Blogを書けと言われたので「神様と相撲」の話。

 

 相撲は神事

 その言葉の通り、様々な点にそれが現れています。

 

 現在の相撲の原型は多分「武家相撲」になるのでしょう。

 そして時代が下った江戸時代に横綱制度が出てきます(細かい決まり事は時代時代で変わっていきます)。興行としての側面が強くなっていった、とも言えるでしょうか。

 が、神事としての相撲は今も続いていることに変わりありません。

 

 

 

 相撲の始まり。

 

 一説に寄れば「相撲は神話の時代より続いている」とか。

 良く耳にするのは〈垂仁天皇七年・紀元前23年 七月七日に野見宿禰(のみのすくね)と當麻蹶速(とうまけはや)の戦いが相撲の起源である〉と言う話です。

 

 大和国の当麻邑・現奈良県葛城市當麻を統治していた當麻蹶速は強力を自慢していました。近隣には並び立つ剛の者がいなかったようです。

「生死を問わぬ勝負をしたい」という當麻蹶速の願いを聞いた垂仁天皇は、出雲国に住む野見宿禰を呼び寄せ、二人を戦わせます(天覧試合ですね)。

 當麻蹶速と野見宿禰は蹴りを主体とした格闘で戦いました。

 當麻蹶速の蹶速は蹴りが早い・得意であることから付けられた名とも言います。

 そんな當麻蹶速に対し、野見宿禰は同じく蹴りで対抗した、ということなのでしょう。

 野見宿禰の蹴りが當麻蹶速の肋骨を折りました。

 次いで、倒れた當麻蹶速の腰骨を踏み折り、絶命に至らしめます。

 結果、當麻蹶速が統治していた土地は野見宿禰のものになりました。

 そして、野見宿禰は土師氏の祖となったのです。

 

 

Tips!:野見宿禰の〈野見〉は野を見る、陵墓を作る野を見定めるを意味しているとか。

また陵墓へ権力者を埋葬する際において殉死(主君の後を追って死ぬこと。この場合は、権力者が死した後、その黄泉の旅路へ同行させ世話をさせるために陵墓へ生き埋めにする者らのことを指す)させる人々の代わりに埴輪を発明したのが野見宿禰とも言われている。よって豪族・土師氏の祖とされる。ところが名の下りは後付けであるかもしれないとか。だとすれば野見宿禰の本当の名前はいったい何なのか。

 そして當麻蹶速の當麻の名が残る葛城市當麻の當麻にもいろいろ言われたある模様。今回は触れないこととする。

 

 

 そう言えば埴輪に力士が存在します。

 上半身は裸、独特の髪型でたくましい姿をしています。

 古代の力士も寸鉄帯びず、我が肉体だけで闘っていたのでしょう。

 ただ、この野見宿禰と當麻蹶速の戦いは現代の相撲と趣を異にしています。

 どちらかと言えば、一対一のノールールデスマッチです。

 蹴りを主体にしたとありますが、それはもしかしたら當麻蹶速の得意技に対し、野見宿禰が「吾もそれに合わせよう」と力の差を誇示しようとしたのかもしれません。

 

 蹴りを主体としたと書きましたが、両腕をつかみ合い、お互いの動きを封じてから短距離で直線的に蹴り込む動きだった可能性があります。

 更に当てた部位を蹴り潰す・折るような「如何にして相手に大ダメージを効率よく与えるか」、平たく言うとエグい技術の応酬だったのかも。

 この辺りはいろいろ考えたことがありますが、長くなるので割愛。

 

 

 古事記にも。

 

 古事記にも相撲の起源とされる戦いが記載されています。

 そう、「国譲り」の場面における、出雲・大国主神側の建御名方神(タケミナカタノカミ)と高天原・天照大神側の建御雷之男神(タケミカヅチオノカミ)の戦いです。

 

 簡単に言えば、高天原側が出雲側へ向けて、国を譲れと出向いている状況です。

 建御名方神は千引きの石(!)を抱えて、建御雷之男神に勝負を挑みます。

「吾がお前の腕を先に取るぞ」と。

 手を取る、手を乞うわけで、これは手乞いですね。

 手乞いは相撲の古い別名で、素手の戦いを意味します。また当時のルール・戦いの作法の一端が垣間見え、興味深いシーンです。

 方や建御雷之男神は自身の手を氷に変え、次に剣とし掴めなくしてしまいます(建御雷之男神は剣の神でもあります。登場シーンも〈波間に逆さに立てた剣の上に胡座を掻き、大国主神へ国を譲れと伝えた〉のです)。

 攻め手が逆転し、建御雷之男神が建御名方神の腕を〈葦の茎のように取って〉に投げ飛ばしてしまいました。

 

 

Tips!:原文では「若い葦を取るが如く、掴みひしぐ」なので、どうも「掴んで押しつけて潰す」的なニュアンスがある模様。腕を握りつぶし、若い葦を抜くように腕を、という表現をするケースも散見される。どちらかと言えば腕を抜くと言うより、腕関節を取って破壊したか、握力で握りつぶしつつ投げを打った、という表現かも知れない。

 

 

 この神話の前後はカットしますが、これが相撲の起源(また柔/柔道の起源)であるという話なのですね。

 手を乞うたりしてますし、一対一かつ素手の組み討ちですから、確かにそうとも考えられます。

 また、これは個人的話ですが、古事記が成立した辺りの日本古来の格闘術の断片が表現されているとも考えられるのではないか、と。

 大事なのは「古事記が成立した辺り」ということです。

 多分、国譲りの時代だともう少し違う格闘術だった可能性はありますし、剣など含めて武器運用などが絡んでくるはずですから。

 

 しかし千引きの岩など、どうも呪術的側面も見え隠れしているシーンです。

 古代の呪術と言えば……というのは、また別の機会に。

 

 

Tips!:千引きの岩とは〈千人の力で引けるほどの重い岩〉を指す。

また境目に置かれる岩とも(境を示す岩)。

黄泉比良坂でこの世と黄泉の境となったのもまた、千引きの岩である。

黄泉比良坂は出雲の伊賦夜坂(イフヤサカ)である……とすれば、建御名方神が抱えてきた岩はどのような素性を持ったものだったのだろうか。

伊賦夜坂から持ってきた物であるなら、何らかの意図があったに違いない。

この辺りはいつか小説か何かの形で問いかけることが出来たら、と思う。

 

 

 

 

 もう少し踏み込んで考えてみる。

 

 神々の争い、というか、意見の通し合いに際し、よくウケヒが行われます。

 ウケヒは宇気比や誓約、祈などと書きまして、一種の占いです。

「もしこれを行いて、○○が○○となったら、○。□□なら□である」と前もって決めてから、何らかの行動を起こします。その行動の結果如何で占うのです。

 

 この国譲りは戦いですから、宇気比の描写はされていません。

 単純な戦争であった、と言えます。

 ただ、もしかしたら手乞いが行われる前に、その勝敗如何による宇気比がなされていても不思議ではないような気もするんですよね。ただ書いていないだけで。

 

 考えてみれば日本の各地方の祭りによくあるんですよ。何かと何かの勝負を行い、その勝敗でその年を占うものが。宇気比みたいですよね。

 手乞いもそのような場面で行われたケースがあったようです。

 それこそ神事相撲にはそのような側面が強く打ち出されています。

 確か、愛媛県の大三島・独り角力は「稲の神が勝つとその年は豊作である」ということで、見えない神と人が相撲を取る神事があります。当然人は上手く負けて、豊作を祈願するのです。

 

 また宮中行事で相撲節会が行われていました。

 神事としての側面から、軍事訓練の一巻と変化していったものです。野見宿禰が當麻蹶速と闘った7月7日(旧暦)に行われていましたが、次第に廃れていきました。

 

 同時に余興としても相撲を取らせていた記録もあります。

 中には南九州の隼人族が相撲を取ったと残っています。

 現在も南九州に残る秋の祭りで〈相撲を取る〉というものがありますから、隼人族には優れた力士が多かったのかも知れません。

 

 

 出雲と相撲。

 

 

 で、ここで振り返ってみましょう、

 国譲りでは、高天原からやって来た建御雷之男神が、出雲の建御名方神に勝ちます。

 垂仁天皇期には、大和国の當麻蹶速が出雲からやって来た野見宿禰に敗れます。

 

 共通点は出雲です。

 妄想の翼を広げてみましょう。

「出雲の豪族や民は国譲りのときのことを覚えており、長い時間を掛けて武を極めていった」

 その武の結晶が野見宿禰とその一族であった、と。

 野見宿禰一族は勝利し、大和国の一部を支配下に置きます。

 国譲りの意趣返しがある意味叶った訳です。

 

 そもそも出雲は建速須佐之男命の系譜に連なりますからね。

 シコオ(強くたくましい男)も沢山生まれたのではないでしょうか。大国主神のような。

 また前述の通り隼人族など、中央から遠く離れた場所に武芸が優れた者が多く生まれているようにも思えます。

 どうしてなのか。その理由を考えると、実に面白くなってきたりなんかしちゃったりして。

 

 おっと。

 大和のヲウスノミコト/倭建命も建御雷之男神みたいな剛勇を誇る神さまなんですよね。

 それこそ、兄・オホウスノミコト/大碓命を〈掴みひしいで、手足を折って、蔦コモに包んで投げ捨てた〉のですから。……掴みひしぐ、って建御雷之男神もそうでしたよね。

 ん? と言うことは建御雷之男神から延々と王の系統に伝えられていた武技があったのかも知れませんね(と言っても○○じゃないと思います。はい)。

 日本の至る所にシコオは沢山居て、優れた武技やノウハウがあった、ということなのでしょう。

 

 

 

 神様と相撲。

 

 神様と相撲から、いろいろ妄想が飛びました。

 いろいろ細かい部分まで突き詰めた書き方をせず申し訳御座いません。

 

 現代の相撲も素晴らしいですが、古代の相撲、古代の武術などに目を向けて見ても面白いものです。本来はどういう形であって、そこからどう変化していったか。

 そして神話の中で、神々とどのような関係があったか。

 

 10月は出雲に神様が集まると言います(旧暦なら11月)。

 また出雲大社や野見宿禰神社は相撲にも関係が深いのです。

 この秋、足を運びつつ、遠く古代の相撲に思いを馳せてみるのも、一興ではないでしょうか。

 

 

 

 

 ……んで、野見宿禰=第十三代出雲國造・襲髄命だとか。

 カネスネノミコト。

 襲は熊襲の襲。襲は荒々しい、という意味にもなるとか。

 しかし重ねるという意味もあるのです。

 そして髄は臑も表します。

 あれ? 當麻蹶速のように足の強さとか蹴りの技芸を表している……?

 謎は深まるばかりです。