「あんたには夏美って付けるつもりやったのにねぇ」
これは何度も聞いた母から僕に対するセリフ。
1980年2月29日のほぼ正午。
福岡市中央区の某病院にて僕は産まれた。
僕は男3人兄弟の末っ子。
僕の母はずっと女の子を欲しがっていたそうだ。
当時の医学がそうだったのか、母が選んでそうしたのかはわからないが、産まれるまで子供の性別はわからなかったのだそう。
兄二人が産まれた時にも女の子じゃないことを少し残念がっていたらしい。
3人目だった僕の時は、兄二人の時とは妊娠期の様子が全く違ったのだそうだ。
普段はそこまで甘いものを欲さない母だが、僕がお腹にいる頃には毎日甘いものが食べたくて仕方がなかったのだとか。
「今度こそ女の子に違いない」
母はいつしかそう思い込むようになり、産まれてくる前に僕の名を夏美と決めていた。
産まれてくるの全然冬なんだけどな。夏美はおかしいだろ夏美は。
「元気な男の子ですよー!」
「ええええええええ???」
僕が産まれた瞬間の母の第一声がこうだったそうだ。
「あんなリアクションする母親は見たことがありませんでした」(某産婦人科助産師)
上記のような発言が助産師からあったかなかったかは知らないが、それくらいのリアクションだったらしい。
産まれたての僕、かわいそう。
まぁしかし、実際は僕の母親は3人の兄弟に分け隔てなくこれ以上はないくらいの愛情を注いで育ててくれた。
母には感謝しかない。
僕が2~3歳の頃、僕の母方の祖父が亡くなった。
僕のことを可愛がってくれたらしい祖父の記憶は僕には残っていない。
祖父が亡くなり、僕の家族と祖母は同居することになった。
どういう経緯があったかは知らないが、祖父が残してしまった借金がありそれを僕の両親が肩代わりすることになったのだという。
経済的に苦しくなった我が家は母も働くこととなり、僕ら三人兄弟の面倒はほとんど祖母が見ることとなった。
祖母と言ってもこの時はまだ50前後。
まだまだ若く、よく母親と間違えられたのを覚えている。
祖母は主人を失った悲しみと寂しさを全て3人兄弟の面倒を見ることで穴埋めした。
兄二人は小学生だったが、僕はまだまだ幼くて一番手がかかる。
そんな僕にこそ、本当に愛情をやりすぎなくらいぶつけていたように思う。
甘やかされまくって育った記憶しかない。
例えば、僕はある時期、晩御飯をまともに食べたことがなかった。
「もう食べたくない」と言ってご飯を残す。
そしてスナック菓子やジュースを口にしても、祖母は全く怒らなかった。
僕がそんな食生活で栄養失調になってしまい、病院に連れていったときに先生に「これは栄養失調ですね」と言われた時は本当に恥ずかしかったと、母は最近でも時々その話をするほどだ。
母は子供の面倒を祖母に任せなければならないほどに、本当に激務をこなしていた。
そして母は祖母にはかなり厳しく育てられたので、祖母に任せておけば大丈夫だと思うところもあったらしい。
しかし実際の祖母は僕に対してしつけというものをほとんどすることがなく、何かをやりなさいと言われたことは一度もなかった。
歯磨きをしろとすら言われないので、口の中は虫歯だらけ。
小学校の時間割を見て、次の日の教科書とノートをランドセルに詰めるのは僕の祖母。
朝起きたら靴下や洋服を祖母に着せられていた。
今思うと本当にかわいそうな子供である。
わがままが服を着て歩いているような子供で、小学校2年生くらいの時に授業中に席を立ってスタスタと歩き出し、仲のいい友達の席へ言って「今日ウチに遊びに来る?」と聞いてみたり。
家の近所の駄菓子屋に行くのが好きで、毎日祖母に「100円ちょうだい」とお菓子代をせびった。
好きなことをして生きていたい。
欲しいものは欲しい。
やりたいことは今すぐやりたい。
常にみんなの中心でいたい。
そんな僕の根底にある人間性は、この時に形成された気がしてならない。
僕の幼少期は本当に、子供でなければ救いようがないほどのダメ人間の生活そのものだったのである。
つづく