出るのです、「熊本怪談」。

 

 

 9月29日に出ますよ、「熊本怪談」!


 熊本県の本です。

「47都道府県 本当にあった怖い話」を経て、「南の鬼談」から始めたスタイルを突き詰めていった「仙台怪談」のライン上にある一冊です。

 とはいえ、同じ事を繰り返すのはあまり得意ではないので、いろいろやってます。

 なんていいつつ、毎度お馴染み「隠されたコンセプトやテーマが大量にぶち込まれている」ということは変わらず(※スタッフだけは全貌を聞いているので知っています)。

 

 小説とは違う方法論で編まれていますが、これもまたわたくし・久田樹生の一面としてご愛顧頂ければ幸いです。

 

 

 河童さんのこと。

 

 妖怪、ひいては河童さん好きのわたくし。

 何故ならば、子供の頃から妖怪や河童さんの話を聞かされたり、ゆかりの地に連れて行かれたり、他諸々な英才教育(?)を受けていたからです。

 それもあってか、遠野から島までガッツリ河童を追いかけたこともあります。

 遠野の河童さんは赤く、左甚五郎の人足をしていた人形から転じた河童さんもおり、島では河童さんに似た存在が跋扈する……と、河童さんも千差万別なんです。

 そもそも「河童とは神が零落したもの」や「精霊的存在」と語られますが、それと同時に「生物として存在している」とも。

 いや、本当に追いかけがいのある存在です。河童さん。


 当然、熊本怪談でも河童さんについて書いております・
 他県になりますが河童さんの死体遺棄現場(?)・足跡調査もしていますからねぇ。
 あ。河童さんの死体と言えば、木乃伊(ミイラ)です。
 ところがその正体は〈梟や木菟系の鳥類の木乃伊〉である、ということが多々あります。
 嘴が落ちた後に乾燥した姿を想像して頂けると、ヒザポンかも知れません。
 あと、河童さんの手の木乃伊も猿の手を加工したものとかもあるらしいのですよ。と言いつつ、それだけではない! とわたくしは思います。
 それに、私が調査した河童さんの死体は……木乃伊ではなく、まだ死にたて(?)の状況だったようですので。
 残念ながら遺体は消えてしまいましたが、今も河童さんが、それも精霊系統ではない存在として生きている証左となったように思います。

 

 

 熊本怪談に書かなかった河童さんのこと。

 

 今回は「本に書かなかった河童さんのこと」を中心に書きます。
 そうです。「八代市に河童渡来の碑がある」ことを、熊本怪談で取り上げました。

 

 ※河童渡来の碑を川を入れて撮影。

 

 河童が熊本県に渡来したという伝承は以下の通り。

【九千坊という河童が揚子江(長江)から、多数の同族を率いて九州の熊本へ移り住んだ。時を経て数が増えるに従い、人間との軋轢が生まれ、遂には熊本藩・初代藩主〈加藤清正〉公が猿の軍勢を率い「河童共の駆逐」に乗り出す。争いの果て、河童たちは敗走、久留米の筑後川に移り住み、水天宮(この水天宮では安徳天皇と平清盛と時子二位局とを祀る。筑後川治水の神)を護る+使いとして生きることを誓った】

 ここで面白いなと思うのは、九千坊たちが当初は完全に生物としての体裁を保っており、後に改めて精霊のカテゴリに入れられたことでしょう。
 また猿は河童さんたちの天敵とされていますが、猿=申で方位的な呪術を使った、とも考えられるような気がしないでもありません。
 と同時に、猿=猿猴(河童さんの一種)だと考えるなら、同族同士の争いになりますから、何だかいろいろ調査する必要が出てきます。

 因みに加藤清正公が九千坊にマジギレした切っ掛けのひとつに「自分の小姓を殺されたから」ってのもあります。おお。でも似た伝承は別でもあったな……。

 そもそも、九千坊たちに関してだけでもかなりの伝承が残っていますから、それぞれを全て取り上げて纏めるとなれば、一冊じゃ済まない可能性が高いですねー。
 単に「河童が九州に来たよ。渡来碑あるよ」でも十分興味を惹くことなんですが、深掘りできる伝承であることに間違いありません。
 ともかく、九州の伝承にある河童のうち、九千坊たちが一大軍勢・勢力であった、と捉えておくとよいかと存じます。はい。

 河童さんについては、熊本怪談にちょいと書いております故、そちらもご参照下さい。

 

 

 

 河童渡来の碑について。

 

 ここからが「書かなかったこと」の本題になっていきます。

 

 河童渡来の碑は、球磨川支流の前川河口にほど近い場所にあります。
 住所で言えば、八代市本町2丁目
 九千坊たちがやってきたのは仁徳天皇の御代ですから、古墳時代(仁徳天皇【大鷦鷯尊:オオサザキノミコト】は即位年が西暦394年)ですね。

 

 渡来碑は二つの石を組んで造られています。

 

 ※河童渡来の碑の裏側。珍しい画像かも。

   石が二つ組み合わせてあることが分かる。

   コンクリートに小石などを混ぜ合わせたもので土台が造られている。

 

 元々橋に使っていたものとか。これらの石を「ガワッパ石」と呼びます。
 ガワッパは河童さんのことです。
 ガワッパ石は、懲らしめられた河童さんたちが「この二つの石が磨り切れるまで悪させんけん。代わりに年に一度祭りばしてくれんね?」という契約の石でもありました。
 現在の碑の形になったのは、昭和29年(1954年)。
 祭りは年一回〈オレオレデーライタ川祭〉として行われています。

 しかしながら「橋石として、どのような箇所に使われていたのだろうか」というところが気になってきますよねぇ。
 木製橋なら橋脚の土台として水中に使います。
 石橋のケースだと、この大きさですから土台か人々が渡る部分になりそうです。
 ……だとしたら、時が経てば摩滅するんですよ。どう転んでも。
 水流で削られる。人の足や渡る牛馬の蹄で磨り減る。
 だから、いつか河童さんとの契約は解除される可能性が高い。
 しかし昭和の時代に橋から外して渡来碑にしてしまった。
 ということは、余程のことがないと石は摩り切れない訳でして。

 知らぬうちに〈契約が成就されることはないよう作り替えてしまった〉と言い換えても過言ではない気がします。
 だから、河童さんたちはまだまだ悪さ出来ないのです。
 これを狙って渡来碑を建てたとしたら……人間側の狡猾さを思い知らされます。

 

 

 

 

 オレオレデーライタとは?

 

 

 そして「オレオレデーライタ川祭」ってのがクセ者でして。
 オレオレデーライタは漢字表記だと「呉人呉人的来多」になるんだとか。
 呉の人、呉の人、沢山来たよ(沢山居るよ)、でしょうか。


 おお、そういうことだったのか、ってところで少し考えてみます。

 河童さんたちが熊本へやって来たのは、古墳時代。
 古墳時代だと漢字は俗に言う呉音発音で読まれていたわけですが、河童さんたちが渡来してきたときもそうだった、と仮定して話を進めます(呉音は平安時代中期前に伝わっていた読み。単に呉国の発音ではないらしく、いろいろなバリエーションがあった。元々は和音とも呼ばれていたようだ。ここでは辞書の呉音を採用することにする)。

 ぶっちゃけると最初に出てくる〈呉人〉。
 これは今の北京語(かな?)だと、ウーレンになるはずです。
 呉はウーですし、人はレンですからね。
 単純に呉音なら「グニン」、漢音なら「ゴジン」ですね。
 オレに近いのは、ウーレン、でしょうか。
 だとしたら、オレオレデーライタは北京語(※呉周辺の呉語との関連はここでは目を瞑る)になりそうな気がしてきます。
 的はダですし、来はライ。多はダォですので、確かに「ウーレン ウーレン ダ ライダォ」と読めばオレオレデーライタに近いですよね。


 オレオレデーライタ=「呉の人、呉の人、沢山来たよ(沢山居るよ)」説が有力であることがこれで理解できます。

 この「オレオレデーライター=呉の人が沢山来た」説を前提とした、もうひとつの渡来説があるようです。

 

「渡来してきたのは河童さんではなく、呉国よりの移民であった」

 
 河童=海外の職能・技能集団であり、知識と技術をもたらした呉の人たち、というものです。
 例えば、河童の軟膏ってありますよね。傷がすぐに治る塗り薬。
 これが海外の薬師(くすし)の知識を物語るものと、と言うわけです。
 あと、河童は相撲が得意ですが、これもまた海外の武術に繋がるような気もします。あちらにも組み討ちはありますから。

 そうか。河童=呉の人だったのか。
 とか言いつつ、生物としての河童が八代市に渡ってきた説も大事にしたいのです。

 そもそも、オレオレデーライタって本当に「呉人呉人的来多」なのでしょうか。
 無理矢理和音・呉音で読んだ場合、ウーレンという北京語発音ではなく、グニンに近くなる、と前述しました。
 呉音なら「グニン、グニン、チャクライタ」
 チャクの後、ライタはライタまんまですから、呉音だと考えても差し支えなさそうです。
 ただ、グニン、グニン、チャクの読みは遠い。
 呉音で「デ、或いはそれに近い発音」は数多くあります。伝とか、纏とか。
 オも同じく、於など多岐にわたります。
 沢山来た=ライタとしても、オレオレデは別の意味かも知れないなと思わざるを得ません。否。古代の日本語は漢字表記より音が大事です(音に漢字を当てはめるパターン)から、もしかすると全てが他の意味を示している可能性も考えられます。

 

 また、これは「誰の目線で語られた言葉なのか」。

 沢山来たよ、居るよ、なら元から住んでいる熊本の人達側の言葉ですよね。

 でも、何故わざわざ別の国の言葉に直しているのでしょう。

 相手に伝えるためにと考えた際、「呉人が沢山来たなあ、居るなあ」という発言の真意とは。

 

 もしかすると古代の熊本特有の言葉が変化したものが「オレオレデーライタ」とか……?

 振り返ってみると同じく熊本の妖怪・油ずましの記録にあった言葉に「ここにゃ昔、油瓶さげたん出よらいたちゅぞ(ここでは昔、油瓶下げたのが出ていたと言うぞ)」とあります。

 これは古代の言葉ではないですが、ヒントに繋がる感じがしますよね。

 出よらいたちゅぞ、から と言うぞの部分〈ちゅぞ〉を削除すると【出よらいた】になります。

 出よらいた? でよらいた。デヨライタ。ここから変じてデーライタ?

 だとすれば。

 オレオレ 出よらいた = オレオレ 出ていた

 オレは俺? 熊本県の方言で一人称に「オレ」「オル」があるんです。

 オレオレ(オルオル)デヨライタ = 俺、俺、出よらいた

 ……となると、河童さん側の言葉として捉えることが可能になります。

 ガワッパ石による封印に際し河童さんたちが「オレオレ デヨライタ」――「俺らは(悪さをしに川へ)出ていた(が、これからはそんなことをしません)」などの、誓約・契約の言葉を述べた、と読み取れないこともないですよね。

 それを河童さんたちが忘れないよう、年1の祭りの名を「オレオレデーライタ川祭り」とした……なんて考えるの飛躍しすぎでしょうか?


 この辺りは門外漢の私、かつよく調べもしないで言っているただの戯れ言ですから、あまり本気にしないで頂きたいのですが……それでも、疑問は残りますよね。

 熊本県に渡っていたのは、呉の人たちなのか。
 それとも河童さんたちだったのか。

 はたまた、別の存在だったのか。

 オレオレデーライタは呉の人が沢山居るを指すのか、それとも契約の言葉だったのか。
 未だ謎は解けぬまま、現代まで残っています。

 もし熊本県を訪れることがあれば、是非河童さんについて考えてみてください。
 きっと面白いことに出会えると思いますよ。

 

 しかしだ。本編に書いておくべきだったかも。この内容。

 

 ボーダレス・ぼっち Musth 久田樹生