ぼんやりテレビを見るともなく見ていると「伊勢へ参らば朝熊を駆けよ、朝熊駆けねば片参り」と出てきました。
平たく言うと〈(伊勢)神宮を詣でるなら、朝熊岳金剛證寺まで詣でよ。じゃなきゃ、片参りになるんやで?〉っていう意味です。
※駆けよ、って修験道を思わせますね。大元が真言宗(後述)だから?
その後、廃仏毀釈で云々、という談話が流れました。
ほう。そうなのか。
と私は思いましたが、同時に疑問も湧きます。 「伊勢神宮の創建年って、金剛證寺創建年より早くなかったっけ?」
ってことは。ちょっと妄想じみた思考遊びに行ってみます。
まず、伊勢神宮の創建年ですが……ってその前に、ひとつ。
ここでは伊勢神宮内宮をベースに考えます。
外宮は内宮の後に創建されたはずですから。
内宮創建は垂仁天皇期となっています。
三世紀から四世紀に存在していたであろう、十一代天皇です。
その垂仁天皇二十六年に内宮は創建されました。
※外宮は二十一代天皇・雄略天皇二十二年です。
ただし五世紀末から六世紀初期など、創建年の説はかなり多く存在します。
考古学的に言えば〈大和王権が伊勢神宮を王権祭祀開始時期は六世紀末ではないか〉という説もありますもんね。
うーん。この辺りを列記すると分量が多くなるので割愛します。
更に斎王・斎宮の歴史を考えると、第十代天皇:崇神天皇の時代(※天皇の傍で神鏡を祀るのは畏れ多いことだったのではないか、と皇居の外へ移されたことに端を発する)になりますよね。
だとすれば〈斎王・斎宮は崇神天皇時代には成立しており、鏡の移動後、祭祀は十一代垂仁天皇へ引き継がれたこと〉になります故。
極個人的には「古墳時代より前、伊勢周辺王族や豪族が祭祀していた太陽神及びその巫女の神事がベース」で後に「崇神天皇期に斎王・斎宮の太陽神へ奉仕する神事の始まりが発生。神鏡及び太陽神を祀るにふさわしい土地を選んだ」。以降「垂仁天皇が祭祀を引き継いだ形」となり、後年「大和王権が天照大神信仰を持ってきて、王権祭祀に加えた」のではないかと想像します。
まあ、この辺りは妄想なので、時間と共に変わると思います。
ちゃんと調べていないし。
で、金剛證寺ですが、弘法大師・空海に関係しています。
伝・六世紀半ばに創建とありますが、弘法大師が真言密教道場として中興したのが八百二十五年で、千三百九十二年に臨済宗(禅宗)へ改宗されました。
ってことは「伊勢へ参らば朝熊を駆けよ、朝熊駆けねば片参り」になったのは、やはり伊勢神宮が創建されてからずっと後、または神仏習合後に(少なくとも)なるわけですね。
ならば「伊勢へ参らば朝熊を駆けよ、朝熊駆けねば片参り」は少なくとも、伊勢神宮の始まり(当初の信仰)の後に生じたものになります。
※朝熊山そのものが、伊勢周辺豪族や王族から神として信仰されていた、と仮定したとしても、別の神であったと考えられます。
だから、「伊勢へ参らば朝熊を駆けよ、朝熊駆けねば片参り」は、お詣りの方法のひとつであり、その通りにしなくとも片参りにはならないと考えても差し支えないと思います。
元々は独立した信仰だったわけですから。
もちろん、お詣り方法は自由に選んで構わないですしね。
強迫観念的に「あそこへ詣でて、次にあそこへ……。そうしないと御利益が得られない!」と考えるより、まず訪れた場所、御神仏にきちんと畏敬の念を持ち、詣ることを第一にしたほうが楽しいですよ。っていうか、一ヶ所でノンビリしたくなりますしね。寺社は心地よいですし。
んで。 寺社へ詣るときって、けっこう勝手に、詣る場所・順番ってお膳立てされるような気がします。偶然が重なって、ですが。
だからあんまり悩まずお詣りしてもいいんじゃね? って感じです。
その寺社へご挨拶したいなら、ただ足を運べばよいのですよ。
そして「わあ、ええなあ!」でいいんです。多分。
前も書きましたが、神社やお寺へ行くと、行き帰りに楽しいことが起こりやすいように感じます。面白い出会いがあったり、美味しいものを食べられたり。
目を三角に吊り上げてお詣りするより、まったりのんびり、がお詣りのときにお勧めです。予定をガチガチに決めていると、楽しいことを見逃しますから。
まず寺社を訪れることそのものが、お詣りの第一歩です。 エンジョイ!
……でねぇ。 伊勢神宮の祭神って、天照坐皇大御神(あまてらしますすめらおおみかみ)なんですが、これ、神職が神前で名を唱えるときに口にする名とか。
なんだか面白いですよね。