない。
受け付けるのはいいねとリツイートくらいだ。
朝、出勤中の電車の中での出来事。

僕は都内に住んでおり、職場は千葉県の松戸駅から徒歩1〜2分のところにあるため、行きも帰りも比較的電車はすいている。

僕は優先席ではない一般席の端っこに座っていた。
僕はあそこが好きだ。
大のあそこ好きだ。(キメ顔)
まず両サイドに知らない人に挟まれることがないし、ドア側の壁に頭を寄せて仮眠を取ることもできる。
端っこじゃない席で仮眠を取ろうとすると右か左かにフラッと頭が倒れてしまい、普段はヤンチャな暴れん坊将軍の僕も、知らない人の肩に甘えん坊しょう君になってしまう。
そうなると僕に肩を貸してくれた屈強な男性に夜の桜吹雪を見せつけられることになってしまいかねない。
これではどちらが暴れん坊将軍なのかわからないじゃないか。

それを防ぐ方法としては背後の窓に頭を寄せて上を向いて寝るというのがあるのだが、これは寝ていると必ず口が開いてしまう。
僕は普段から大体マスクしてるから別にいいんだけど、うっかりマスクしていくのを忘れようものなら、知らない人にいきなりポカリとか口の中に流し込まれてしまう。
もしそんなことになってしまったら、僕はもう熱中症にならずに済む。
ありがとう、ポカリスエット。

実際は僕はよほど疲れている時くらいしか電車で眠ったりはしなくて、ほとんどスマホをいじっている。
僕のルシファーがストライクショットを打って「光あれ!」と叫んでいる頃(モンスト)、僕の右側から大きな声での話し声が聞こえてきた。

右側のドアの向こうは優先席。
そこに座っていた20代前半から中頃くらいの男性が、突然スマホで通話を始めたのだ。
しかもなんとテレビ電話。
相手の声も聞こえてくるという大胆っぷり。

「だから何もしてないって」
「何もしてないわけないでしょ!バカにしないで!」
「いや、ベロベロだったから泊めたけど何もしてないよ。するわけないじゃんミユキがいるのに」
「……ほんと?」
「ほんとだよ」
「じゃあ好きって言って」
「好きだよ」

要約すると大体こんな感じの内容だった。
何を見せられているんだ僕は。
ていうかすごいなこの男の人。
こんな会話を電車の中でしかも優先席でテレビ電話でする勇気。
どう考えたってマナー違反なわけだが、多分そんなの気にならないんでしょうな。
そこまで思いっきりやられたら逆に気持ちいいよ。

と、僕は思っていたんだが、そう肯定的に思わないのが普通の感覚。
その若者の対面に座っていた初老のスーツ姿の男性が立ち上がり、その若者に穏やかな口調で声をかけた。

「そういうのは良くないんじゃないかな」

とても落ち着いた言い方で、内容だけなら一触即発の状態になりかねない言葉だが、不思議とトラブルにならなそうに思えた。
実際そう言われた若者も、特に反論する様子はなかった。

「あ、すいません。うるさかったですか?」

それに対して初老の男性はこう返す。

「電車はみんなの空間だからね。大声で話したりすると君の空間になってしまうんだよ。マナーというものを考えて欲しいな」

ここまではっきりと言いながらも、口調が穏やかだからなのか優しい印象を受ける。

「わかりました。気をつけます」

若者も素直に謝る。
これにて一件落着。
男性も元いた場所へと戻る。

初老の男性、よく言った。
みんなが気になってたことを、誰よりも上手に本人に伝えてくれて、同じ車両にいる人は全員胸がスッとしたに違いない。
ありがとう初老の男性。
また会おう初老マン。

……という風に、今目の前で起きた出来事を、素直に気持ちよく受け入れられない僕がそこにはいた。


なぜなら、その初老の男性は立ち上がって声をかける時から、話し終わって自分の席に戻るまでの間ずっと……。



めっちゃ肉まん食ってた。

麻雀談義で熱くなり、普段はすごく仲が良い相手とでさえ意見の食い違いで口論になる。
それが良いことなのか悪いことなのかはわからないが、最近はそうなることが随分と減ってしまった。

僕は麻雀プロになって11年目になる。
当然まだまだ向上すべき点は数え切れないほどある未熟者だ。
しかしこれでも僕なりに、たくさんの自問自答を繰り返したり、いろんな人の意見を取り入れたりしてきたつもりだ。
自分の中である程度土台として固まっている部分は、たとえ反対意見を投げかけられたとしても、一度自分の意見を述べる程度で、相手を納得させるまで討論しようとは思わなくなった。

不思議なもので、今よりもっと無知で未熟だった頃の方が自信に満ち溢れていて、人にも噛み付いていた。
知識と経験が増えていくほど自分の小ささを知り、自信は小さくなると同時に人に噛み付くことも減った。

きっとこの道の先に、今よりもっと知識と経験と結果を積み重ねることができたなら、そこに本当の自信が身に付いているのだろうなとぼんやり思いながら日々を過ごしている。
成長速度の遅さは自分の怠慢でしかないのだが、それでも辞めるつもりはまだないので、これからも自分と向き合って続けて行こうと思う。


これは、そんな僕が自信に満ち溢れていたプロ1年目くらいの頃のお話。


「三元牌が1枚ずつあって、どれかを切るとして、場況の差がないなら發を切るべきだよね」

これはゆちんのセリフ。
ゆちんというのは、かつて連盟九州本部で同期だった高木祐という名の友人のニックネーム。
一番麻雀熱が高い頃合いだった僕らは、対局後に飲み会に行けば必ず麻雀の話をしていた。

実際これはよくある意見で、三元牌のどれを切るかにほとんど差はないが、發には緑一色の可能性がある分先に処理した方がいいというもの。
これに対して僕は噛み付いた。

「どれ切ってもいいじゃん」

僕の意見は、じゃあ發を切るのが数巡遅れたせいで成就していなかったはずの緑一色が成就してしまうケースが一生の内にどれくらいあるのかと。
先に切らなかったから重なって、結果的に緑一色阻止になるケースだってある。

「いや、俺たち麻雀プロはこういう小さい部分にまでこだわりを持っていかなきゃならないのよ」

ゆちんも負けじと僕に反論してくる。
言っておくが、僕とゆちんは普段からかなり仲が良かった。

「そういうところにこだわるくらいなら、牌を1枚もこぼさないとか、長考しないで同じ打牌ができるようになるとかにこだわった方がよっぽどマシ」

今思えば、僕の言い方も悪かったのだろう。
僕の口調には自信が乗っていて、相手を否定している感情が丸見えだったのだと思う。
ゆちんも熱くなっていく。

「それはこの話と関係ないやん!牌こぼさない方がいい事と、三元牌どれ切るかは別の話!」

確かにそうだ。
そうなのだが、僕も全く折れない。

「だとしても、三元牌どれ切るかぐらいの話でそんなに長く話したくはないかな。せめて難しい牌姿から何切るかとかの話をしてほしい」

やめとけばいいのに僕も煽り返す。
こうなるともうお互いに一歩も引かない水掛け論へと発展していく。

2人でサシ飲みしてるんならそれもいいのかもしれない。
だがその飲み会は対局後に複数の麻雀プロが同席している中で行われていた。

熱くなり終わりが見えない2人の討論。
黙って聞いていた周囲の人間は、そこに参入することで当事者になるまいと静観を決め込んでいる。

この状況を変えることができたのは、結果的には彼女しかいなかったのかもしれない。
僕の同期であり、後のゆちんの嫁になる吉武みゆきプロだ。
2人のやりとりを、彼女はたったの一言で終わらせた。


「……もう!!砂かけ論はやめて!!」


これ以上、言葉は必要なかった。
今まで僕らが話していたことなどどうでもよくなり、僕とゆちんはお互いの顔を見て爆笑し合った。
その日の酒はとてもうまい酒になり、さっきはごめんねと笑い合った。


そしてその日から、吉武プロのニックネームが『砂かけババア』になったことは言うまでもないだろう。

小学3年生の時に僕の両親はマンションを購入し、福岡市南区鶴田に引っ越すこととなった僕。

その僕が住んでいたロワールマンションから急な坂を下りたあたりに住んでいた僕の親友である浦ちゃん。

小学5年生くらいの頃、僕が浦ちゃんの家にお泊りした時に生まれた遊びがある。

 

その名も『ゲームオーバー』。

 

この遊びはその後中学3年生くらいまでは定期的に二人きりの時に行われ、他の友達を含んで遊ぶ時には一切行われなかった。

特に秘密にしようと協定を結んでいたわけでもないが、自然と他の誰かに話すこともない遊びだった。

その誰にも話してこなかった遊びを、それから20年以上の歳月が流れた今、満を持して紹介しようと思う。

 

まず先攻と後攻を決める。

浦ちゃんが先攻、僕が後攻だとする。

 

浦ちゃん「朝、学校に行っている時、青柳さんがおはようと声をかけてきました。どうしますか?」

 

青柳さんというのは、僕が小学校5年生くらいの時に好きだった女子の名前である。

 

小車「おはようと返す」

 

浦ちゃん「じゃあ青柳さんが、せっかくだから一緒に学校行こうと言ってきました。どうしますか?」

 

小車「それは恥ずかしいからやめようと言う」

 

浦ちゃん「ゲームオーバー」

 

これで先攻のターンは終了。

浦ちゃんがストーリーを作り、僕がその話でハッピーエンドまでの道のりを間違えないように答えていくという遊び。

少しでも浦ちゃんが気に食わない答えを言うとその時点でゲームオーバーとなり、今度は相手のターンとなる。

まだときめきメモリアルさえも発売されていなかった昭和の時代に、僕たちはこんなマセた遊びを定期的に繰り返していたのだった。

 

小車「朝、学校に行ってる時、小早川(こばがわ)さんがおはようと声をかけてきました。どうしますか?」

 

浦ちゃん「いや、小早川は家が老司の方やけん、朝会わんもん」

 

小車「ゲームオーバー」

 

本当に、これくらいの時間で大体ゲームオーバーになる。

発想力も大してない小学生が面白いストーリーも作れやしないし、もはやただゲームオーバーって言いたいだけみたいになっていたのだ。

 

浦ちゃんは本当にピュアな心の持ち主だった。

どれくらいピュアかと言うと、クイズ番組で誰が犯人でしょうか?みたいなクイズで、こいつだけはないだろうと誰もが思うような、ひげ面に風呂敷担いでる絵に描いたような泥棒を犯人に違いないと思い込むくらいピュアだった。

 

こんな感じのやつ。

 

どれくらいピュアかと言うと、高校生の頃にはBOYS BE...を全巻持ってるくらいピュアだった。

どれくらいピュアかと言うと、ハッピーターンの味がうすいからと、取り皿に食塩を乗せたものを母親に持ってこさせ、それを付けて食べるくらいピュアだった。

どれくらいピュアかと言うと、チキンラーメンの袋を開け、それをそのままボリボリ食べるのがうまいと豪語し、うまいからおぐ(僕のあだ名)も食べる?と、自身のヨダレでベタベタになった右手でチキンラーメンを割り手に取り、その右手を僕に差し出してそのまま食べさせるくらいピュアだった。

どれくらいピュアかと言うと、近所にあったガストのドリンクバーと山盛りポテトフライで4~5時間粘り、山盛りポテトフライに塩をかけまくって浦ちゃん以外食べなくなり、注いできたアイスコーヒーにガムシロップのポーションを8個入れて飲むくらいピュアだった。

どれくらいピュアかと言うと、浦ちゃんの母親はオーザックというスナック菓子のことを「オンザロック」と呼んでいるくらいピュアだった。

どれくらいピュアかと言うと、浦ちゃんの家で夜中の3時くらいにトイレを借りたら、電気もついていない真っ暗なトイレのドアを開けると、鍵もかかっていなかったトイレで浦ちゃんのおじいちゃんが大きい方をしていて、すいませんと謝る僕に答えもせずに立ち上がって尻をさっと拭いて出ていくなんてこともあったくらいピュアだった。

 

そんなピュアな浦ちゃんだからこそ、そしてそんな浦ちゃんと親友になれるくらいピュアな心を持ち合わせていた当時の僕だからこそ、ゲームオーバーという遊びは僕らの中で廃れず続いていたのだと思う。

 

だけど中学生の頃に僕が浦ちゃんちに泊まりに行った時にやったゲームオーバーで、今までにはない結果になったことがあったのだ。

 

それは僕が話を作るターン。

中学生にもなると、僕にも多少想像力が備わってきていた。

 

小車「朝、学校に行っていると木村さんがおはようと声をかけてきました。どうしますか?」(変わってない)

 

浦ちゃん「おはよう。昨日は部活遅くまでおつかれ」

 

小車「ねえ、これ受け取ってもらえる?と、手紙を差し出してきました」

 

浦ちゃん「受け取る」

 

小車「浦田君へ。放課後、体育館裏で待ってますと書いてありました。」

 

浦ちゃん「ふむ」

 

小車「昼休み、今度は上田さんが話しかけてきました。放課後プール裏に来てほしいと言っています」

 

浦ちゃん「なるほど……」

 

小車「放課後、浦ちゃんは部活に行かなきゃなりません。部室に行く前に体育館裏に行きますか。それともプール裏にいきますか」

 

浦ちゃん「……」

 

このゲームオーバーは、今始めた話ではなく、何往復かお互いにやり合った後だった。

ゲームオーバーは布団に入って電気消してからやることが多かった。

この質問を僕がした段階でどうやら浦ちゃんは寝てしまったらしく、ここで浦ちゃんは強制的にゲームオーバーになってしまった。

僕がゲームオーバーと言うことはなく、終わってしまったのだった。

 

次の日、僕は浦ちゃんの家から学校へ登校した。

僕の家はゆるかったし、浦ちゃんの家ともかなり仲良かったのでそんなに珍しいことでもなかった。

 

こんなに仲がいい僕と浦ちゃんだったが、小学校3年から中学卒業するまで同じクラスになったことは一度もなかった。

僕は3年2組で、1組と2組だけ渡り廊下を隔てたサブ校舎みたいな建物に教室があり、その先にプールと体育館がある老司中学校。

5時間目の授業が終わり、クラスメイトの恵比須とダラダラ喋りながら教室になんとなく残っていた。

ふと廊下側の窓から外を見ると明らかに不自然なタイミングで、明らかに何もない体育館裏に、明らかに浦ちゃんが向かっていた。

当時の老司中の体育館裏やプール裏には本当に何もなく、特別な理由でもない限りそんなところには誰も行かなかった。

恵比須はまだ気付いていないようだったので、特に恵比須に教えることもなく僕は教室を去った。

ただ一つ言えることは、浦ちゃんは本当にピュアな男だったということだけなのだ。

 

そのことを、いまだに浦ちゃんと話したことはない。

偶然通りかかっただけなのかもしれない。

何か僕には思いつかないような用事があったのかもしれない。

 

だけど僕はこう考えずにはいられないのだ。

 

「僕がゲームオーバーと言っていれば……」

 

浦ちゃんの中では、まだゲームオーバーにはなっていなかった。

だから当然、体育館裏かプール裏か、どちらに向かったのかは定かではないが、そこに足を運んだのだ。

誰も待っていやしなかっただろう。

誰も待っていやしないことくらい、浦ちゃんだってわかっていただろう。

だけど夢か現かもわからないその曖昧な記憶を、確かめずにはいられなかったに違いない。

僕は本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

 

目的地にたどり着いた浦ちゃんはきっと、独り言を呟いたのだと思う。

 

「……ゲームオーバー」と。

CDが売れない時代と呼ばれるようになって久しい。
今では音楽というのはデジタルコンテンツである事が当たり前で、好きなアーティストの新曲が出たらCDショップに足を運ぶという人も少ないだろう。
そもそもCDショップってまだあるのか?
CDを買いたいと思ってもどこに行くのが正しいのか、僕はすぐには思いつかない。

たこ焼きが食べたければ銀だこに。
家具が欲しければニトリに。
○ンガが欲しければドンキホーテに行けばいい。
俺は買ったことはないけどな!ほんとだぞ!

まぁ、本当にCDが欲しい人はamazonかなんかで頼めばいいんだろうけど、だったらもうダウンロードすればいいやとか、そもそもyoutubeにあがってるんじゃね?とか、そうなるだけだと思う。


僕には5つ上の兄と4つ上の兄がいる。
兄2人はいわゆる年子というやつで、兄2人はやたらとセットで扱われたり、2人で何かを計画立てたり、兄弟で同じことをしたりすることが多かった。
兄2人が中学2年と3年だった時だっただろうか。
兄2人は早朝に新聞配達をしてお小遣いを稼いでいた。
兄達はそのお金を出し合って、当時では立派なCDコンポを買った。
CD3枚とカセットテープ2つ入れられ、さらにはラジオも付いている。
MDという劣化しにくいカセットテープにつぐ優秀なものが世に出てくるのはその数年後。

今の若者は知らないかもしれないが、昔はCDシングルが8cmでアルバムとマキシシングルだけが12cmだった。
買ったCDやレンタルCDからカセットテープにダビングしてカセットウォークマンやカーステレオで聴いたりしていた。
しばらく数ヶ月聴き続けているとだんだんテープが劣化してきて、テンポがゆっくりになって音が低くなったりする。
CDウォークマンなるものもあったが、少しの振動で音飛びが起こり、気持ちよく聴けずストレスを感じる瞬間も多くなる。
この音飛びというのは何もウォークマンに限ったことでもなかった。
CDコンポも数年使うと調子が悪くなり、買ったばかりの無傷で綺麗なCDでも音飛びするようになる。
どんなコンポでも起こることで、国民全員のストレスの元だったりした。

そのため、CDレンズクリーナーなるものも販売されていた。
ディスクに小さなブラシが付いていて、そこに専用の洗浄液をつけてコンポに入れて再生する。
それをすると確かにしばらくまた音飛びしなくなる。
だけどそれも本当にしばらくだけで、劣化したコンポはどんどん音飛びする頻度を増していく。

僕の兄は2人とも、チャゲ&飛鳥が大好きだった。
チャゲ&飛鳥のスーパーベストとスーパーベスト2は家でヘビーローテションされており、その影響で僕もかなりチャゲ&飛鳥の楽曲は今でもたくさん覚えているし、当時の僕自身も好きになっていた。

よく聴くCDというのはつまり、よく出し入れされるということ。
大事に扱っているようでも小さな傷がたくさん付き、そんなCDはもう再生すると飛びまくって聴ける状態ではなくなっていく。

ある日、二番目の兄の親友である桃坂君が遊びに来ていた時、ある裏技を教えてくれた。

「CDばライターで炙ったら音がちょっと飛ばんくなるけんね」

当時僕は小学6年生くらいで、桃坂君は高校1年くらいだっただろうか。
そんなわけないやろと言いたくなるような話だったが、実際に桃坂君が軽くCDをライターで炙ると、確かにさっきまでより少し音飛びがなくなったように感じた。
僕は子供ながらに素直に感動した。

それからというもの、僕はCDが飛ぶ度に桃坂君の真似をして、ライターで軽く炙ってはCDを再生して音楽を聴いていた。
これだけは言っておくが、子供に火遊びをさせてはいけない。
良い子のみんなは絶対に真似しないでください。
今思えば本当に危ないことをしていたと思う。

チャゲ&飛鳥のスーパーベスト2は、もう久しく聴いていなかった。
とにかく音が飛びまくって聴けなかったのだ。
聴けないとなると聴きたくなるのが心情というもの。

聴きたすぎて眠れない日には見上げたらモーニングムーンだったし、黄昏を待たずに聴きたい気持ちはCount Downしていた。
聴きたすぎて僕の心と指輪が泣いた。
それはまさにロマンシングヤード。
兄の当時の恋人はワイン色で、そんな兄はSAILOR MANだった。
狂想曲(ラプソディ)とも言えるようなLOVE SONGを聴いてTripしたかった。
あまりの聴きたさに僕は町をWALKしてドヤ顔に、いや、DO YA DO顔になっていた。
太陽と埃の中で、誰かに何かを問われたような気がして僕の答えはSAY YES。
ここまで書いたことは全部本当ですよと、僕はこの瞳で嘘をつく。


ちなみにですが、これはチャゲ&飛鳥のスーパーベスト2の曲目リストです。


僕はこれが本当に聴きたくて、ライターでCDを炙った。

「スーパーファイヤーベスト2だな……」

馬鹿なことを呟いていると、ちょっと炙り過ぎた。
CDが少し焦げて明らかに曲がった。
これではコゲ&火の鳥である。

僕は焦った。
兄に怒られたくなかった。
普段から厳しい兄ではなかったが、どこか絶対的に逆らってはいけない取り決めのようなものが僕ら兄弟の中にはあった。

完全に冷静さを失った僕は凄まじい解決策を思いついた。

「また熱して元に戻そう」

ライターで再度炙ってももっと焦がしてしまう可能性が高い。
もっと効率的かつ安全に全体を熱々にする方法があるはずだ。

「……やってみるか」

僕は電子レンジのドアを開け、そこにスーパーベスト2のディスクを置く。
とりあえず10秒くらいの感覚でつまみを回した。
どうなるものかとドアの向こうからCDを見つめる。

実際には、レンジが起動して焦って止めてドアを開けるまで3秒くらいだったと思う。
当時の僕には予想だにしないことが起こった。
見ていたディスクはレンジが動き出した途端、稲妻が空を走るようなイメージでバキバキにヒビが入り始めたのである。

少し焦げて曲がった上にバキバキにヒビが入ったディスクを、僕は何もなかったかのようにそっとチャゲ&飛鳥のスーパーベスト2のケースに戻した。

「コゲ&フェニックスのスーパーファイヤーサンダーベスト2……」

3日後、CDを見つけた兄に僕がYAH YAH YAHされた事は言うまでもないだろう。
ここ数年、毎月TFクイズSPというクイズ番組を配信しており、その番組のレギュラーとして出演させてもらっている。
その番宣がしたいわけではないが、時間が合えば楽しくやっているので是非見てほしい。

その番組はいつも平日の18時から放送開始なのだが、とある出演日は16時までさかえ松戸店で勤務してからスタジオに向かうというスケジュールになっていた。

常磐線快速で日暮里駅まで出て、山手線の池袋新宿方面の電車へと乗り換えをする。
その山手線に乗り込んだ時、同じ車両に若いスーツの2人組が僕の少し後ろから乗ってきて隣に座った。
電車って音楽でも聴いていないと、隣の2人の会話が聞きたいわけでもないのに入ってくるものだ。
その2人組はこんな話をしていた。

「この娘見て、めっちゃ可愛くない?」

「あー、可愛いね。どしたん?」

「こないだお持ち帰りしたんよ」

「まじ?こないだのやつ?俺も行けばよかったわ」

「まじ来ればよかったのに。まじあげまんだったし」

「なんだよそれw俺もあやかりたかったわー」

なんてチャラい会話なんだ。
それが本当なら羨ましいぞこの野郎。
でも大体こんな会話を恥ずかしげもなくしてる奴なんて大したイケメンでもないんだよな。
どれ、どんなブ男がそんな調子こいた会話してるのか見てやろうじゃないか。

僕はチラッと横目で2人を見る。

……イケメンだった。
なんかエグザイルにいそうだった。
エグザイルの後ろの方で踊ってそうだった。
結構な人数が出たオーディションで勝ち残ってそうだった。
確かにあげまんのかわい子ちゃんくらいはお持ち帰りできそうな雰囲気を漂わせていた。

僕は泣いた。
さすがに涙は流さなかったが心で泣いた。
別に何の勝負もしていないのに完敗した気がして悔しくて心はむせび泣いていた。
心の涙と心の鼻水を垂れ流しながら、心のネピアで心の鼻をかみながら、心のゴミ箱に投げ入れては心のスリーポイントシュートを鮮やかに決めていた。
そして僕の心のバスケ部は全国大会出場を決めた。

山手線の電車は日暮里から西日暮里、そして西日暮里を出て田端へ向けて走り出す。
そこで突然、その2人の内の1人が焦ってこう言う。

「あれ?渋谷逆じゃね?」

「え?まじ?ほんとやん」

「でも山手線って一周するからいいんじゃね?」

「いや、間に合わんやろ!20分に集合なのに」

「んー、じゃあ引き返す?」

「うん、次降りよう」

僕は2人の失敗に歓喜した。
他人の不幸を喜ぶ趣味はないが、あまりにもうらやまけしからん2人組の失敗に喜ばざるを得なかった。
さすがに声は出さなかったが心の歓声をあげた。
別に何の勝負もしていないのに完勝した気がして嬉しくて心のアリーナ席に手を振った。
心の司会者が心の祝電を読み上げる。
どこからともなく心のイントロが始まる。
てれってってれ。てってってっててれってってってってっててれー。
えんじょーい。
おんがくはなりつづける。
いっじょーい。
とどけたいむねのこどーう。
コッコーロオドルアンコールわかすだんすだんすだんすれでぃごーである。

黙って座っている僕のココロはまさにオドっていた。


電車は田端駅に着く。

「ちょうど電車来てる!」

2人組は電車のドアが開くと同時くらいのタイミングで、ホームに降りて目の前の電車に乗り込んだ。
遠くに見える2人組の顔は少し安堵しているように見える。

田端駅は山手線と京浜東北線が並走していることを、皆さんはご存知だろうか。
逆方向の電車に乗りたければ一度エスカレーターで上へ上がり、反対側のホームに降りてそこから電車に乗らなければならない。
そう、彼らは全く見当違いの京浜東北線に乗り、赤羽方面へと走り出したのである。

僕の心は、もう彼らを笑うのをやめていた。
むしろ心の中とはいえ、先程は小馬鹿にしてしまってごめんとさえ思えてきていた。

遠くを見るとオレンジ色の空。
他人のことなど気にしないこの大東京で、また今日も日が暮れていく。

隣の人にも聞こえないくらいの小さな声で、僕はそっとつぶやいた。


「あげまんじゃなかったみたいだな」


ちなみに僕あげまんって言葉の意味わからないんですけど、揚げたての饅頭であってますか?
とある日の午前中。
僕はさかえ松戸店に勤務していた。
平日で1卓マル。
マルという言葉は誰が最初に考えたのか知らないが、お客様だけで卓を囲んでいる状態のことをさす。
 
お客さんの麻雀を凝視することもできないので、なんとなくぼんやり遠くを見ていた。
窓から何気なく上を見上げると空は青く澄んでいて、まるでちっぽけな僕もこの街の雑踏も全てを包み込み吸い込んでいくような幻想を頭の中に巡らせながら、嗚呼、生きるということは本当に小さな躓きで嘆いたり、些細な幸せで有頂天になったりして、そんなことに振り回されてる僕みたいな存在はもう本当に例えるならばコンビニに並べられたおにぎり、もとい、その中の具、ツナマヨなんて人気者じゃない、紅鮭なんてエース級でもない、……そう、そうだな……すじこ?うん、すじこくらいの存在じゃないかな僕は、そのすじこ野郎が空を見上げてこんな思いを胸に命の重さと儚さをうr…
 
「リーチ代走お願いします」
 
「あ、はーい」
 
せっかくいいところだったのに、リーチ代走を頼まれた僕はその卓へ素早く向かう。
 
リーチ代走を頼んだのは竹田さん(仮)。
推定年齢68歳。
悪い人ではないのだが、意外な事で突然怒り出したり、他人への発言が一言多くてトラブルになったりする、少し困ったおじさんだった。
それでも毎回うまく注意したり仲裁したりしながら(店長とかが)、今もこの店で長く遊んでいるベテランプレイヤーだ。
 
その竹田さんは時々冗談っぽいことを言うことはあるが、基本的には寡黙ではしゃいだりおちゃらけたりするようなタイプではない。
 
卓に駆け寄る僕の後ろにはトイレがあり、竹田さんがリーチ代走を頼んだ理由はトイレに行くというものだった。
立ち上がってトイレに行こうとする竹田さんと、いち早く卓について待ちの確認をしようとする僕とがすれ違う形になり、何を思ったのか竹田さんは突然僕の前に立ちはだかった。
 
左から避けて行こうとすると左に立ちはだかり、右から避けていこうとすると右に立ちはだかる。
歩行者と歩行者が街角でよくある避けようと思ったら同じ方向にお互い避けようとしてぶつかりそうになるとか、そういうやつでは決してない。
明らかにふざけて僕の進行を邪魔しようと、僕を通せんぼしているわけだ竹田さん推定68歳は。
 
これは接客業だ。
僕も無下に「ちょっとどいてください」とあしらうわけにはいかない。
しかし同時にお客様は竹田さん一人ではない。
竹田さんのリーチを受けてなかなか代走が来ない卓は進行がストップしており、竹田さんと同卓している松田さん(仮)も梅田さん(仮)も後藤さん(本)も待っている。
正直言って、今竹田さんとじゃれている場合ではないのだ。
 
通せんぼをやめる気配がない竹田さんに、僕はフェイントをかける。
僕から見て右に行くと見せかけて即座に左から抜けるというロナウジーニョばりのフェイントをかます。
僕も伊達に小学校3年生春からサッカーをやっているわけじゃないんだ。
 
僕のフェイントについてこれなかった竹田さんは、僕から見て右側にドガシャアアアアァァァと思いっきり派手にコケた。
無理もない。
齢68の竹田さんに、小学校3年生夏まで3ヵ月間少年サッカークラブで経験を積んだ僕のフェイントを止められるはずがなかったのだ。
 
卓の進行を止めて待ってくれているお客様方も思いっきりこちらに注目、他の従業員も駆け寄ったがいち早く僕が竹田さんに手を差し伸べる。
正直に言おう、心底焦っていた。
 
「だ、大丈夫ですか!?」
 
店内にいるお客様、店長、チーフ、ヒラ、女子バイト、偶然今おしぼりを持ってきたおしぼり業者の山本さん、そして手を差し伸べる僕に見守られながら、たった一言、竹田さんはこう言った。
かすれた声ながらも、とても確信に満ちたようなそんな声で、確かに僕に言ったんだ。
 
 
「……ゆけッ!」
 
 
僕は卓につく。
もう、後ろは振り向かなかった。
だってあの目は、本物の決意を宿した漢の目だったから。
「俺を倒していけ」と言わんばかりに立ちはだかり、そして倒された男の最後の思い。
振り返ることは許されない。そう思ったんだ。
 
 
そのリーチ代走は流局し、竹田さんの一人テンパイだった。
赤もドラもない、ペンカン3ソウのクソリーチだった。
南2局、親番はもう残っていない3,700点持ちの断トツラス目。
何がしたいのかはよくわからなかった。
 
次局、トイレから戻った竹田さんは何事もなかったかのように「アガれた?」と聞く。
裏ドラが乗らなければアガるより多いテンパイ料の収入があったことを伝え、僕は卓から離れる。
 
僕は窓際にまた戻り、ゆっくりと上に顔を向ける。
空は青く澄み渡り、こんなちっぽけな僕のやりきれない思いも竹田さんのダサいコケ方も全てを包み吸い込んでいくような幻想をイメージして、一つ息をついた。
 
 
そうだ、今日は生まれて初めて、帰りにすじこのおにぎりを買ってみよう。
 
そう、思ったんだ。

「祥君、東京は怖いところやけんね」

 

ドラマや漫画に出てくる田舎のおばあちゃんが言いそうなセリフを、祖母が孫である僕に向かって言ったのは記憶に新しい。

僕が東京に住み始めてからもう5年ほど経ったわけだが、約5年半ほど前の話。

東京に行く決意を固めたことを、実家の両親と祖母に伝えに行った時のことだった。

 

僕は物心ついた頃からおばあちゃんっ子だ。

僕が2~3歳の時に祖父が亡くなり、独り身になった祖母と僕の両親が一緒に住むことになった。

祖母は母方の祖母で、僕の母は長女であり祖母と同居するのが適任だったのだろうと大人になった今は理解できる。

僕は男3人兄弟の末っ子。

僕が3歳の頃、年子の兄二人は上から8歳と7歳。

孫の3人全員に愛情は注いでくれた祖母だったが、一番下で手のかかる僕の面倒を祖母が見ることで、祖父を失った寂しさを埋めていたのだろう。

僕に対してだけは、愛情表現が異常だったように思う。

そこにはいくつもエピソードがあるのだが、今回の話の本筋から脱線してしまうので割愛させて頂こう。

 

とにかく、祖母の僕に対する愛情はかなり強く、それは大人になって実家を出てからも会う度に特別なものを感じていた。

年に数回顔を合わす程度になった僕が、今度は東京に行くと言い出した。

これはなんとかして止めなければならないと思ったのか、それとも本当に東京が怖いところだと思っているのかはわからなかったが、祖母に言われたそのセリフだけは脳裏に焼き付いており、今でも時々ふと思い出すことがあるくらいだ。

 

 

上京してすぐに、僕はさかえ本八幡(もとやわた)店でお世話になることになった。

仕事の当てがあったわけでもない僕を、タイミングよく拾ってくれた麻雀店。

今でも僕を救ってくれたことを感謝している。

 

今日はその麻雀店で起こった出来事を書いていこうと思う。

 

 

川村さんという20代半ばの好青年がよくお店に来ていた。

「お飲み物は何がよろしいですか?」と聞くと彼は必ず「俺オレンジ」と答える。

次にはコーラとかコーヒーとかを頼むのだが、最初の一杯は必ずオレンジジュースで、そのオレンジジュースを頼むときだけは「俺」を最初につけるという小ボケを入れてくるのが定番だった。

そもそもそんな小ボケを最初に僕が拾ってしまい、「いや俺オレンジて!」と何の工夫もないツッコミを入れたせいで、川村さんは上機嫌になり毎回来るたびにそれを言うようになってしまったのである。

 

その日は川村さんが来店したタイミングでちょうどゲームが終了した卓があり、そこでゲームをしていた僕と入れ替わる形で、川村さんはすぐに卓につくことになった。

卓で麻雀を打ち始めていた川村さんに、僕は飲み物をうかがう。

 

「俺オレンジ」

 

「でしょうね」

 

間髪入れず受け答えしたこのやりとりがわりと面白かったようで、同じ卓に座っている他の常連さんたちも笑った。

この反応に川村さんも気分を良くした様子で、川村さんのにやけ顔を見るのも悪い気分ではなかった。

 

しばらくして次の飲み物を川村さんが頼んだ時に、少しおかしな感じになる。

 

「すいませーん、俺コーラ」

 

「あ、はーい」

 

ん?俺コーラ?

あぁ、さっきの俺オレンジをかぶせてきたのか。

だったら2回目まではそこまで飲みたくなくてもまた俺オレンジでかぶせてきてほしいところなのにな。

2回目で俺コーラはボケとしてはちょっと飛びすぎてて卓内の誰も反応できてないよ。

そんなことを思いながらコーラをコップに注ぎ、それを川村さんのサイドテーブルへと運んだ。

 

「お待たせしました、俺コーラです」

 

僕の優しいフォローもあったおかげで、卓内のお客様方も川村さんの小ボケに気づいた様子。

 

「いや、コーラにも俺ってつけるんかーい」

 

仕方がないなぁといった感じで、他のお客様も川村さんにツッコミを入れてあげていた。

正直、川村さんはここで終わっておくべきだった。

 

「俺コーヒー俺アイス俺アリアリで」

 

ウケてると勘違いしたのだろう。

完全に調子に乗って、その上でスベっていた。

自分自身の実力を見誤ったビギナーだ。

 

初めて来たスキー場でハの字で滑ることをおぼえ、インストラクターのサポートがあったおかげで初級コースをコケずに滑り終えた後、次はいきなりジャンプ台に行ったみたいな行為だ。

当然誰もサポートできず着地に失敗し、雪だるまとなって転げ落ちていくのを黙ってみているしかできないインストラクターの僕がそこに立ち尽くしていた。

ちなみにこの例えはボケがスベるのとスキーで滑るのもかかっている。

かかっているんだ。

 

川村さんのボケはスノーボールとなって転げ落ちていったが、麻雀は普通に続いている。

同卓者も助け船を出せずに黙っていた。

「リーチ」

川村さんがリーチをかける。

数巡後、川村さんツモアガリ。

 

「リーチ、ツモ、俺、タンヤオ」

 

え……!?

戦慄が走る。

あんなに見事に滑ったことに気づいていないのか、気づいていて挽回できると思っているのか、予想だにしていないところでの俺かぶせを入れてきた。

しかし本当に驚いたのはこの次の瞬間のことだった。

川村さんははっきりとした口調で、確かにこう言ったのだ。

 

「にせんよんせん」

 

えええええ!!?

 

こ、この人、俺って役入れてるうううう!!!

 

立ち番中に遠巻きに手牌を確認しても他に役もなければドラもない。

どう見ても1,000・2,000の手だった。

 

そしてさらには、同卓している常連のおじさま達は誰も何も言わず、普通に2,000点と4,000点を支払っている。

完全にカオス。混沌of混沌。最the低。江戸川意味が分か乱歩。後味の悪さがワルサーP38。

 

明らかにおかしなことが起こっているのに、立ち番中で当事者ではない僕はただただ黙って立ち尽くすことしかできずにいた。

己の不甲斐なさを呪いながら、僕はあの言葉を思い出していた。

 

「祥君、東京は怖いところやけんね」

 

祖母の言葉が重くのしかかる。

あの言葉は遠い地へ行く僕を寂しがっていたわけでもなんでもない。

ただの真実だったんだ。

だって僕は、目の当たりにしていた。

噂でしか聞いたことがなかった、これはあの悪事じゃないか。

僕は小さな声で呟いた。

 

 

「……これがオレオレ詐欺か……」

 

 

なぜかその日以来、川村さんは「俺オレンジ」と言わなくなった。

なぜかはわからない。

僕の中に残る気持ちが猜疑心なのか罪悪感なのか見当もつかない。

もやもやした気持ちを処理できないまま、僕はさかえ本八幡店を辞めることとなり、今は松戸店で働いている。

 

 

この出来事から数年経った今、改めて気が付いたことがある。

この気付きをあえて言葉にすることで、この話を終わりにしたいと思う。

この気付きから、東京は怖いと言った祖母の言葉の本当の意味もまた違う角度から見えてくるのかもしれない。

 

僕は気付いてしまった。

 

本八幡って、東京じゃなくて千葉だってことに……。