今日はとある女性と寂しいもの同士、ぎこちない2回目のデートだった。
愛する人や仲間、相棒たちが離れていきどうしようもない寂寥感に苛まれる日々。
そこに愛はなくとも束の間だけ寂しさを紛らせるひとときの時間。
彼女と別れ行きつけのバーで他愛もない会話を交わし自宅へむかう途中、ふと気がついた。 「愛を求めていないか」 寂しいから愛を求めてあたりまえだと思っていた。 けど、何か違う。 そうじゃない気がする。 バーでバイトする女の子、今夜は休みだけどたまたま遊びにきていた女の子、男たち、みんな愛を求めてる。
家族や仲間、相棒、、、身近に愛を感じていたとき、愛を求めたりしなかった。 あたりまえ、、、
いまは一人だから愛を求める。 あたりまえ、、、
でもそうじゃない
「愛を求める」 聞こえはいいけど オレの場合には 「助け」 を求めてるのと一緒だと気がついた。
みてくれはともかく生き方だけは格好つけたいと願うオレにとって我慢できないこと。 そんな我慢ならないことをこの一年半続けていたことに気がついた。
若い男女が助けあうのはあたりまえ
しかしオレのような大人が周りに 「助け」 を求めるのは明らかに違う。 そこに愛はなくとも 「助け」 を常に求められる側でないといけない。 あたりまえのことに気がつけた。
大人の男であるためには 「愛を求められる」 側であり続けなければいけない。 それは「愛を注ぐ」側でいつづけるということ。
「愛を注ぐ」という行為そのものの表現の仕方やそのタイミングはいろいろ考えていく必要あるけど、相手の愛はいっさい求めず注いでいく側であり続けなきゃ。