モラトリアムは終了…ふーさんも社会人としての一歩を踏み始めました。

「モラトリアムはもうおしまい♪」と節をつけて口ずさんでいたら、ふーさんも「モラトリアム」という言葉を覚えてしまいました。誠に遺憾。

 

 

ランドセル学校

学校生活をブログで詳らかにすることはありません。

複数の看護師さんがいらっしゃるので引継ぎをスムーズにすべく、ふーさんのプロフィール表を挟み毎日のサチュレーション、心拍、体温、体調を記入して看護師さんに見てもらっています。(私が勝手にやっている)

ふーさん情報は最低限しか看護師さん達に開示されていなかったようなので、プロフィール表と手術歴を各自見て頂き、サチュレーションが特別低いことなどすぐに理解していただけました。

また、看護師さんは主治医と親の意見書で書かれていることしか動けないので、看護師さんとのやり取りの中で判断しにくいものなど洗い出しを行い、そこに書いておいて他の看護師さんにも見て頂いています。

ケース会議が年に何回かあるので、毎日の情報や意見書の洗い出しなど書いておいた方が良さそうだな、という印象です。

今回の加配では嬉しい再会もあったので、私達も安心してお任せしています。

 

私は始終別室で待機しています。お子様から話しかけられることもありますが、挨拶はしっかり行うが雑談には乗らず、我関せずカタカタカタカタ~と仕事しているので、皆様空気を読んで話しかけてくることはなくなりました。

申し訳ないのですが、透明人間に徹しないと先生方もやりくいと思うので、愛想は良く、しかし無駄口は聞かない、というスタンスで付き添いしています。

最初は、親が付き添いしているふーさんを見て不思議そうにされていたり、「なんで顔が違うの?」みたいな疑問も投げかけられたりと、ふーさんもやりにくそうに私の後ろに隠れていました。その都度私が説明をしていますが、当事者としては居心地が悪いだろうなと感じます。

気休めにしかならないかもしれませんが「胸を張っていいよ、過酷な環境にいてそれを乗り越えているあなたはすごいよ。」と伝えています。

今のところ、少しずつおしゃべりできるお友達も出来てきて楽しそうに登校しています。

 とはいうものの、早く付き添いから脱却したいです。



4月まで頑張ったのですが、GW前に体調を崩してGW前後とGWはずっと家で養生しています。

かなりのストレス(本人はストレスだとわかっていないパターン)がかかったと思うのでしょうがないかな、と思います。

また、体調崩す前に鼻血を出していたので、少し休ませれば良かったかな…とも感じました。

3月の終わりにも体調崩して受診、今回も受診したところ「一応レントゲンと血液検査しとこうか」となり血液検査をしましたが、肺炎でもなく肝臓の値も悪くなかったのでホッとしています。※インフルもコロナも陰性。

体調を崩す兆候が変わってしまい、右往左往していますが、とりあえずは「無理をしない」をモットーにやっていきます。

学校始まってすぐ、絶対しなかったおねしょもしており、「肝臓とか腎臓大丈夫だよね!?」とものすごく不安になったのですが、間を空けて2回ほどしてそれ以降はありませんでした。血液検査でも特に指摘はなかったので、おそらく心身の問題かなと思います。

今度の心臓内科の健診でも相談しようと思います。

 

通学を始めて色々な方に出会い、色々吸収していくふーさんが印象深いです。

例えば塗り絵。以前は、はみ出しながら適当に色を塗っていました。そもそも塗り絵が好きではないと思っていたのですが、同級生の作品を見て「こんな風に塗ればいいのか」と衝撃を受けたようで、今でははみ出さずに色も考えながら塗るようになりました。

色々な方とおはなしするうちに将来の夢も出来たようで、「絵本作家になりたい」と言い出しました。

私はそもそも「将来の夢は?」とか聞かれるのが苦手なタイプだったので、一度も聞いたことなかったのですが、まさか文字書きになりたいとは…。頑張れ!ふーさん!色々な知識と経験はあなたにとって唯一無二の力になるよ!

 

ふーさんにブログ掲載の許可をもらった作品の一つ。

始まりから終わりまで考え、かつ自分の言葉で書けているので、このまま創作を続けて欲しいです。

 

インクルーシブについて

神奈川県の黒岩知事が言及した件、流れてきました。

本音は特別支援学校をやめていきたい 神奈川県 黒岩知事が「ごちゃまぜを当たり前に」したい理由(Forbes JAPAN)のコメント一覧 - Yahoo!ニュー

ごちゃまぜにした挙句に障害者差別が冗長したらどうやって責任をお取りになるつもりでしょうか…?という感じです。

ふーさんの場合、特別支援学校にも聾学校にも基準値から外れたために、地域小学校の支援級に入るしか選択はありませんでした。

好意的な目ばかりではありません。居心地が悪いです。

「インクルーシブ」という言葉は、当事者としては「針のむしろ」です。

 

健常者と障害者が共存するには、お互いに「理解」ではなく「受容」することなのかな、と私は感じます。

※「障害受容」とは意味合いが違います。

ふーさんは酸素をしないと苦しくなります。酸素を外したら彼女がどのくらい苦しいのか私には「理解」できません。だけど、酸素しないと生活がままならないことを私は「受容」しています。

ふーさんは健康な人の体を「理解」できません。だけど、彼女は他人は健康であるから酸素していないことを「受容」しています。

どこまで自分と他人との違いを「受容」出来るかも大切な事なのかな、と考えています。

理解できている、と勘違いをしてはいけないな、と感じました。

 

現状、健常者と障害者がお互いに認識し始めた黎明期だと思います。

医学の進歩や療育の幅が急速に拡大し、一人一人の命が重くなったことも関係していると思います。

高度成長期に伴って、健常者の生活が豊かになり心身に余裕が出てきて今まで隠されていた「障害者」に目を向けるようになった。

けれどもバブルが弾け、自分達の生活を守る事で一杯一杯になり、一度叫ばれていた「人権」がないがしろにされているようにも感じます。

現代の時代がいい、とは言い切れません。どの時代が良かった、なんて考えても無駄な事です。

もしかしたら近い将来、人の命が軽くなることだってあり得ると思います。


お互いの主張や価値観を押し付ける事がない世界、なんて夢のまた夢だと思いますが、願わずにはいられません。


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