「主権回復記念日」に… | 尾張エクセルの「日々精進ブログ」

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「日本国との平和条約(Treaty of Peace with Japan、昭和27年条約第5号)」は、
第二次世界大戦による「アメリカ合衆国をはじめとする連合国諸国と日本国との間の戦争
状態」を終結させるため 両者の間で締結された平和条約である。
本条約はアメリカ合衆国のサンフランシスコ市において署名されたことから、「サンフラ
ンシスコ(平和)条約」・「サンフランシスコ講和条約」や「対日講和条約」ともいう。
◎内容・解釈の要旨を紹介する。 
・日本と連合国との戦争状態の終了(第1条(a))
・日本国民の主権の回復(第1条(b))
・日本は朝鮮の独立を承認。朝鮮に対する全ての権利、権原及び請求権の放棄(第2条(a)) 
・日本の台湾・澎湖諸島及び南沙諸島の権利、権原及び請求権の放棄(第2条(b))
・主権を持っていた千島列島・南樺太の権利、権原及び請求権の放棄(第2条(c))
・南洋諸島の権利、権原及び請求権の放棄(第2条(d)(f))
・南西諸島や小笠原諸島を合衆国の信託統治に置くことの承認(第3条)
・賠償は役務賠償のみとし、賠償額は個別交渉する(第14条(a)1 など)
・日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷(例と
 して南京軍事法廷や、ニュルンベルク裁判)の判決を受諾(第11条)
※日本の「領土」についてコメントをつけておこう。
「ポツダム宣言」の8項を受けて規定された条項である。日本には、領土の範囲を定めた
一般的な国内法が存在せず、本条約第2条が領土に関する法規範の一部になると解される。
国際法的には、「日本の全ての権利、権原及び請求権の放棄」とは、「処分権を連合国に
与えることへの日本の同意である」とオックスフォード大学イアン・ブラウンリー教授は
解釈している。
例えば「台湾」は、連合国が与えられた処分権を行使しなかったために 「条約後の主権は
不確定」とし、他国の黙認により中国の請求権が凝固するという可能性を指摘している。
1952(昭和27)年4月28日、「サンフランシスコ講和条約」が発効して、我が国
は約7年間に及ぶ占領から解放されて、主権(=独立)を回復した。
 
風さゆるみ 冬は過ぎて 待ちに待ちし 八重桜咲く 春となりけり
独立回復のときの昭和天皇の御製(和歌)がいくつかある。そのうちの一つが上記の歌だ。
昭和天皇は、占領下の七年間を「風冷える冬」であって 「風の冷たい冬だ」と認識をして
おられたわけである。
「早く桜が咲かないかな、咲かないかな 、なかなか咲かない、漸くのことで八重桜が咲く
春となった…」と。
 
こういう歌であろう。それを当時の日本人は忘れていたし、政治家も忘れていたのである。
もうひとつにこんな歌がある。
 
国の春と 今こそはなれ 霜こほる 冬にたへこし 民のちからに
 
「独立記念日」は、世界の国にあるが、我が日本国には存在しない。日本の独立を回復した
4月28日を「主権回復記念日」として、祝い広めていきたい
ものである。
72年前の今日~1952(昭和27)年4月28日は、「サンフランシスコ講和条約」が
発効し、大東亜(太平洋)戦争の敗戦国であった日本が独立を回復した 「主権回復記念日」
なのである。
 
閑話休題。日本が、戦後79年になる今年まで不作為であったことがいくつかある。
その最大ポイントとは、来たる5月3日で施行76年となる「日本国憲法」を、一度も改正
しなかった
ことがあげられよう。
国会では、コトここに至っても、「憲法審査会」はまともに開催されないままで、緊急事態
条項や改憲論議はされずに放置されてままである。
改憲機運は全く高まっていない
「憲法審査会」の不作為を、国民はおおいに糾弾すべきだろう。特に立憲民主党の姿勢には
小生は、怒りさえも感じている。
「改憲せず」の選択が果たして「確固たる意思の表れ」なのか、それとも「現状への安住な
のか
」を考えるヒントになるのが、2000年末にイタリア訪問をした超党派の衆院憲法調
査会;視察団に、作家の塩野七生氏が語ったこんな話である。
 
“「サンフランシスコ講和条約」の際に憲法改正しなかった以上は 「憲法9条を変えるとか、
連合国軍総司令部(GHQ)の押しつけだから…」という改正理由は、説得力を全く失った。
法を普通の『法』に戻す」ことのみを理由に、憲法は改正すべきだ
ユダヤ法の「神聖不可侵」ではなく、ローマ法の「必要に応じて変える」考え方が大事だ。
なぜなら、人類は 十字軍・異端審問・魔女裁判・ナチス・神国日本・共産主義などが「神聖
不可侵」になった途端に、凄まじい被害を受けたからだ。”
 
確かに改憲機運は、1950(昭和25)年の「朝鮮戦争勃発」と「警察予備隊発足」から、
1952(昭和27)年の「講和条約発効」にかけて盛り上がり、世論調査では「改正賛成
が4割で、反対は2割弱だった」という。
 
だが、当時の吉田茂首相は「軽武装・成長路線」で改憲を否定した。鳩山一郎首相は 内閣に
憲法調査会を設置するなど、改憲への環境整備から着手したが、国会は動かなかった。
憲法改正を発議することができない首相が「憲法を変える、変えない」と発言をして、発議
の権能を持つ国会は議論そのものを避ける奇妙な構図
があった。
確固たる意思で護憲を求めた人々も多かった反面、憲法を神聖不可侵と考えて、思考停止に
流された人々も相当に多かったのではないか。
 
「独立した日本国」は、本日から73年目という新たな段階に入る。「憲法を神聖不可侵と
する見方」は減ったものの、国民が「凄まじい被害」を受けることがないように、より柔軟
で幅広い憲法論議が望まれる
のではなかろうか。