ならぬものはならぬのです!   広島まほろば学習会第56回『素読教室』 | おぎ村ふみ規オフィシャルブログ  100年後も選ばれる、廿日市に!

おぎ村ふみ規オフィシャルブログ  100年後も選ばれる、廿日市に!

廿日市が100年後も選ばれるまちであって欲しいと願う、広島県廿日市(はつかいち)市議会議員おぎ村ふみ規(3期目)のブログです!

皆さん、こんにちは!
廿日市 広島から日本を元気に!する市議会議員
宮島の目の前の、おぎ村 ふみ規です。



今年に入ってから家族そろって参加させてもらっている
広島まほろば学習会『素読教室』。
今日は会場近くに住む姪子も初参加でした。。

1378017321135.jpg
熱弁をふるう 松田雄一先生
クリック広島まほろば学習会 代表世話人

1378017300684.jpg
4歳の我が家の末息子(手前左)も話に聞き入っています。



【ならぬものはならぬのです!】

今日の参考資料の中から会津藩の訓え
をシェアしますね。


これは幕藩体制の時代、徳川家への忠義で知られる会津藩
の基礎的な精神理念『什の掟』(じゅうのおきて)の一節です。


『什の掟』の具体的内容は、

一、年長者の言ふことに背いてはなりませぬ
一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
一、虚言を言ふことはなりませぬ
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ
一、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです


今なお大事な理念が、確かにここにありますね。

主に言葉を使って教育をするのは言うまでもないこと。
しかし、その落とし穴は『理屈を考えすぎてしまうこと』
ではないかと喝破されています。

それは、人間の生き方全てが理屈で語れるわけではない。

『国家の品格』で有名な藤原正彦氏曰く、


『殺人がなぜいけないのか。それを理論的に
説明することは出来ない。

あるいは殺人を肯定する理論さえ構築できるかもしれない。

であるから、何でも理論ばかりを根拠に教育する事はできない。

何故、殺人はだけなのか・・その答えは“だめなものはだめである”
であるということ。それだけでしかない』


そしてこう結んでいます。

人の「理想の生き方」「道を踏み外さない心得」
というのは必ずしも理論によって成立しているわけではない
と考えれば「ダメなものはダメ!」という教育は大変に
有益であるといえましょう。



確かに僕も素読教室に通いだして
ついつい「意味」を考えてしまう「クセ」が抜けません。

まずは「音」を体にいれる事が大事だと「アタマ」で
わかっているつもりでもどうも、公教育時代での「クセ」
がなかなか抜けません。

公教育時代に沁みついたものは何十年たっても
抜けない物ですね。ある意味空恐ろしさも感じます。




【日本人初のノーベル賞受賞者と素読の関係】


最後にこれも本日の教材であった、日本人初の
ノーベル賞受賞者、湯川秀樹博士のお話を引用して
終わりたいと思います。


湯川秀樹博士は著書の中で以下の様に述べられています。

引用開始

四歳の時から、母方の祖父から四書や孝経、史記列伝
春秋左氏伝などを素読させられた。中学の頃は「老子」や

「荘子」を愛読するやうになった。ある日寝付かれないまま、
ふと幼い時に素読した李白の文章が頭に浮かぶ。

「それ天地は万物の逆旅にしして、光陰は百体の過客なり」
この詩は、時空と素粒子の相互規定を象徴していると
閃(ひらめ)いたのである。

人間の創造力といふものは、
ちょっと考えると記憶力と反対のもののやうにみえますが
実はさうではなく、

創造性の発現は、相当大量の、
そして相当程度まで系統だった記憶を素地として
はじめて可能なのであります。


引用終了



漢籍から物理学を生み出す、とは
なかなかピンと来ないものですが、

ノーベル賞受賞者自身がそうのべられています。

「創造性」は大量の系統だった記憶がベースにある
とのことからも、諸外国では今もあたりまえに
「素読」が言語教育の基本であるように

我が日本でも幼少期に特にしっかりと
古典の素読をさせる必要性をあらためて
感じた今日の広島まほろば学習会への参加でした。





感謝!荻村 文規