写真家yukko*のVIVIDにゅ~す!

写真家yukko*のVIVIDにゅ~す!

写真家でファッションコンサルタントのyukko*です。

わたしは、人は幸せでいるために生きていると思っています。
お洋服や写真を通じて自分を見つけ、あなたの幸せをVIVID(イキイキと鮮やかに)に生きようぜ♪



・ポートレイト撮影 3時間 50,000円


内面の輝きを写します!大好評いただいています♪ 詳細はこちら



・ファッションコンサル 
1日(8時間) 100,000円



あなたの魂が輝く服を選びます! 詳細はこちら→ 


その他yukko*の提供メニュー一覧はこちら→「提供中のメニュー一覧」




 

久しぶりに夫と映画を観てきました。

 

チリに実在したカップルのノンフィクションのドキュメンタリーのような映画。

でも、いわゆるNHKのドキュメンタリーみたいに解説か何かがあるわけではありません。

 

そこには、ホームビデオに記録された過去の時間と

最近の二人の日常の様子(これもホームビデオ的な動画)が静かな音楽と共に淡々と続いていくだけ。

あまりに淡々としているので途中少しウトウトしてしまったくらい。

 

妻のパウリは国民的女優で夫のアウグストはずっと政治を追いかけてきたジャーナリスト。

17歳差の二人だけれど、二人を見ているとあまり年齢の差は感じず、

認知症で記憶を失っていくアウグストと、時には悲しみつつも慈しみの空気で彼を包みながら日々を過ごすパウリ。

 

二人の姿が色々な動画のつなぎ合わせで映し出されていきます。

 

この映画、私の感想としては

それを見る側の経験やあり方が映し出される映画だな〜、と感じました。

 

夫と、夕食を食べながら感想を言い合ったのですが、

観点が違うところ、重なるところが両方ありました。

 

夫の両親は現在まさに義父が認知症で記憶が飛んでしまうことが多々あり、

共に暮らす義母がそれに悲しんだりイライラしたりしていて

夫はそれを目の当たりにしているからか、

自分の記憶がなくなっていくことは自分のアイデンティティがなくなってしまうようで怖いと言っていました。

 

私はといえば、

不思議なくらい、やってくる未来を怖いとは思わない自分がいるのを感じて、

自分が自分にへえ、という感じでした。

 

私は基本、すごくまだ見ぬ未来を怖がるタイプで、

起こってもいないことを想像しては

そうなったらどうしよう、と不安に思うようなことがこれまで多々ありました。

 

ここ数年、自分が年齢を重ねて60歳に近くなってきたこともあって

老いること、死を迎えることについて随分といろいろ考えてきたんですよね。

 

そこから、自分は(人間は)いったいなんのために生きているのだろう、

幸せというのは一体なんなんだろう、とも。

 

最初のうちは老いるのも死ぬのもただただ嫌だなあと思っていたのですが、

その二つとも誰もが避けられないことだし、

飽きもせずそれをずーっとずーっと眺めていたからか、

なんていうんでしょうね、開き直ったというわけではないけれど、

 

その嫌だなあと思うことも含めて、

全部が美しいプロセスのように思えてきているんですよね。

 

うちの父と母はもうすでに亡くなっていて、

二人ともすごく忙しくしていて、やっといろんなことから解放された時点で

二人とも病気になって死んでしまったので、アウグストとパウリのように

一緒の時間を味わうということがあまりできなかったんです。

 

だから、今日の映画の二人を見ていて、

夫のアウグストが日によっては20年以上一緒に過ごした妻のパウリのことを

全く思い出せないことがあって、それをそれぞれに悲しんでいるんですけど、

それも含めて、そこには愛の時間が流れているなあ、と思ったというか。

 

もちろん実際に私がそうなったら、夫がそうなったら

すごく悲しんだり、こんな悠長なことは言ってられないだろうなって思うんですけど。

 

でも、そうであったとしても

私の中のどこかで、それは一つの美しい時間でしかないと確実に思っている部分があるんですよね。

 

それを確認できたことが、今日この映画を観て一番嬉しいと感じたことでした。

 

もう一つ感じたことは、

 

「そこに、『何かをしてあげられる人がいる』ということの幸せ」。

 

最近ね、夫の勤務先が変わって毎日6時起きで弁当を作っているんですけれど、

夫は「職場で弁当を売りに来ている業者さんがいるから弁当作らなくても大丈夫だよ」

って言ってくれるんです。

 

けど、なんか弁当作りたいなって思って作ってて。

でもそれがどうしてなのかわかんない部分があったんです。自分でも。

 

朝は弱いし、できれば寝ていたい。

だけど、なんか作りたくて弁当作ってて。

 

それが、今日この映画をみてはっきりわかったんですけど、

「誰かに何かをしてあげられること」が幸せだと感じているんだな、と思ったんです。

 

仕事をしている人や子供さんがいらっしゃると、その対象がお客様や子供さんになると思うんですけど、

私は子供もいないしいまは仕事を休んでいるので、何かしてあげられる対象が少ない。

 

だから、目の前の夫にしてあげられることとして、

弁当作りをとらえているんだなと思ったんですよね。

 

夫に限らず、いま自分の周りに大切と思える人たちがいてくれること。

その人たちと少しずつでも時間を共有できていること。

 

そんなことをとても幸せだと感じている今日の自分がいることを

こうして書き残しておきたくなりました。

 

読んでくださってありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

 

前回ブログを書いたのが3月2日・・・・

(前回の続きはまた書こうと思います^^;ゴメンネ)

 

そこから日にちが空いたのは理由がありまして。

 

その次の日、

人生で初めて救急車に乗りました。

 

腹部の激痛で身動きできなくなったからです。

ちょうど家族も家におらず、夜中で

市の健康ダイヤルに症状を伝えて聞いたら

それは救急車を、と相成りました。

 

原因は胆石が胆管に詰まる胆管炎というもので

下手すると膵炎を起こし命も危なくなることもあるとのことで

とりあえずよかった・・・

 

で、退院後も家で療養生活を送っていました。

 

食べられなかったこともあって急激に体重も減ってしまって

(一ヶ月で7キロ近く減りました←いまはだいぶ戻りましたケド☆)

人間、こんなに急に生気がなくなるものか、というくらい

げっそりしてました^^;

 

そこから、

胆石のことを一生懸命勉強して(今はいろんな調べる手立てがあってよかった)

食生活をものすごく変えました。

あと、体質改善のため漢方薬の服用を始めました。

 

そしたら、体の調子が目に見えて変わっていったのと同時に、

心のほうの様相も変わってきて。

 

よく、体と心は繋がっているっていうけれど、

頭ではそのフレーズ、わかっているつもりでいたけれど。

 

あれは・・・ほんとにホントですね!

 

カラダってすごい!

体を整えると、心がこんなに変わってくるなんて。

 

体の調子が良くなってくると同時に

精神的にもものすごく良い状態になってきたんですよ。

 

結果、いま、仕事も休んで

ただダラダラしているんだけど

 

とにかく幸せでしょうがない。

 

この幸せの中には、いろんなものが詰まってたり

バックグラウンドにもあるのだけど

 

少しずつそんなことを書いていければと思います。

(今度こそ書く書く詐欺にならないようにしよう^^;)

 

まずは今日はとりあえずアップしとこ。

 

 

 

写真は何日も続いた絶飲食の後に食べたごはん。

 

なんて美味しいんだろう!と感動しながら食べました。

 

 

 

誰でも一度くらいは、うっすらとくらいは

この疑問って持ったことあるのではないでしょうか。

 

自分っていう存在に生まれた意味とかあるんだろうか?

と。

 

それって、自分って価値があるんだろか、

みたいな問いにも繋がりますよね。

 

だけど、いまの世の中ってみんなが忙しすぎて、

そんな問いにいちいち立ち止まってなんていられない、って空気があって。

 

とりあえず目の前のやらなければならないことをやらなければ、と

そこだけを見て、

 

そして周りを見渡して、他人がしていることをみて

みんな同じようにがんばってるんだから

とりあえずやらなくちゃ、みたいな気持ちになる。

 

まさに昔の自分がそうでした。

 

私は昔、北海道庁に勤めていたのですが、

そこで「やらなければいけないこと」の量の多さに

最初、圧倒されました。

 

これがあなたの仕事ですよ、と渡されたものがあって

その当時の若い自分にとっては果てしないもので、どこでやめていいのか

定時で帰っていいのか

周りを見渡してもまだみんな仕事をしているし・・・

 

というような状態。

 

よく、お役所って定時で帰れていいね、って思われることも多いんですが

自分がいた部署はそんな人があまりいなかったです。

 

とりあえず空気を読んで、周りに気を遣って

なんとなくさわりがないように・・・と行動しているうちに

いつしか残業が当たり前になっていました。

 

ある組織に入って仕事をしていたことで

今思えばそこの空気に染まっていったわけですが、

 

その中で、自分という人間の価値は

 

「自分という存在」ではなくて

自分が何をやれたか、どれだけできたか

 

ということになってしまっていました。

 

主体が自分という人間ではなくて、

「やったこと」。

 

これでは、誰がやっても同じで、

ただやれた量や質だけが問われることになる。

 

そうなるとつまり、

周りが期待することをできない場合には、

 

できないイコール=「価値がない」

 

となってしまう。

 

私の職場だけではなくて、

なんとなく日本全体にこの空気があるような気がします。

 

「使えないやつ」

っていうフレーズ、聞いたことありますよね。

 

それがまさにこの空気感を表していると思います。

 

最近でこそ、

みんな違って、みんないい

 

という空気があるけれども

 

それも、ある程度周りの人と同じくらいのことができて初めて

ある程度個性があっていいんじゃないの、と

捉えている人が多いように感じています。

 

特に、大きな組織ではその色が濃いし、

その空気の中にいると自分自身までがそう思い込んでしまう危険性がありました。

 

ところが、それがある日覆ったのです。

 

それは、自分自身がある日、その

「使えないやつ」になったからでした。

 

(続きます)

 

 

まだ何もわからずに社会人をしていた頃の若い自分。

この頃の自分に今の自分が何かを言ってあげられるとしたら、

 

あなたは「できる人」でも「できない人」でもないよ。

周りがどう思おうと、良いも悪いもないし、

できないことも感じることも、自分なりで構わない。

 

って言うと思うけど、

当時の自分、理解できるかなあ・・・笑。