国民を思う万世一系の祈り
■1.「皇室は祈りでありたい」
「皇室は祈りでありたい」とは
皇后陛下のお言葉だが、そのお言葉通り、
両陛下が深々と頭を下げていらっしゃるお姿を、
我々は何度も目にしてきた。
2015年の10月1日、
両陛下は東日本豪雨の被災地を訪問され、
鬼怒川の堤防が決壊して、
濁流にのまれ死亡した男性が
発見された場所に向かって、
冷たい雨が降る中を傘を閉じて、
深々と頭を下げられた。
両陛下が被災地で黙礼される姿は、
東日本大震災でも阪神淡路大震災でも見られた。
本年4月に訪問された
先の大戦の激戦地ペリリュー島では、
両陛下は西太平洋戦没者の碑と
米軍慰霊碑に供花され、黙祷を捧げられた。
ついで海を隔てたアンガウル島に向かって、
ほぼ90度に頭を下げられ、
戦死した約1200人の日本軍将兵の冥福を祈られた。
戦地・戦災地でのお祈りは、
広島、長崎、沖縄、硫黄島、サイパンと
続けられてきた。
しかし、天皇の祈りはこうした
国民の目に触れるものだけではない。
皇居内で御自身がお出ましになる儀式だけでも、
年間30回ほどもある。
国民の知らない所で、
陛下は静かに国家と国民の安寧を
祈られているのである。
■2.「新嘗祭の折などには、祭祀が深夜に及び」
天皇の祈りには、神主のような装束で深夜や早朝に
何時間もかけて行われる儀式もある。
たとえば11月23日の新嘗祭
(にいなめさい、しんじょうさい)。
天皇が五穀の新穀を天地の神々にお供えし、
御自らもそれを食して、
感謝するという儀式である。
夕方から始まる儀式が終わるのは
午前一時頃になるが、
紀宮(黒田清子)様のご幼少の頃に
御用掛を務めた和辻雅子さんは、
次のように記している。
__________
新嘗祭の折などには、祭祀が深夜に及び、
皇后様は御装束をお召しになり
古式ゆかしいお姿のまま、
御拝を終えられた陛下と共に
お祭り終了までお慎みの時を過ごされます。
このような祭祀の夜は
「およふかし」と御所で呼ばれておりましたが、
宮様方も一定のご年令に達されてからは、
それぞれにこのお時間を
最後まで静かに
お過ごしになるようになりました。
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11月23日は勤労感謝の日で、
我々は休日の一つくらいにしか考えていないが、
その日に陛下は深夜まで、
国民を養う五穀を戴いた事に
感謝の祈りを捧げられているのである。
お正月の初日の出の前にも、
天皇はお祀りをされている。
午前五時半からの「四方拝(しほうはい)」、
その後に「歳旦祭(さいたんさい)」が行われる。
平成17(2005)年の歳旦祭に、
陛下はこう詠まれてた。
明け初むる賢所(かしこどころ)の
庭の面(も)は雪積む中にかがり火赤し
寒気の厳しい元旦に、
庭に降り積もった雪にかがり火が赤く映えている、
という幻想的な光景であるが、
そう詠われる今上陛下は暖房もない宮中三殿で、
神々に国家と国民の安寧と豊作を
祈られるのである。
今年、88歳を迎えられるご老体で。
我々も正月には
神社に初もうでをして神に祈るが、
天皇の祈りはそれとは
比べものにならないほどの「激務」なのである。
■3.国民の幸福を願う祈り
天皇の祈りが我々と違う点がもう一つある。
皇學館大学の松浦光修教授は、
こう記している。
__________
私たちふつうの者は、
自分や自分の家族や職場や組織などのために、
つまり、「自分のために祈る」ことが
少なくありません。
それらは結局のところ、
自分や自分のまわりの人々の
“現世での利益”を求める祈りですが、
天皇陛下の「祈り」は、
それとはまるでちがっています。
天皇陛下の「祈り」は神武天皇の昔から、
ともに生きてきた国民の幸福を、
さらには世界の人類の幸福を、
ひたすら願う「祈り」です。
日に見えない神々の世界と、
目に見える国民の世界を結ぶ、
果てしなく広い「祈り」です。
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歴代の天皇も国民の幸福を祈られてきた。
今上陛下で125代となる皇室は
ずっと一系でつながっているが、
その皇統を通じて祈りの伝統が継承されてきた。
歴代の天皇が、どのような御心で
祈りの伝統を護られてきたのか、
を見てみよう。
■4.神武天皇の祈り
天皇の祈りは、
初代の神武天皇からすでに始まっている。
神武天皇は
「天地四方、八紘(あめのした)にすむものすべてが、
一つ屋根の下の大家族のように
仲よくくらそうではないか」と
言われて即位されたのだが、
その4年の後、
そのような国が出来た事を神々に感謝している。
__________
私の先祖の神々は、天からお降りになり、
私を見守りつづけてくださり、
ずっと私を助けてくださいました。
今、さまざまな反乱は平定され、
天下は、なにごともなく治まっています。
そこで私は、天の神々をお祭りして、
先祖の神々に大きな孝行をしたいと思います。
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そして、祭壇を大和の国の鳥見山のなかに設置され、
先祖の神々にお祭りをされた。
これが現在も続く「皇室祭祀」の
はじまりと言われている。
「天からお降りになり」とは、
天照大御神が孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に
「宜しく爾皇孫(いましすめみま)、
就(ゆ)きて治(しら)せ」と命じて、
高天原から地上に下らせたことを指している。
神武天皇はその曾孫にあたる。
古代日本語での
「しらす(知らす、治らす)」とは、
「領(うしは)く(領有する)」
とは厳格に区別され、
「天皇が鏡のような無私の御心に
国民の思いを映し、その安寧を祈る」
という意味であった。
したがって天皇が先祖の神々に
「孝行」をするということは、
「民が幸福に暮らせる国を」という
先祖神から与えられた使命を果たすことなのである。
■5.「政治の前に神の祭りを」
大化の改新が行われた大化元(645)年、
右大臣となった蘇我石川麻呂
(そがのいしかわまろ)は、
第36代・孝徳天皇に次のような進言をしたと
『日本書紀』に記されている。
__________
蘇我石川麻呂の大臣が、
「天皇は、まず天神(あまつかみ)
地祇(くにつかみ)を祭り鎮め、
そのあと政治をすすめてください」
と、進言しました。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
「政治の前に神の祭りを」というのは、
民の幸せを願う先祖神の御心を思い起こした上で、
それを現実の政治の中に
具現していかなればならないからである。
古来、「政治」を
「まつりごと(祀り事)」と読んだのも、
この意味からであった。
「政治の前に神の祭りを」の伝統は、
その後も継承されていった。
平安時代の中期に
「寛平の治」と称えられる政治を行った
第59代の宇多天皇(867-931)の日記には、
こう記されている。
__________
「わが国は神国です。
ですから毎朝、
四方の大・中・小の天神・地祇を拝むのです。
このことは、今日からはじめて、
以後、一日も怠りません。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
「神国」とは
「神々が護る国」という意味だろう。
そして、その神々が民を護らんとする
御心を現実の政治に伝えるのが、
天皇の役割なのだ。
平安時代には皇居の清涼殿
(天皇が起居される建物)の東南の隅に
「石灰(いしばい)の壇」が設置されていた。
これは板敷きと同じ高さまで
床下の土を築きあげ、その上を
石灰で塗り固めた場所である。
天皇は毎朝、起床されると体を清め、
そこで祈りを捧げられた。
土を固めて壇を作ったのは、
太古より続く「大地の上で祈る」
形を継承したものであり、
東南に設けられたのは、
天皇の先祖神である
天照大神が祀られている
伊勢神宮の方向にあたるからだ。
この毎朝の祈りは
「毎朝御代拝(まいちょうごだいはい)」として
現代まで受け継がれている。
毎朝、天皇陛下の代理の侍従が
宮中三殿にお参りし、
その間は天皇陛下も
「おつつしみ」になっている。
■6.「天皇たるもの朝から夜まで、
神を敬うことを怠けてはなりません」
鎌倉時代に倒幕を図った
承久の変(1221)に加わって
佐渡に配流となった
第84代・順徳天皇(1197-1142)は、
変の以前には王朝時代の有職故実の研究に熱心で
『禁秘抄(きんぴしょう』を著した。
その中に、次の一節がある。
__________
すべての皇居で行うことのうち、
神を祭る事が、まず先であり、
他の事は、すべてその後に行うものです。
天皇たるもの朝から夜まで、
神を敬うことを怠けてはなりません。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
これも「政治の前に神の祭りを」
と同じ精神である。
戦国時代の天文9(1540)年、
世間で疫病が流行した。
第105代の後奈良天皇(1496-1557)は、
長く続いた戦乱の余波で
経済的にも困窮されていたが、
民のために秘かに
般若心経(はんにゃしんきょう)を写経し、
醍醐寺の三宝院に収められた。
その末尾にはこう記されている。
__________
今年は、天下に疫病がはやり、
多くの民が死に瀕しています。
私の民の父母としての、
徳が足りないからである
(原文「朕、民の父母として、徳、覆うこと能はず)
と思われてならず、私は、とてもつらい思いです。
ですから私は、ここに『般若心経』を金字で写し、
義堯(ぎじょう)僧正の手によって、
醍醐寺三宝院に納めます。
心からこれが、この疫病の妙薬になるよう、
祈ってやみません。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
「民の父母」とは、
まさに親が子の幸せを祈るように、
国民の幸せを祈る天皇のあり方を指している。
自分の子が不幸になったら、
親は自分を責めるだろう。
国民の不幸は自分の徳が足りないからだと、
つらい思いをされる
天皇の姿勢もそれと同じである。
■7.「かならず神事の予定を第一にされて」
歴代天皇の祈りは、
近代に入ってからも変わらずに継承されている。
明治天皇が初めて静岡の御用邸に入られた時、
「伊勢神官は、どちらの方角か?」、
「賢所は、どちらの方角か?」と、
お尋ねになった。
伊勢神宮や宮中三殿の方角に、
自分が背を向けて起居しないように、
とのお考えからだった。
方角をお知りになった天皇は、
「それでは、こうしなければならない」
と机と椅子の位置を変えられた。
昭和天皇の侍従を務めた甘露寺受長氏は、
こう書き記している。
__________
今上陛下(昭和天皇)は、
いろいろなご計画をお立てになる場合、
かならず神事の予定を第一にされて、
それをはずして他のご計画をあそばされる。
たまたま、計画が
神事の日にあたるようなことが生じてくると、
神事に支障がないかどうかをお確かめになり、
支障がないことがわかると、
はじめてお許しになる。
また、いつでも御座所やご自分の位置が、
賢所をうしろにしないように、
細かいところまで気をお配りになっている。
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■8.「天皇陛下は、日々、私どもの
幸せのために祈ってくださっている…」と知れば、、、
こうして見ると、
天皇が国民の幸せを祈るのは
皇室の伝統そのものである事が見てとれる。
松浦教授は、こう語る。
__________
「天皇陛下は、日々、私どもの幸せのために
祈ってくださっている…」
この一つの事実だけでも、
全国の学校で教えるようになれば、
みちがえるほど日本の子供たちの心は立て直され、
やがては混迷をつづける日本にも、
希望の光りが差し染めるのではないか…と、
私は思っています。
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人は誰かが自分の幸せを祈ってくれていたら、
嬉しく思い、自分も他の人々のために
役に立ちたいと願う。
一人の利他心が
多くの人々の利他心を呼び覚ます。
天皇が国民の幸せを祈る
大御心を知った人々は、
政治家なら国民のための政治を行い、
実業家なら国に役立つ事業を興す。
それが波紋のように広がって、
国民一人ひとりが
他の人々のために尽くすようになる。
まさに国民が一つ屋根の下の大きな家族のように、
互いに思いやり助け合う姿、
我が国はそのような理想を実現すべく建国された。
そして歴代天皇はその理想を継承して、
代々、無私の祈りを捧げてきた。
我が国では、そのような皇室が
国民の連帯の中心にあり、
国民統合の象徴となっているのである。
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<著者紹介>
伊勢 雅臣
1953年東京生まれ。
東京工業大学 社会工学科卒。
日本の大手メーカーに就職後、
社内留学制度により、
アメリカのカリフォルニア大学
バークレー校に留学。
工学修士、経営学修士(MBA)
経営学博士(Ph.D.)を取得。
生産技術部長、事業本部長、
常務執行役員などを歴任。
2010年よりイタリア現地法人社長。
2014年よりアメリカ現地法人社長を歴任。
イタリアでは約6千人、
アメリカでは約2.5万人の外国人を束ね、
過去最高利益を達成するなど
成果を上げてきた。
これまでの海外滞在はアメリカ7年、
ヨーロッパ4年の合計11年。
駐在・出張・観光で訪問した国は
5大陸36カ国以上に上る。
1997年9月より、
社業の傍ら独自に日本の歴史・文化を研究。
毎週1回・原稿用紙約15枚の執筆を22年間。
正月休み以外は毎週続け、
発行したメールマガジンは1148号を超える。
筑波大学等でも教鞭をとり、日本の未来を担う
「国際派日本人」の育成に尽力している。
「国際派日本人」養成講座 メールマガジンの登録はこちら:
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