「オゲレツシリトリしようぜ」

それは2019年11月3日。
その日はC3〜D3リーグの対局がある日で、対局を終えた僕らは巣鴨の居酒屋で酒をかっくらっていた。
11時対局開始だったり16時対局開始だったり、リーグによって開始時間や会場は異なるわけだが、それでもなんとなく最終的には10〜15人くらい集まったりすることもある。
初めは今日の対局であった出来事や意見の交換など真面目な話が多いが、1〜2時間もするとどうでもいい話に移行していく。
麻雀プロたるもの対局の後は酒など飲まず家に帰り、その日の対局を振り返って反省するなり検証するなりするべきだという意見は、少なくとも僕は受け付けていないので、僕には投げかけないでくれると助かる。
そこはこの記事の本題ではない。

C2リーグに所属しているためその前日が対局だったはずの大和田篤史氏が、おもむろに冒頭のセリフを吐いた。

オゲレツシリトリとは、ハイスコアガールという漫画に出てくる遊びで、主人公の母親とヒロインとヒロインの姉の3人が繰り広げるオゲレツな単語だけで行うシリトリのことである。


もちろんモロにオゲレツな言葉で構わないのだが、一見普通の言葉でもエロを連想させるものであればオーケー。
なんならどんな言葉でも大体エロに繋げることができるので、ほぼなんでも良いしりとりだった。
しかしその言葉からエロに連想するというだけで、一つ一つの言葉のチョイスのセンスが問われ、センスあるワードが出るとみんなで爆笑するという素晴らしい遊びなのであった。

是非その内容をここで紹介していきたいところ。
しかしここは紳士淑女が集う清らかなブログなので、ひどいワードは載せられない。

僕らはこの遊びに実に4時間ほどの時間を費やしていた。
もうみんなのエロワードストックは枯渇し、エロスとは何か、オゲレツとは何かが誰もわからなくなっていた。

覚えているくだりは、
小車「つきじ!」
庄田「じんぼうちょう!」
新谷「うぐいすだに!」
の3連コンボくらいだ。

今思い出しても築地や神保町の何がエロいのか全くわからないが、それを全部引っくるめてOKにしてくれた鶯谷の存在は偉大である。

「し」で番が回ってきた新谷プロのエロワードストックが枯渇している時、諦めたような顔をして彼は呟いた。

「新谷」

この瞬間、僕はこいつと友達やってきてよかったなぁとさえ思えた。

途中からはもはや響きや言い方だけでオッケーみたいな流れになってきていた。

「カマンベールチーズ」「ハラペーニョ」あたりはもう本当に言い方だけで押し切っていたように思う。

僕は途中から言葉だけで伝えるよりも、iPhoneのメモ帳の手書き機能で書いて出すフリップ方式を採用していた。

いろんな回答をしたがスクショで残していたものが4つだけあったのでここに貼り付けておこうと思う。

時間も書いてあるので時系列で並べるが、時間が経過するほどどんどんカオスな回答になっていく様にも注目しながら見てほしい。









みのもんたはまだわかる。
母さんはだいぶまずいだろう。
ある意味エロとは対極にある存在のはずの母さんをあえてチョイスする状態はカオスと言わざるを得ない。
ちなみに途中から、最後に「ん」がついてもオッケーというルールになった。その場合はその前の言葉からつないでいく。
田町に関してはもう地名言っとけばなんとかなるみたいな投げやり感すらある。
酢めしはもう全然わからん。
こんな状態になったらもうオゲレツシリトリはやめた方がいい。


昭和21年11月3日、日本国憲法が公布された。
それに因んで11月3日は文化の日とされた。
文化の日とされたことから、11月3日はそれに因んだ記念日がたくさん作られている。
例を挙げるとハンカチーフの日やまんがの日やビデオの日等だ。
このオゲレツシリトリが僕らの中で初めて行われたこの日は、少なくとも文化あっての遊びであることから文化の日に恥じない内容となっていた。
今後は文化の日はオゲレツシリトリの日でもあるということで、皆さんは必ず11月3日にはオゲレツシリトリを行ってほしい。

それでは、また来年のオゲレツシリトリの日に。

「マルシェおじさんって知ってる?」

【ミニカーの走行距離 第8㌔】

最初に書いておくが、僕がここで書いている話はどれも実話だ。
そりゃあ多少脚色したりはするが、全くなかったことを書いたことなど一度もない。
いやネタでしょこれと思われることもあるかもしれないが、ネタじゃなく実話だということをあえてここに書かせてもらおう。


中学3年の冬、受験を控える僕らは遊ぶ機会も少し減ってきていた。
「ごめん、今日も塾に行かなきゃ」
そんな理由で友人に断られることが増えた。
僕は塾には通っておらず、兄と同じ博多工業高校を受験することを決めていて、特に深く人生のことを考えたりもしてなかったので、なんとかなるんじゃないかなぁなんてぼんやり考えていた。

マルシェおじさんの話を最初にしてきたのは恵美須だった。
寿屋というスーパーが当時福岡市南区老司にあったのだが、その付近で自転車に乗った買い物帰りのおじさんがすれ違いざまに「マルシェマルシェマルシェ〜」と口ずさんでいたのだと言う。
そのメロディは当時販売していたカレーマルシェという名前のカレーのCMで流れていたBGMで、僕らはその話を面白がってマルシェおじさんの都市伝説として語り継いでいた。

寿屋というのは1階は食料品売り場で、2階は衣料品売り場とゲームコーナーになっていて、2階のゲームコーナーにはストⅡの対戦台が置いてあり僕らはよくそこにたむろしていた。
放課後友人達に遊びを断られた僕はその日、1人で寿屋に向かった。

自転車置き場から買い物を終えて出てきたチャップリンのようなチョビヒゲを生やしたおじさんが、自転車に乗りこぎ出した時に歌い出した。

「マルシェマルシェマルシェ〜」

マ、マルシェおじさんや!!!
僕は驚きを隠しきれず、なぜかとっさに尾行し始めた。
なぜあの時の僕が突然そうしたのかは今でもわからない。
僕らの中で話題になっていた人が目の前に現れ、きっと何か面白いことが起こると期待していたのかもしれない。
ただ尾行と言っても相手は自転車でこちらは徒歩。
かなりゆっくりこいでくれたおかげで追いかけることはできたものの、僕はずっと小走りで追いかけることになる。
見知らぬ中学生が小走りでついてくればすぐに気づかれそうなものだが、マルシェおじさんは気づく様子はなくずっと同じフレーズを繰り返し口ずさんでいた。

神社がある小さな公園の細い通り道を抜けると曲がり角があり、そこを曲がったマルシェおじさんの姿が一度見えなくなる。
まずい。あの先は横断歩道でおじさんが渡ってこちらが信号に引っかかると見失ってしまう。
僕は全力で走って追いかける。
そして曲がり角を曲がると見失うどころか、マルシェおじさんが自転車を降りて立ちはだかっていた。

「おい!なんでついてくるんだ!」

完全にバレていた。
そりゃそうだ。中学生が突然走って追いかけてくるんだもの。
僕はしらばっくれることも逃げることもできず、立ち尽くすしかなかった。

「ちょっと来なさい」

マルシェおじさんの家はまさにその曲がり角を曲がったところにあるマンションで、自転車を停めた後マルシェおじさんの家に連れていかれた。
今思えばすごく大変な事件になるかもしれない事態だったが、その時の僕はそこまでの危機感はなく「おこられるのかーやだなぁ」くらいに思っていた。

「そこに座りなさい」

マルシェおじさんの家は殺風景で家具がとテーブルとテレビとタンスくらいしか置いてなかった。

「なんでつけてきたのか話しなさい」

恵美須がマルシェおじさんと出会ったこと。それを面白がってみんなに広めたこと。僕が今日偶然マルシェおじさんと遭遇し、思わずつけてしまったこと。
僕は観念して正直に話した。

「そんな歌は口ずさんでいない!」

マルシェおじさんは認めなかった。
自分がマルシェおじさんであることを。
そうでなければ僕は今ここにいないというのに、断じてマルシェおじさんであることを認めなかったのである。

「しかしまぁ話はわかった。これからは見知らぬ人を追いかけるような真似はやめなさい」

一通り話が終わり、じゃあ帰ろうかなと思ったところでマルシェおじさんがこう言った。

「おなかはすいてないかな?」

別におなかはそんなにすいていなかった。

「まぁご飯でも食べて行きなさい」

もう一度書くが、僕はここでは実話しか書いていない。
今の時代ではこんなことはないのかもしれないが、20年以上も前というのは今ほど情報社会でもなく警戒心も強くない。 そこまであり得ないような話でもなかったのだ。
僕は促されるままテーブルに座り、これでも読んでなさいと渡された先々週号くらいの少年ジャンプを読んでいた。
その間マルシェおじさんは台所で調理をしていた。
トントンと野菜を切る音やグツグツ何かを煮込むような音が聞こえていた。

「さぁ、できたぞ。一緒に食べよう」

テーブルに2人分のスプーンを置き、水を置いた。
僕は何が出てくるのか疑いもしていなかった。
当然だろう?
マルシェおじさんなのだから。

僕の目の前に、マルシェおじさんは、ハヤシライスを置いた。


ハヤシライスかーーーーーーい!!!


ネタじゃないんだ。
本当なんだ。
マルシェおじさんはまさかの裏切りでハヤシライスを作って出してきたのだった。
そしてそのハヤシライスがもうびっくりするくらい美味しくなくて、僕は半分くらいでギブアップした。
そりゃそうだ、マルシェおじさんだもの。
カレー以外は美味しく作れるわけないんだよな。

全部食べれなかった僕を怒ることもなく、マルシェおじさんは僕を優しく帰してくれた。

「今度はその恵美須君とやらも連れてきなさい」

わかりましたと答えたが、その日が実現することはなかった。

次の日、学校でこの日の出来事を恵美須を含むクラスメイトに話したが、あまりにもできすぎている話で誰も信じてくれなかった。
本当に全然信じてくれないので、僕もその話をすることをやめた。
それから今までマルシェおじさんのことを思い出すことすらほとんどなく生きてきたのだった。

人間の記憶力というのは本当に不思議なものだ。
僕が働くさかえ松戸店では毎週土曜日に手作りカレーを出しているのだが、従業員もそれを温めて食べたりする。
鍋に火をかけ焦がさないためにクルクルとお玉でルーを回していた僕はおもむろにこう口にした。

「マルシェマルシェマルシェ…」

これをきっかけに当時の記憶が鮮明に蘇り、この記事を書くに至ったのである。
今まさに、僕自身がマルシェおじさんになっていたのだった。

だから僕は最後にこの一言でこの記事を締めようと思う。

「そんな歌は口ずさんでいない!」と……。
「江川、やめとけ」

【ミニカーの走行距離 第7㌔】

中学3年生の頃、放課後によく集まって遊んだ4人組があった。
浦田勇作、江川貴美(たかよし)、恵美須真亮、小車祥。
大体恵美須の家に集まり、古今東西卓球をコタツに仕切りを作ってやったり、ゲームしたり漫画読んだりダラダラしたりしていた。


なんとなく似顔絵を描いておいた。

僕には村田さんという彼女がいたし、恵美須は井口さんと、浦ちゃんは木村先輩と付き合っていた。
江川にだけは彼女がいなかったのである。

江川はあまり女子にモテるタイプではなかった。
まず顔が軽くゴリラ感を宿していたし、誰とでも気さくに話すタイプでもなければ、話したところでダジャレしか言わないような純情なつまんないやつだった。
「ガイルがいる」「レモンの入れもん」は未だに忘れられない江川の代表作だ。

そんな江川にも好きな人がいた。
山崎さんという小さくて確かに可愛らしい女の子だったと記憶している。

とある日、恵美須の家にいつものように集まると、僕より先に集まっていた3人が何やら恋バナで盛り上がっていた。

江川が山崎さんに告白するとのこと。
4人組の中で唯一彼女がいないことが辛かったのかどうかはわからないが、意を決したようだった。
そんな江川に対して僕が言ったセリフが冒頭のセリフである。

僕が来るまでは、浦ちゃんと恵美須は応援ムードだったらしい。
恵美須の部屋では恵美須が好きだったZARDの負けないでが流れていた。
僕は決して江川の味方じゃなかったわけではない。
江川は山崎さんとほとんどまともに話したことがなく、なんの交流もない人から突然告白されて付き合えるほどのスペックを江川は持ち合わせていなかった。
どうせ玉砕するにしても、もう少しある程度の段階を踏んでいかなければ犬死にするだけだとしか思えなかったのだ。
そんなことは浦ちゃんも恵美須もわかっていたはずなのに、二人はむしろこれから起こる面白そうなことにワクワクしていただけだったのである。
江川が仮に、負けないでもう少し最後まで走り抜けたとしても、山崎さんは離れる一方で心はそばにいないのである。
BGMからすでに江川を煽り始めていた。

とにかく僕は、すぐに告白してもうまくいきっこないこと、少しずつ話しかけたりして仲良くなっていく作戦でいこうぜということを伝え、江川もとりあえずは納得してくれた様子だった。
わかってくれてよかった。


次の日、恵美須家に召集がかからなかったので学校から家に帰ってスト2をしていたら、家に電話がかかってきた。

「はいもしもし小車ですけど」

電話に出ると浦ちゃんだった。

「おぐ!すぐに恵美須んちにきて!」

詳細は教えてくれず、来てから話すと。
恵美須んちに急いで行く。
チャリはパクられていたので小走りで行った。
恵美須の部屋に入るとMY LITTLE LOVERのman&womanが流れていた。
そして中学生のくせに500mlのスーパードライを自販機で買い、それを飲んで真っ赤になっている江川が泣き崩れていた。(良い子は真似しないように)
なんと、僕の反対を押し切り強行突破しようとして山崎さんの家まで行って告白し、見事に玉砕していたのである。
僕を呼べばまた反対されるので、あえて僕は呼ばずに浦ちゃんと恵美須を引き連れて山崎さんの家に向かったのだそうだ。

江川の悲しみのため息、独り身の切なさ、抱きしめたい抱きしめたいからメンアーン!ウーマン!状態だ。
江川が山崎さんにあーいしてる愛してるって言っても好きだからー好きだからって言っても、きっとー言葉ーだけじゃーダメだよメンアーン!ウーマン!なのだまさに。
BGMが今日も江川を煽り続けていた。

結局江川はこれに懲りずに、卒業までにさらに2回も告白チャンスを倍プッシュした。


もちろん江川はその都度撃沈し、毎回スーパードライを買うこととなる。
未成年の飲酒、ダメ、絶対。

途中からは僕もどうせ成就しない無謀な告白を応援して楽しむ側についた。
だって言うこと聞かないんだもの。

そんな江川は今どこで何をしているのだろうか。
大人になってからいつからか誰も江川とは連絡が取れなくなってしまった。

きっと新しい山崎さんを捕まえて、幸せに暮らしていると信じたい。
いつかはHeyHeyHeyしてることを祈っている。
「今日スト2しに行っていい?」


【ミニカーの走行距離 第6㌔】

ふっきゃとは中学3年で同じクラスになった。
名前は福山。あだ名がふっきゃ。
僕らの中学校では男子3人女子2〜3人で1つの班になるという班分けがあって、確か学期ごとに班は変わってたはずなのだが、ふっきゃと恵美須と僕と釜堀さんと小濱さんの5人の班だった時の記憶しか今の僕には残っていない。

子供がよく遊ぶゲームというものは時代によって移り変わっていくものだが、当時の僕らの主流となっていたのはとにもかくにもスーパーファミコンだった。


ここからはまだまだ据え置き型家庭用ゲーム機の時代が続き、スーパーファミコンの後はプレイステーションやセガサターンの時代になっていく。
スーパーファミコンの時代にもPCエンジンCD-ROM2なんてものもあったが、やはり圧倒的シェアを誇っていたのはスーパーファミコンであった。

スーファミが家にあるかないかで、友達が家に遊びに来る率が大幅に変わる。
そしてもちろん何のソフトがあるのかが重要で、流行っているソフトは大体なんでもあるなんて家は稀だった。
というか少なくとも僕の友達にはそんなボンボンはいなかった。

兄2人が高校生でバイトをしていたことにより、我が家には比較的多くのソフトが置いてあった。
ドラクエやFFシリーズは当然揃っていたし、むちゃくちゃ流行ったストリートファイター2もあった。
スト2はスーファミでの2作目にスト2ターボが出て、3作目のスーパースト2が出る少し前くらいの時期だったと思う。

僕は毎日高校の受験勉強もせずにスト2に明け暮れていた。
主にケン、ガイル、ブランカ、春麗を使っていた。
リュウは絶対に使わなかった。
当時さほど性能差はないのにケンを使っていたあたりからも、僕が当時から硬派なキャラよりも金髪ロン毛のチャラチャラしたキャラを好む傾向があったことが窺える。
そして僕のガイルはめちゃ強かった。
ソニック投げや待ちガイルと言われる卑怯な戦法も遠慮なく使っていた。
ブランカもローリングアタックが対空技として使えていた初期はかなりの強さを誇っていた。
自宅のスーファミ版で練習して、アーケード版の対戦台で腕試しするというのが当時のファイター達のスタイルだったように思う。
ちなみに春麗は弱かった。
スピニングバードキックを出してスタートボタンを押してストップしてきわどい春麗の股間を見るというのは、当時の思春期の男子ならば誰もが通る道だっただろう。

そして我が家にはまだマリオカートがなかった。
まだというのは、後から兄が買ってくることになるのだが、今から書くこの日にはまだ家にマリオカートがなかったということだ。
僕は友人の家でやらせてもらったマリオカートが面白すぎて、マリオカートやりたい病にかかっていた。

ふっきゃはマリオカートを持っていた。
ふっきゃはスト2は持っていなかった。

その日の放課後、ふっきゃは僕の家に来たがり、僕はふっきゃの家に行きたがった。
お互いに普段できないゲームがやりたい気持ちを譲れないでいた。
そんな僕らがとった解決策は、ふっきゃが一度家に帰ってマリオカートを持って僕の家に来るというものだった。

僕らは別々に家に帰り、僕はマリオカートを……ふっきゃを自宅で待つことになった。

ピーン………………ポーン。

当時僕が住んでいたマンションはオートロックで、入口の自動ドアは4桁の暗証番号を入力すると開く。
その暗証番号を既に知っていたマリオカー……ふっきゃは、玄関の前のインターホンを押す。
インターホンを押すとピーン、離すとポーンとなる我が家のインターホンを、この押し方するのは間違いなくマリオカート福山だった。
ピーンとポーンの間の3秒間のその刹那、彼は何を思っていたのだろうか。
今となっては知る由もない。
僕はロケットスタートで玄関へ駆けていく。

「うぇーい、あがってよー」と言う僕にふっきゃは第一声でこう言った。

「ごめん、マリオカート持ってきてない」

……何しにきたんだこいつは。
明らかにテンションダウンする僕を見て、ふっきゃは代わりにポテトチップスを持ってきたとか言い出す始末。
ポテチ食いながらスーファミのコントローラー持てんだろ。
おめーはポテチ食った手でひとんちのコントローラー持ってスト2するつもりだったのか。

「いや、持ってこようと思ったら弟がタイムアタックやりよったんよ」

理由もよくわからない。

「そこは兄ちゃんなんやけん、持ってくぜーとかで持ってこれんやったん?」

「いや、あいつのタイムアタック邪魔したらやべーよ」

どんな兄弟関係だよ。

仕方なく、僕はふっきゃとスト2を始める。
スト2に限らない事だが、対戦ゲームというのはある程度実力が近くないとどちらも面白くない。

僕はマリオカートができない怒りを、待ちガイルでソニックブームで牽制しつつ、ジャンプしてきた相手をサマーソルトキックで倒してからの起き上がりにソニックブームを置き、ガード硬直の間にバックドロップで投げるという初心者にはどうすることもできない戦法でふっきゃをコテンパンにすることで解消した。

1時間もするとふっきゃは「もうスト2やりたくない」と言い出した。
他のゲームをやろうにもRPG多めだった小車家では遊べそうなソフトもなく、ふっきゃの家に移動しようということになった。

「マ……マリオカートができる!」

当時よく自転車をパクられていた僕は自転車がなく、ふっきゃの自転車の後輪のところにハブステップと呼ばれた足場となる棒を取り付けて2人乗りでふっきゃの家に向かうことになった。
良い子のみんなは絶対に真似してはいけない。
私服に着替えていたふっきゃはリュックを背負っていて、後ろの僕はそれが邪魔で立ちにくかった。

僕のマンションからふっきゃの家に向かう時、最初に長い下り坂がある。
最初はそこまで急じゃないのだが、途中から角度がFUJIYAMAみたいになる。富士急行ったことないけど。

二人乗りでその坂を下り出したと思ったら、ふっきゃは突然ノーブレーキで坂を下り始めた。

「ふっきゃ!危ない危ない!死ぬ死ぬー!」

怖がる僕にふっきゃはクールに答える。

「死にやせんって」

そんなに僕のガイルが憎かったのか!
こういうのって運転してる方は意外と怖くなくて、後ろに乗ってる方が断然怖い。

自転車はFUJIYAMAゾーンに差し掛かり、トップスピードへと変わっていく。

FUJIYAMAゾーンを抜けると左側が車一台通るのがやっとくらいの細い道と、右側が開けた駐車場になっている分かれ道というか、その二つを隔てるブロック塀が現れる。
右はただの開けた駐車場なので行き先は左。
当然ふっきゃは左に重心をかける。
僕はあまりのスピードに怖がりすぎて、ここは右の開けた方に一旦逃げた方がいいと判断して右に重心をかけた。
そんな二人の思いが綺麗に相殺し、自転車はたった幅20cm程度のブロック塀の仕切りに猛スピードで真っ直ぐ進み衝突した。

ガシャーン!!

その辺に転げる二人と自転車。

「あはは……いってー。ふっきゃ大丈夫?」

僕はちょっと下腹部を打ったくらいでほぼ無傷。
ふっきゃの背負っていたリュックと、その中に入っていたポテトチップスがちょうどエアバッグのような感じになり、僕は余裕で笑っていられる程度だった。
後から聞いた話によるとリュックの中のポテチは破裂していたらしい。

「……大丈夫じゃない」

ふっきゃは顔面蒼白だった。

「え?」

「腕が痛い」

ふっきゃはそのたった20cm程度のブロック塀にあのナムさんの大技、天空×(ペケ)字拳をかましていたのだ。



動けないでいるふっきゃと立ちすくむ僕らの横を自動車が通りかかる。

運転手のお兄さんが降りてきて「大丈夫?」と声をかけられた。

結局ふっきゃはその人に家まで送ってもらうことになり、僕はふっきゃの自転車を押してふっきゃの家まで行った。
前輪が曲がっていて乗れる状態ではなかった。

自転車を送り届けると、ちょうどふっきゃが母親と車に乗って病院に行くと言っていた。
部屋の中からは微かにマリオカートの音楽が聴こえてきて、兄の一大事に弟はまだマリオカートをやっていることだけはわかった。
どんな兄弟関係だよ。


「死にやせんって」


ふっきゃの言葉が蘇る。
いつになくクールに決めたそのセリフは、まるで死亡フラグのように鮮やかだった。

次の日、学校に行くとふっきゃは元気よく登校してきたが、なんと両腕を骨折しており両腕にギブスをつけてきた。
確かに死にはしなかった。

周囲からは面白がってどうしたの?と聞かれまくっていたが、ふっきゃは「おぐしょう(僕のあだ名)の家にスト2しに行ったらこうなった」としか言わなかったため、ふっきゃはきっとベガのサイコクラッシャーのしすぎで骨折したんだろうと噂になった。
いや、似てるけど違う。

天空×字拳なんだ。

今回は真面目な記事になるので、普段ふざけてばかりいるこのブログの記事とはテイストが異なります。
いつもの根がニートを求めてきた方はそのまま閉じてください。

昨日意味深なツイートをしてしまったせいで、たくさんの人に心配をかけてしまう事態となりました。
すみません。
簡単に説明しておくことにしました。

僕が今回辞退させて頂いたお仕事というのは、とある対局番組の実況のお仕事のことでした。

僕はかつて連盟チャンネルの対局番組にて実況のお仕事をたくさんやらせて頂いておりました。
実況というお仕事はとても難しく、誰にでもできるものではないと思っています。
それをやらせて頂いていたことは大変名誉なことであり、それが誇らしくもあります。

実況をやりたいという人も増えたり、僕自身の力不足で僕が実況をさせてもらう機会が減ってしまった後も、十段戦や九州リーグの決勝などの実況のオファーがあった時は喜んでやらせて頂いておりました。

実況のお仕事というのは、とても大変なお仕事です。
まず放送までにしておくべき準備が無限にあります。
例えばタイトル戦のベスト16A〜D卓、ベスト8A〜B卓の実況をしたとします。
その16名の選手がそのステージに勝ち上がってくるまでどのような経緯があったのか、過去に獲得したタイトルはあるのか、何度目のベスト16入りなのか、プロ歴は何年くらいで何才くらいで普段はどんな活動をしているのか、実際に選手に事前に意気込みなどを聞いてみるのもいいでしょうし、その選手のツイッターやブログをチェックするのもいいです。
集められるだけのデータを集めておくことで、対局の途中で話す内容の引き出しが増えます。
これを6回の放送ごとにきちんと下調べをしておく必要があります。
やりすぎるということはありません。

そして解説の方との会話のキャッチボールも大切です。
解説の方は毎回変わります。
どなたが解説になるかによって毎回正解も変わります。
できるだけ多くの解説の方に気持ちよく喋って頂きたいですし、気分を損ねたくはありません。
となると、その人の別の対局番組の時のトークパターンを確認しておくことも大事です。
その人の良かった話とかを覚えておいて「以前別の対局の時にこのようなお話をされていましたけど…」と振ってみるのもいいです。

放送中、麻雀の内容について解説者は当然解説をします。
解説の方も頭の中で自分が話したいことを順序立てて話そうとします。
実況者はその意図をできるだけ的確に汲み取り、解説者の欲しい合いの手を入れるべき瞬間がたくさんあります。
「それはつまりどういうことですか?」
これだけでもいいかもしれません。
「それはつまり、役牌から切り出すよりは打点を意識して例えリャンメンターツであってもそちらから切り出していくべき局面ということですね?」
これはほとんどの場面で失敗です。
解説者の言いたいことを理解しすぎても、それをわかりやすく解説してしまうことは実況には求められていません。
それは解説者のお仕事なのです。
明らかにわかっていることを、わからないふりをして初歩的な質問をあえてすることもあります。
あとで見直した放送で「そんなこともわからないのかよ小車」とコメントが流れることもあります。

放送なので、無言の時間は作ってはいけません。
何かは必ず喋っておかなければならない。
だけど話す内容が思いつかないこともあります。
それは解説者も同様であることもあります。
どんどん焦って冷や汗が出ます。
「◯◯(選手の名前)、發をツモ切り」
そういう時に、このような全然重要じゃないどうでもいいことを言ったりします。
こういう事態に陥ること自体が準備不足です。
こうならないために選手のデータを集めたり、何を話すか準備をしておくのですから。

それを踏まえた上で、実況のお仕事の本分は実況です。
東2局2本場供託は2本、親は誰、ドラは何、各選手の配牌はどうなのか、どういうビジョンが見えるのか(これは解説者に聞いたり)、今何シャンテンなのか、テンパイしたのか、リーチを打つのか、何待ちなのか、牌山に何枚残っているのか、リーチを受けて他の選手はどうするのか、どうしたのか、アガリが出たら何点のアガリなのか……などなどなどなど。
たくさん並んだ解説ブースのモニターで各選手の手牌や河を確認しながら、できるだけ間違えないように、かつ見落とさないように的確に伝えていく。

盛り上げるスキルもあった方がいいでしょうし、ちょっとした冗談を言う瞬間もあった方がいいでしょう。
だけどやはり実況は実況ですから、ふざけすぎてはいけません。

どうやって実況しても、視聴者の方の中には必ず気に入らない人も出てきます。
一つ一つの意見を受け止めることも大切ですが、受け流すことも同じように大切です。
これは性格的な部分もあると思いますが、ほとんどの人はそれを全て受け止めきれるほどタフにはできていないと思います。


僕は実況としては本当にまだまだ未熟だったのですが、そのようなことを考えながら取り組んでおりました。
今書いたことは僕なりの理想論であり、いつもきちんと準備ができていたわけでは当然ないし、解説の方を怒らせてしまったこともあります。


とある対局番組で一緒にやらせて頂いた先輩プロに言われた言葉があります。

「実況やっていなかった期間、何をしてたの?
ちゃんと練習してた?
そんなに俺の解説わかりづらかった?
麻雀プロは実況のプロではないのはわかるよ。
だけどこれは仕事でしょ?
その程度でしかできないんだったら、仕事を受けちゃダメでしょ、お金もらってるんだから」

僕は何も言い返せませんでした。
言い返せるだけの準備をしていなかった自分が悔しく、どこか自信過剰になっていてあぐらをかいていた自分を呪いました。
そして現実に打ちひしがれました。
僕はそれでも僕なりに一生懸命やってきたつもりだったのに、こんなにも何もできていなかったのかと。

引き合いに出しますが、日吉さん。
あの人はすごいです。
血の滲むような努力をしているはずです。
命をかけて取り組んでいないとあんなにできるようにはなりません。
僕は日吉さんのように命をかけて取り組むことはできないのだと、自分自身に烙印を押してしまいました。


僕は麻雀プロをやめる気はありません。
死ぬまで選手であり続けたいと思っています。
だけど実況のプロにはなれませんでした。
ただそれだけのことです。
他にやりたい人がいるのであれば、僕のような半端者はその席を譲るべきです。


これから実況をやる人達へ。
僕が数年間にわたって経験して思ったことを書いてみました。
僕の文章が何かの参考になればいいなと思います。
何の参考にもならない人も大勢いると思います。

駄文長文失礼しました。
心配してくれた人への説明と、自分自身の決意表明のために。

2019.9.16
「小車は毎日牛乳を飲め」

中学入学後すぐ、バレー部に入った僕。
2年生になり後輩ができたばかりの俵先輩が、先輩風という目に見えぬ風を全身に纏いながら僕にそう言った。
バレーボールは当然身長が高い方が有利なスポーツだ。
1年生の頃の僕はクラスで背の順で並んでも前から数えた方が早いくらいの位置にいて、とにかく牛乳を飲めば背が伸びると何の根拠もなく信じられていた時代に、それを背が低い僕に命令口調で言うことで俵先輩は先輩というものの尊厳を確認して悦に浸っていたのだった。
俵先輩は運動部とは思えないくらいぽっちゃりしていて、バレーボールには身長が必要なのだから牛乳を飲むのは当然だと豪語する前に痩せて機敏に動けるようにする方が先でないのかという当時の僕の不満を、僕は口にはせず噛み締めながら毎朝牛乳と一緒に飲み込んでいた。

馬鹿正直に僕は祖母に牛乳を常備するように頼む。
給食で出てくる牛乳はどちらにせよ毎日きちんと飲んでいたが、それに加えて毎朝牛乳を飲むようになった。

もしもタイムマシーンがあってあの日の僕に何か助言を言えるのならば、「牛乳たくさん飲んでも身長が伸びるなんて根拠はないから今すぐやめろ。そしてユーチューバーにはいち早くなれ。誰よりも早くマインクラフトのゲーム実況をしろ。そして今のうちに中高生とたくさんイチャイチャしておけ、それはいずれ犯罪になる」と言いたい。

牛乳の過剰摂取により、僕は頻繁にお腹を壊すようになった。
お腹を壊せば当然トイレに行くわけだが、これはとても大きなリスクとなった。

僕が小中学生の頃の、僕が通っていた学校では、校内で大便をすることはとても恥ずかしいこととされていた。
僕は今の小中学生の大便事情を知らない。
だからこれは当時のことであって、今は快適な大便環境が整っていることを切に願う。
だってみんなそうだろう?
大人になって便秘すると恥も外聞もなく、いつだっていいからそれが訪れることを待っているのだから。

30年近く前の日本の子供達の間違った文化。
誰かが大便コーナーに入っていたという目撃情報が入ると、誰かが彼を「うんこマン」と呼ぶ。
うんこマンの噂はあっという間に広がる。
その日からクラスメイトからの呼び名は「うんこマン」。
次の日には他のクラスの同級生からも「うんこマン」。
その次の日には事態を把握した担任の先生が、その事象の深刻化を恐れることによって起こる冗談めいた「うんこマン」。
もうその頃には「僕はうんこマンなんだ」という自覚が芽生え始める。
「地球の平和はこのうんこマンが守ってみせる!」
そんなうんこマンライフにセイハローするわけにはいかない。

だから僕はお腹が痛くなった時には極限まで腹痛に耐え、休み時間に隠密に人が来にくい体育館のトイレまで迅速に駆け込み、かつ丁寧に処理してミッションコンプリートしていた。
もしも前世があるならば、僕は忍者だろう。
そうでなければあのような生き方はできなかったはずだ。


とある日曜日、バレー部の練習試合があった。
1年生でまだほとんど筋トレと球拾いしかさせてもらえていなかった僕は試合に出ることはないが、それでも参加してチームの応援をしなければならない。
その日は一旦僕が通う老司中学校に集合し、生徒は全員で自転車で30分ほどかけて梅林中学校まで行くこととなった。

朝飲む牛乳のせいでよくお腹を壊していることに気がつき始めていた僕は、この頃にはもうあまり飲まなくなっていた。
だがこの日は初めての練習試合。
試合に出られるわけでもないのに、僕よりもなぜかおばあちゃんが張り切っていた。

「祥君、ほら牛乳ば飲んでいきんしゃい」

出された牛乳を一気に飲み干し、僕は家を出る。
この牛乳のせいだったのかどうかは実際のところわからないが、僕はもう老司中学校を出発する頃には便意をもよおしていた。

バレー部のメンバーの前でなら、トイレに行かせてもらう手はあるか?
いや、信用ならない。
俵先輩あたりはもう喜んであの名で僕のことを呼び始めそうだ。

自転車に乗っていた30分間、僕はずっと腹痛と便意に苦しめられ続けていた。
正直いつ漏らしてもおかしくない状況だった。
そんな今にも挫けてしまいそうなうんこマンを支え続けた存在がいる。
そう、サドルレディだ。
うんこマンの出撃をギリギリで押さえ、前線で戦い守り抜いていたのは間違いなくサドルレディその人であった。

梅林中学校に着き自転車を停めて立ち去る時、確かにサドルレディはこう言った。

「私が手伝えるのはここまでよ。まだあと少しなら大丈夫なはず。あなたは早くトイレに行きなさい!」

自転車を停め部員全員が校舎に近づいた時、僕らの顧問の桑野先生と名前は失念したが梅林中学校バレー部の顧問の先生が僕らを出迎えた。

「お、きたきた!お前らこっちだぞー!」

桑野先生は陽気だ。

「いやー、遠いところよく来てくれましたねぇ」

失念先生も歓迎ムード。

「今日はお互いのチームにとって素晴らしい日です。日頃の成果をぶつけ合い、良い試合を作りましょう。普段は僕のチームのメンバーには相手チームを褒める心を教えていますので、きっと今日は熱い戦いの中に見出せるものが、試合の結果以外にも…….」

「すいませんトイレはどちらですかあああ!!」

失念先生話なげええ!!
もう四の五の言っていられない。
ここで漏らしてしまってはサドルレディに顔向けできない。

唖然とする老司中バレー部一同と桑野先生と失念先生。

「えっとトイレの場所は……失念しました」

とは言わず、ちゃんと教えてくれた。
指差された方へ僕は音速で走り出す。
いや、正確には最高速の早歩き。
漏れそうな時って人間は走れないようにできてると思う。

意外と近くにあった男子トイレ。
日曜日なので梅林中学校の中に生徒はほとんどいない。
トイレに入った瞬間、突然込み上げる安堵感と便意。
ずっと、僕はずっと我慢していたんだよ。
この瞬間をどれだけ待ち侘びたことかと、ズボンのベルトを震える手で外しながら、それまで一人で耐え続けた辛い思いとうんこを思い切りぶちまけた。

ここ大事なところなのでちゃんと確認してほしい。
僕はズボンのベルトを外しながら、ぶちまけたのだ。


更衣室や荷物置き場に使ってくれと言われた教室では、なかなか戻らない僕をチームメイトは待ってくれていた。
ユニフォームはまだ持っていなかったので、体操服を制服の下に履いていってたことが裏目に出た。
制服でトイレに行きビショビショの短パンで帰ってきた僕を見ても、チームメイトは何も言わなかった。

いくら水で洗っても短パンについた臭いまでは取れなかった。
試合中は全員立って応援していたのだが、試合中に突然桑野先生が「小車、座ってていいぞ」と言ってくれた。

馬鹿にしてくるかもしれないと思っていた俵先輩すらも「小車、次のゲームさっきの教室で休んでこいよ」と言ってくれた。

それは単に臭かったからかもしれないが、それでも僕は嬉しかった。
全力でフォローしてくれる先生とチームメイト。
こんなこともいつか笑って話せる日が来るよう、これからも頑張っていこうと思えた。
こんなに信頼できるチームメイトなら、素直にコンビニに寄らせてもらえばよかったじゃないか。

その日はそのまま自転車で家に帰る。

「サドルレディ、ごめんな」

サドルレディはそんな僕のことを一つも責めなかった。
その証拠に、帰りの道のりでもしっかり柔らかく僕のお尻を支えてくれたんだ。


次の日の朝、僕は朝練に向かった。
これからはもっとチームメイトを、先輩達を信頼して裸の心で向き合っていこう。
そう胸に誓って。

朝練に参加した僕の顔を見て俵先輩は優しく微笑みながらこう言った。


「おはよう、うんこマン」


僕はその数日後、退部届を出した。
桑野先生は一言も引き止めなかった。
「1学期はかっこいいと思ってたのにな」

ヘタレ男子の小車少年もついに中学校に入学。
ダブルラブレター事件はあったものの、やっぱりドッジボールが弱かった僕は小学校ではモテたりなどはしなかった。
熱血高校ドッジボール部なら強かったんだけどなぁ。

冒頭のセリフはクラスメイトの河野(こうの)さんのセリフ。

中学校にもなってくると、異性のことを好きになる基準に変化が生じ始める。
ドッジボールなど誰もやらなくなり、野球部やサッカー部やバスケ部で活躍してるような人か、イケメンヤンキーがやたらモテだすものだ。
そしてそうでなくとも、面白かったりかっこよかったりするだけでも需要が生まれだす。
ヘタレはモテないことには変わりないのだが、僕が通っていた鶴田小学校と隣の老司小学校の生徒が共に通うことになる老司中学校において、これまでの僕のヘタレ感を知らない老司小の女子に対して小車をアピールするまたとないチャンスであった。

しかしこの大事な時期に僕は大チョンボをやらかす。
中学校に入っても兄が好きなものを好きになったり、兄がやっていたことをやる傾向が強かった僕は、迷わずバレーボール部に入った。
兄が二人共バレー部だったこと以外に理由はなかった。

そのバレー部は入部すると必ず坊主にしなければならないというルールがあり、坊主になった瞬間から女子にとって眼中にない存在となったようだった。

2学期くらいにちょっといいなと思ってた河野さんと「好きな人とかいるの?」みたいな話を休み時間にコソコソ話しながら探りを入れていた時、そんな厳しいカウンターパンチを食らったわけだ小車少年は。
まぁもう2学期くらいにはバレー部辞めてたし、髪も少し伸ばし始めてたんだけど、最初の印象って大事だよね、うん。
ヘタレ坊主小車の印象はそう簡単に払拭できるものではなかった。

かっこいいスポーツで活躍できるほど一つのことをやり込めない性格だった上にヤンキーというほど尖ってもいなかった僕は、もう彼女なんてものもできることないまま中学卒業していくんだろうなーなんて思っていたが、中学2年生で奇跡が起きた。

次の日の時間割が後ろの黒板に書いてあり、それを確認して書き写そうとしている村田さんが僕の左前の席に座っていた。
村田さんと時間割の間に僕が座っており、身長がそこまで高くない村田さんは一生懸命僕を避けながら後ろの黒板を見ていた。
僕はイタズラ心にわざと彼女が避ける方向に体を寄せ、後ろの黒板が見えないように邪魔をした。

「この人、なんで私の邪魔してくるんだろうと思った」【老司中学2年2組:村田洋子さん(13)】

それまで話したことも特になかった村田さんとこれをきっかけに親密になり、どっちから告白したとかはもう覚えてないけれど、僕と村田さんは付き合うことになった。

村田さんとは高校1年の最初らへんまで付き合うことになるんだけど、まだまだ子供だった僕らは些細なことで喧嘩したりくっついたり離れたりしながら、お互いに少しずつ大人になっていく助け合いをしていたんじゃないだろうか。

村田さんとの思い出もたくさんあるのだが、その中でも強く覚えているREX事件を書き記しておこう。


僕は同級生の安藤君と福山君との3人で映画を観に行った。
福岡市内在住とはいえ、本当にギリギリ福岡市内というだけで近くに映画館などありやしなかった僕らにとって、博多区中洲にある映画館まで映画を観にいくというのは一大イベントだった。
安藤君がどういう経緯かわからないが映画のチケットが手に入ったので観に行かないかと。
作品はその時上映していた安達祐実主演『REX 恐竜物語』だった。
実はこの作品、原作は我らが畑正憲さん。
10年近く松竹の歴代興行収入1位だったそうだ。
安達祐実さんの映画デビュー作でもあるので、初々しい安達祐実さんを観たい方は是非観てみるといいです。

僕は彼女に何かお土産を買っていこうと思い、その映画館で売っていたREXのTシャツを買った。
喜んでくれるといいなと無邪気に渡した村田さんの反応は少し微妙だったけど「ありがとう」と受け取ってくれた。

それからしばらくして冬が近づいてくると、村田さんはクリスマスプレゼントに向けて突然学校で手編みのマフラーを編み出した。
僕と村田さんは付き合ってることを別に隠してもなかったので、周りからは冷やかされ「あついねー!ヒューヒュー!」みたいなことを言われた。
僕はそんな冷やかしに対して「別に欲しくねーし」みたいな冷たい返しをしていた。
そこは中学生だから仕方ない。
恥ずかしくて強がるくらいしか引き出しがなかったのだ。

そして言わなきゃいいのに誰かが村田さんに言った。

「おい村田、小車別にマフラーとかいらんって言ってたぜ!」

これを聞いた村田さんは大激怒。
休み時間に編みかけのマフラーを引っ張って泣きながら糸くずに戻した。
それからしばらく僕とは口も聞いてくれなくなった。
数日後、やっと話してくれる気になった村田さんはそれでもやっぱり怒っていた。

「いや、ほんとは嬉しかったんだけど、恥ずかしくて言っちゃったんだよ」

そんなこと言っても全然許してくれなかった。
だからっていらないとか言わなくてもよくない?と。
たしかに乙女心を傷付ける言動だったと僕も反省した。

何を言っても許してくれる気配を出さない村田さんに僕は最終兵器を投入した。

「でもさ、俺だってREXのTシャツ着てほしかったけど、着てくれんやったやん」

村田さんはあのTシャツを、ただの一度も着てくれなかった。
もらった時の反応は微妙だったけど、一度くらいは着てくれるんじゃないかと信じていた。
そのことに触れもしないまま季節は過ぎ、肌を刺す空気と同じように僕の言葉は彼女の心を刺した。

この言葉が決定打となり、村田さんは僕を許すばかりか、逆に僕にごめんねと謝ってきた。

この時に初めてあのTシャツ買っといて良かったと心から思った。
ありがとうレックス。
ありがとう安達祐実。
ありがとう畑先生。

仲直りした僕らはRの次をした。


ちなみに、あの時買ったTシャツの画像が見つからないかと検索してみたが、どうにも見つけられなかった。
僕の記憶を頼りに再現してみたので見ておいてほしい。
僕が彼女にあげたREXのTシャツはこれだ。


いや、これは着ないわwwwww


次回はドキドキバレー部練習試合編!
「小車君これ読んで」
「これも」

恋人ではない女の子に想いをしたためたラブレターをもらうという経験は、後にも先にもこの時だけだと思う。

それは小学5年生の秋から冬にかけてくらいだったと思う。
宮坂さんと多田さんは仲良しでいつも一緒にいたのだけれど、その二人が同時に僕にラブレターを渡してきたのである。
どう考えても不可解な行動ではあるが、小学生なんてそんなもんだったのかもしれない。

「小車君っていいよね」
「あ、あたしも思うー」
「んじゃ一緒に告白しよっか」

その程度の軽いノリだったように思う。
実際手紙を読んでも付き合ってとかそういうことは書かれていなかった。
ただ好きだと。
小車君ってかっこよくて面白いよねと。

小学生の時にモテるのは絶対的にドッジボールが強い奴だった。
ヘナチョコプレイヤーの僕はその面において活躍することはなく、小車なんてクラスの女子には眼中にない存在だったはず。
それまで非モテ人生を順調に歩んでいた僕は、このダブル告白チャレンジに浮かれた。
それはもう大いに浮かれた。

後に聞いたところによると、好きになったきっかけは僕が同時掃除時間に掃除をサボって毎日山本とやっていた「妖怪人間ベムごっこ」を見ていて、面白かったからということらしい。

まずは僕がベロ役を演じ、なんらかのトラブルに巻き込まれる。
山本は敵役を演じる。
二人でいろんな役をやらねばならないので大変だ。
次に山本がベラになり「ベラの鞭はいたいよ」と決めゼリフを言う。
その瞬間の敵役は僕。
そして最後に僕がベムになる。
「ウー!ガンダー!」
そのかけ声とともに手に持っていたほうきを縦から横に掲げる。
敵はやられて一件落着。
大切なポイントとして、僕も山本も妖怪人間を演じている時は手袋の人差し指と薬指の部分を引っ込め、その指は手袋の中に収納。
手の部分まで妖怪人間を再現していた。

ドッジボールが強い奴がモテる時代に、何を思ったのかこれを見て好きになる女子がいたとは。
「世の中捨てたもんじゃない」というセリフを小学5年生にして生まれて初めて吐いたのも頷けるというものだ。

ちなみに毎日やっていた妖怪人間ベムごっこだったが、やはりその内先生にチクられた。

帰りの会で「小車と山本は放課後職員室に来なさい」と言われ、こっぴどく怒られるんだろうなと覚悟して向かった職員室。
担任の岡部先生はとても優しくてクレイジーな人で、怒られるどころか「指をしまうのは中指と薬指にした方がバランスがいい」と、謎の妖怪人間指導が始まる感じだった。
そんな事を言うためにわざわざ放課後職員室まで呼び出したというのか岡部先生は。
本当にありがとう、岡部先生。


さて、話を本筋に戻してラブレターの件である。
二人同時に渡してきたものの、特に付き合ってとかは書いていなかったわけで。
なんとなく僕はその後に宮坂さんといい感じになった。
多田さんはなんとなく察してなんとなく離れていった。
でも小学5年生の僕らにとってはその両思いがゴールみたいなもので、そこから手を繋いだりキスをしたりペッティングしたりなんてことはなかった。
多田さんの家で僕にあげる手作りバレンタインチョコを僕を含めた3人で作るというとても気持ちのいい会が開かれた事は今も忘れられない良い思い出。


それからなんとなく、みんなの噂になったりして、それとなく話さなくなった。
辛い別れがあったわけでもないから悲しくもない。
だけどあの時に初めて好意を抱かれ、自分も興味を持ち、言葉を交わし合ったことはそれからの僕にとって変化のきっかけとなったような気がする。

今僕が思うことは、あの時ちゃんと自分の気持ちを宮坂さんに伝えておけばよかったなということと、妖怪人間ベムごっこってなんて斬新な遊びをしていたんだろうなってことぐらいか。

今の若い人は妖怪人間ベム知ってるんだろうか……


つづく


「祥は油虫な」

 

今の若い人たちはこの油虫システムをご存じだろうか。

簡単に言うと、鬼になれないというもの。

鬼ごっこでもかくれんぼでも鬼になれないので、鬼は追いかけてこないし隠れていても探しに来ない。

ドッジボールでは当てられても外野に行くことはないから強いのかと思いきや、油虫がボールを投げて敵チームの誰かにボールを当てても無効になるので役に立たない。

つまり、遊びに参加こそできるものの、何も権利を持っていない存在。

それが油虫というシステムなのだ。

 

僕には兄が2人いて、4つ上と5つ上だ。

年子の兄たちはよく一緒に遊んでいた。

少し離れた僕が一緒に遊ばせてもらえることは少なく、入れてもらえるとしても冒頭のセリフを吐かれて僕は油虫になる。

何がかわいそうかというと、僕はとにかく構ってほしくて、この油虫でさえも参加させてもらえることがこの上なく嬉しかったということだ。

 

兄には絶対に逆らってはいけない。

そんな鉄の掟が小車家にはあった。

少しでも生意気な口を利くだけで兄に殴られたりした。

兄が自分の部屋からリビングにいた僕を呼びつけ、呼ばれた僕に言ったセリフが「祥、そこのリモコン取って」とか、そんなのはしょっちゅうだった。

 

兄の友人が遊びに来ると僕は必ず兄の部屋に遊びに行った。

兄の友人からもパシリにされ「祥、ジュース買ってきて」と言われて喜んで買いに行っていた。

「祥の分も買っていいぜ」

兄の友人はさすがに無償でパシリに使うのは気が引けたらしく、よく僕の分もおごってくれた。

そのお金でジュースを買わずに貯金してみたら一か月で3千円くらいになったのを覚えている。

 

大人になってから思うのは、僕の幼少期において僕の人格形成に大きく影響したのは、やはり兄2人の存在が大きいということ。

音楽、漫画、ゲームなどの影響を大きく受けた。

自分より数年早く生まれてきた兄の言葉を鵜呑みにし、人には受け売りで話をしたりしていた。

兄が好きなものを好きになり、兄が嫌いなものを嫌いになっていった。


自分の意思を持たず、何の権利も持たない油虫。

これは遊びにおいてのことだけではない。

そんな油虫が自我やプライドを持ち出すのはもっと後のことで、それまではもう本当にどうしようもないクソガキだったとしか今となっても思えない。


次は初めて異性に告白された時のお話。

 

「あんたには夏美って付けるつもりやったのにねぇ」

 

これは何度も聞いた母から僕に対するセリフ。

1980年2月29日のほぼ正午。

福岡市中央区の某病院にて僕は産まれた。

僕は男3人兄弟の末っ子。

 

僕の母はずっと女の子を欲しがっていたそうだ。

当時の医学がそうだったのか、母が選んでそうしたのかはわからないが、産まれるまで子供の性別はわからなかったのだそう。

兄二人が産まれた時にも女の子じゃないことを少し残念がっていたらしい。

3人目だった僕の時は、兄二人の時とは妊娠期の様子が全く違ったのだそうだ。

普段はそこまで甘いものを欲さない母だが、僕がお腹にいる頃には毎日甘いものが食べたくて仕方がなかったのだとか。

 

「今度こそ女の子に違いない」

 

母はいつしかそう思い込むようになり、産まれてくる前に僕の名を夏美と決めていた。

産まれてくるの全然冬なんだけどな。夏美はおかしいだろ夏美は。

 

「元気な男の子ですよー!」

「ええええええええ???」

 

僕が産まれた瞬間の母の第一声がこうだったそうだ。

 

「あんなリアクションする母親は見たことがありませんでした」(某産婦人科助産師)

 

上記のような発言が助産師からあったかなかったかは知らないが、それくらいのリアクションだったらしい。

産まれたての僕、かわいそう。

 

まぁしかし、実際は僕の母親は3人の兄弟に分け隔てなくこれ以上はないくらいの愛情を注いで育ててくれた。

母には感謝しかない。

 

僕が2~3歳の頃、僕の母方の祖父が亡くなった。

僕のことを可愛がってくれたらしい祖父の記憶は僕には残っていない。

祖父が亡くなり、僕の家族と祖母は同居することになった。

どういう経緯があったかは知らないが、祖父が残してしまった借金がありそれを僕の両親が肩代わりすることになったのだという。

経済的に苦しくなった我が家は母も働くこととなり、僕ら三人兄弟の面倒はほとんど祖母が見ることとなった。

 

祖母と言ってもこの時はまだ50前後。

まだまだ若く、よく母親と間違えられたのを覚えている。

祖母は主人を失った悲しみと寂しさを全て3人兄弟の面倒を見ることで穴埋めした。

兄二人は小学生だったが、僕はまだまだ幼くて一番手がかかる。

そんな僕にこそ、本当に愛情をやりすぎなくらいぶつけていたように思う。

甘やかされまくって育った記憶しかない。

 

例えば、僕はある時期、晩御飯をまともに食べたことがなかった。

「もう食べたくない」と言ってご飯を残す。

そしてスナック菓子やジュースを口にしても、祖母は全く怒らなかった。

僕がそんな食生活で栄養失調になってしまい、病院に連れていったときに先生に「これは栄養失調ですね」と言われた時は本当に恥ずかしかったと、母は最近でも時々その話をするほどだ。

 

母は子供の面倒を祖母に任せなければならないほどに、本当に激務をこなしていた。

そして母は祖母にはかなり厳しく育てられたので、祖母に任せておけば大丈夫だと思うところもあったらしい。

しかし実際の祖母は僕に対してしつけというものをほとんどすることがなく、何かをやりなさいと言われたことは一度もなかった。

歯磨きをしろとすら言われないので、口の中は虫歯だらけ。

小学校の時間割を見て、次の日の教科書とノートをランドセルに詰めるのは僕の祖母。

朝起きたら靴下や洋服を祖母に着せられていた。

 

今思うと本当にかわいそうな子供である。

 

わがままが服を着て歩いているような子供で、小学校2年生くらいの時に授業中に席を立ってスタスタと歩き出し、仲のいい友達の席へ言って「今日ウチに遊びに来る?」と聞いてみたり。

家の近所の駄菓子屋に行くのが好きで、毎日祖母に「100円ちょうだい」とお菓子代をせびった。

 

好きなことをして生きていたい。

欲しいものは欲しい。

やりたいことは今すぐやりたい。

常にみんなの中心でいたい。

 

そんな僕の根底にある人間性は、この時に形成された気がしてならない。

僕の幼少期は本当に、子供でなければ救いようがないほどのダメ人間の生活そのものだったのである。

 

 

つづく