ラグビー界の巨星・平尾誠二死す。早過ぎるよ、同い年じゃないか… | オレンジの園に

オレンジの園に

2014年3月、某局で放送された
『55スペシャル』で
“モーニング娘。”に目覚める。
基本的に特定メンバーを
偏愛しないと心に決めているが、
“オレンジ”系には目がない。
2015年9月にライブ初参戦。
このブログは
娘。ライフの備忘録である…



http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2016/10/20/kiji/K20161020013569920.html


私事だが、19歳の時うちが引っ越しをした。

そうなると成人式は全然知らない土地でってことになる。

当然知った人間の一人もいない会場なわけで、

そんな成人式はご免だった。


で、生まれて初めて観に行ったのが

ラグビーの日本選手権。

新日鉄釜石対同志社だった。


当時のラグビー界きってのスターは松尾雄治。

そのスター率いる釜石が

同志社を一蹴した試合だった。


一方その時の同志社もスター選手揃い。

中でも平尾誠二は端正なマスクとスマートなプレーで

将来を約束された選手だった。


神戸製鋼に入社後は釜石に並ぶ7連覇を達成。

特に印象に残った試合は

何と言っても3連覇のかかった

神戸製鋼対三洋電機。

秩父宮のバックスタンドで実際に観ていたが、

あの日はとにかく寒かった。

たくさん記事にもなったし、解説もなされたが

結局最後に流れを引き寄せる力を

平尾率いる神鋼が持っていたってことだろう。


平尾が入社した頃は必ずしも強くなかったFWも

どんどん人材が揃っていったし、

7連覇時点では

大学のスター選手がきら星の如くって感じだった。


たぶん、そういった編成に関しても

平尾の合理的な考えが大いに反映されてたのだろう。

それは代表の選手起用にも表れていた。

思い切った外国人登用。

全ては勝利のために。


W杯初勝利は

宿沢監督・平尾主将。

その後20年以上に渡って

日本はW杯で勝てなかったことを思うと

この時の体制がいかに傑出してたかがわかる。


日本ラグビーが新しい扉を開くとき、

そこには必ず平尾がいた。

選手として、監督として、そしてGMとして。

この人以上のスターは決して出現しないだろう。


まだ53歳。

19年のW杯日本開催時には

然るべき役割で大会を成功させなきゃならなかったはずだ。

早い。早過ぎるって…。