80代の母が語った「生きる喜び」
母と話していたとき、母からこんな言葉が出てきた。「年取ると、生きる喜びをだんだん感じなくなる。それは夫婦揃ってる人でも同じやと思う」少しドキッとした。母が言う「生きる喜び」とは、何なのだろう。話を聞いていると、母は子育てをしていた頃のことを思い出していた。「あの子育てしてるときのような、あんなこう、生きる喜びみたいなもんは全然感じられへん」では、いつ頃から変わったのか。「いや、50、60ちゃうね。やっぱ70やな」その理由がおもしろかった。「50、60はまだ余生が長い。まだまだしたいこともあるし、欲も強い。お金も貯めたい、おいしいものも食べたい、いつもいつも素敵な服着たい、友達とおしゃべりしたい。まだまだ欲まみれ」欲まみれ。母らしい言葉だと思って、少し笑ってしまった。でも、考えてみれば「欲」は、生きる力とかなり近いところにあるのかもしれない。食べたい。着たい。会いたい。行きたい。何かをしたい。「まだこれから」がたくさんあるとき、人は自然に未来の方を向いている。それが70代、80代と年齢を重ねていくなかで、少しずつ変わっていったと母は言う。そして、こんなことも言った。「お母さん、遅かったわ。85でやな」続けて、「自分でも、まあまあ充実してたなと思う」と言った。私は、この言葉がとても心に残った。「生きる喜びをだんだん感じなくなる」という言葉だけを聞けば、少し寂しく聞こえる。けれど、そのあとに出てきたのは、「まあまあ充実してたな」という人生への振り返りだった。心理学から考えてみるこの母の話を聞いて思い出したのが、心理学者ローラ・カーステンセンの「社会情動的選択性理論」という考え方だ。人は、自分に残された時間が長いと感じているときには、新しいことを知ること、人間関係を広げること、将来に備えることなど、未来に向けた目標を重視する。一方、「残された時間には限りがある」と感じるようになると、目標の置き方が変わってくる。世界を広げることよりも、今ここで大切だと思える人や経験、感情的に意味のあることを選ぶようになるという。だから、年を取ることは、単純に「喜びが減っていくこと」ではないらしい。むしろ、喜びのありかが変わっていくとも考えられる。母が言った「欲まみれ」の時代には、未来に向かって伸びていく喜びがあった。子どもが育っていく。欲しいものがある。友達と話したい。おいしいものを食べたい。素敵な服を着たい。では、それらが少なくなったあと、人は何を「生きる喜び」とするのだろう。もう一つ思い浮かぶのが、エリク・エリクソンの生涯発達の考え方だ。エリクソンは人生の後半に、「自我の統合」と「絶望」というテーマが現れると考えた。自分の人生を振り返り、「あれもあった。これもあった。でも、これが私の人生だった」と引き受けていくこと。もちろん、後悔もあるだろう。失ったものもある。もう取り戻せない時間もある。それらを含めて、自分が生きてきた人生をどう受け止めるのか。母の、「自分でも、まあまあ充実してたなと思う」という一言を聞いたとき、私はそんなことを考えた。「素晴らしい人生だった」でもない。「悔いはありません」でもない。「まあまあ充実してたな」そのくらいの言葉で、自分の長い人生を眺められること。それは案外、すごいことなのかもしれない。そして私はアラカン。母が言うところの、まだ「欲まみれ」の年代にいる。確かに、まだやりたいことがある。知りたいこともある。人に会いたい。学びたい。何かを残したい。これから自分がどう生きるのかも、まだ考えている。いつか私にも、「生きる喜び」の形が変わるときが来るのだろうか。そのとき私は、自分の人生を振り返って何と言うのだろう。母のように、「まあまあ充実してたな」と言えるだろうか。母との何気ない会話から、そんなことを考えた。最後まで読んでくださってありがとうございます。