原罪を乗り越えて | ゴモラでございます

ゴモラでございます

Thank you for your cooperation.
この駄ブログも四周年を迎えることができました。
読者登録510名の方々と8,000アクセスに感謝!(2016.1.1現在)

神は楽園に人を置き、あらゆるものを食べて

良いと命じた

が、善悪を知る知識の木の実のみは、

食べることを禁じた。

しかし、蛇にそそのかされた女が

善悪の知識の木の実を食べ、

女に勧められたアダムも食べた。

ここで蛇は女に強制しておらず

(強制できず)、

女もアダムに強制しては居ないことが、

女とアダムそれぞれ自身の意志によって

犯された責任ある罪であることを

意味するものとして言及される。

その後、神は自分の命令に背いた

アダムと女に対して

何を行ったのかを問いかけたが、

アダムは神に創られた女が勧めた

からとして

神と女に責任転嫁をし、

女は蛇に騙された

と責任転嫁をした。

ここでの神がした問いかけは、

単なる質問ではない。

人に問いかけることで、罪の自覚を促し、

悔い改めの機会を与えるものであった。

しかし、アダムも女も、責任転嫁に終始

してこれに応えなかった。

アダムは、神の御旨がなんであるか

はっきり

知っていたにも拘らず、それに背いた。

自分の欲望を優先して、

神をなおざりにした。

神よりも自分を優先すると

いうこの選択

が、人間に罪の刻印を

押してしまった。

アダムのこの選択によって、

すべての人間が、

神よりも自分を大切

にすることを選ぶ

という宿命的な罪を

背負ってしまった。

現在でも継承されて

いるカトリック教会の

伝統的な教えでは、最初

の人間であるアダムが

罪を犯したことによって、

すべての人類が

を背負ったと言われている。

アダムがエバの誘いに乗って、

べてはいけない

と神から命じられていた

木の実を食べたことで、

人類は罪の重荷を

背負うことになった。

キリスト教カトリックでは、

罪は、何か悪いこと

をした人に限らず、すべての人、

たとえ表面的に

正しく生きている人や

何も知らない幼児であっても

背負っているものだと

考えられている。

このような人類に共通の、

宿命的な罪のことを原罪と呼ぶ。

原罪は生殖行為によって親から

子へ遺伝するもので、

なにも悪いことをしていない

赤ん坊であっても

原罪を背負っていると

考えられている。

だからカトリックでは、

人間が生まれながらに

罪深さを背負って生まれて

くるということで

生まれたばかりの赤ん坊

にも洗礼を授け、

赤ん坊から原罪を取り去る。

カトリック教会では、

洗礼を受けることによって

のみ原罪は完全にぬぐい

去られると考えられている。

洗礼によってアダムから

遺伝した罪だけでなく、

それまでに自分自身が

犯した罪(自罪)もすべて!

ぬぐい去られる?というの

がカトリック

教会の教えである。

私は、カトリックではなく、

洗礼も受けていない。

それゆえ、原罪と自罪を持って

今日までを生きてきている。

幼い頃は、絶えず、それこそ

罪悪感に苛まされて

暮らしてきた。

思えば、その頃から

内気な性格が形成された

と感じている。

洗礼を受け、毎日をにこやかに

過ごしている友人を羨ましくも

思っていた。

幼稚園以来高校生に至るまで、

これまでに幼い頃から絶対的

信頼を寄せて

きた親父様(人間的に

素晴らしい方でした。

今でも尊敬しています)からも

何度も洗礼を行うように

お勧めがあった。

しかし、ある人物から

啓発を受け

私自らの意志により

洗礼を

受けるのを拒んだ。

罪悪感に苛まされつつも、

一種の疑念のようなものが

常に私の心

を渦巻いていたから

である。

「洗礼をうけるだけで本等に

原罪と

今まで一切の自罪を浄化

することができるのか?」

私は思う「人間は自力で救われるか?」

キリスト教徒の間でも、

初期教会以来そのように

考えた人たちがいたという。

しかし、そのような考え方は、

間違った考え方として

カトリック教会から

排斥されてしまったという。

なぜなら、もし自力で罪から

救われるならば、

イエス・キリストに

よって救われる

必要がないからだと

彼らは主張する。

また、彼らは、罪はどんなに

努力しても

ぬぐいがたく付きまとう

もので、

自力で罪から逃れることは

難しいという。

私は問う「洗礼を受け、

キリスト教に入信する

しか原罪と自罪を

浄化できぬのか?」

妹が浄土真宗大谷派

であることは、

以前の日記でお話したこと

があると思う。

妹の説く浄土真宗においては、

悪人正機は、浄土真宗の教義の中で

重要な意味を持つ思想で、

「“悪人”こそが

阿弥陀仏の本願

(他力本願)による

救済の主正の根機である」

という意味である。

阿弥陀仏が救済したい

対象は、衆生である。

すべての衆生は、

末法濁世を生きる

煩悩具足の凡夫たる

「悪人」である。

妹が解釈するに、根源的な

「悪人」は、前世による因業たる

原罪があるゆえに「悪人」であり、

更に自罪にまみれた「悪人」である。

よって浄土真宗においては、

自分は「悪人」であると

目覚させら

れた者こそ、阿弥陀仏の

救済の対象

であることを知りえるという意である。

妹は、洗礼を受ければ、

キリスト教徒

となり、先祖代々の仏事を

途絶えさせることは断じて

許さぬと厳しく叱咤した。

妹は、称名念仏たる

「南無阿弥陀仏」

の名号を一心不乱に

唱え、本願を信じ、

念仏申さば本願相成りて

仏となりて解脱せしめ、

原罪及び自罪を浄化

せしむと私に説く。

(今思えばすごく

矛盾があるので

あるがどこかの折伏

どころの

レベルではなく

鬼気迫っていた)

妹は、一晩中泣いて説得して

くれた...

私は、それを受け、

キリスト教に疑念を

抱き、妹の説法を受け、

思いとどまりて

今に至っている。

妹は、母が危篤の時

に入信すれば

助かると言ってきた

創価学会員と殴り合う

気性の激しい頑固者であるが、

私が当時、原罪に悩まされて

いたのを見かねて

私を立ち直らせようと

激しく私を叱咤したもの

であろうと思う。

「姉妹」っていいな...

そんな姉思いの妹である。

バツいちでやや、元気がない

ようであるけれども

妹の夢である「洋裁店」

の設立に向けて私も

一肌脱ぎたいと思っている。

私は、まだまだ人間的にも未熟であり、

この先、キリスト教に限らず他の宗教

(じつは、密教に興味がある(笑))

のことを学び、

人間的にも成長を遂げて

いきたいと

願っている。


$‡GOMORRAH‡のブログでごぎぃます
$‡GOMORRAH‡のブログでごぎぃます
$‡GOMORRAH‡のブログでごぎぃます