「大東亜戦争」と「太平洋戦争」を考える | 尾張エクセルの「日々精進ブログ」

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本日;12月8日は、76回目の「開戦記念日」である。

1941(昭和16)年12月8日未明(日本時間)に、日本海軍がハワイ・

オアフ島にある真珠湾(パール・ハーバー)の米軍基地を奇襲攻撃し、

3年6か月にも及ぶ「大東亜戦争対米英戦(太平洋戦争)」が勃発した

「開戦記念日」なのである。ご存知であろうか?

 

12月8日の「真珠湾攻撃」、及び「マレー上陸作戦」後の12月12日

東條内閣での閣議決定で「大東亜戦争」の名称と定義を定めた。

大日本帝國政府による「宣戦布告」は、当初は「米英;二国」に対して

行われたが、この閣議決定では、「情勢ノ推移ニ伴ナヒ、生起スルコト

アルヘキ戦争」を、「支那事変ヲモ含メテ、大東亜戦争ト呼称スル」と

なっているので、支那事変(=日中戦争)、対蘭戦、対ソ連戦をも、

「大東亜戦争」に含むのである。

なお 「大東亜」とは、「東南アジアを含む東アジア」を指す地理区分

である。

一方で、「大東亜戦争」は 「太平洋戦争」と同義であると認識される

ことも多い。これは、閣議決定にある「支那事変ヲモ含メ」という文言

を如何に解釈するかという問題で、「大東亜戦争」の中に、1937年

(昭和12年)7月7日からの「支那事変」全期間を含むと考えるのか、

1941(昭和16)年12月8日以降の中国大陸における戦闘のみを

含むと考えるかの違いによって生起しているのであろう。

 

戦時中の日本では、対米英 及び 対蘭・対中戦争を「大東亜戦争」と

呼称していた。この呼称は 「今次の対米英戦は支那事変をも含めて

大東亜戦争と呼称す。大東亜戦争と呼称するは 大東亜新秩序建設

目的とする戦争なる事を意味するものにして、戦争地域を主として

大東亜のみに限定する意味にあらず…」と情報局から発表され この

戦争は、アジア諸国における「欧米の植民地支配の打倒を目指す

ものであると、規定した。この方針は1943(昭和18年)11月開催

の「大東亜会議」で「再確認」がなされている。

 

他方では、米英などの連合国においては、戦時中から「第二次世界

大戦太平洋戦線」と呼称されていた。

 

ところが、1945(昭和20年)8月の日本進駐後に、「連合国軍最高

司令官総司令部(GHQ/SCAP)」の「民間情報教育局(CIE)」が

中心となって、軍国主義・全体主義・極端な国家主義等を日本から

徹底的に排除する政策を行ったのである。その一つが、12月15日

付の日本政府に対する覚書;「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ

保証,支援,保全,監督並ビニ弘布ノ廃止ニ関スル件」(=「神道指

令」)である。これによって日本語としての意味の連想が、国家神道,

軍国主義,国家主義と切り離せないと判断されて、「大東亜戦争」は

「八紘一宇」などの用語とともに公文書で使用する事が禁止された

 

さらに、1945(昭和20)年12月8日(開戦4周年)からは、新聞各

紙が、「CIE」作成の「太平洋戰爭史」の掲載を開始して、さらに翌日

からは、日本放送協会(NHK)から「眞相はかうだ」のラジオ放送が

開始されて、「大東亜戦争」という用語は 強制的に「太平洋戦争」に

置き換えられていった

 

また、「GHQ」では 出版物についても検閲を行って、「大東亜戦争」

表記の排除を徹底した。占領政策の前期には、あらゆる出版物が、

「事前検閲」を受けて「大東亜戦争」はすべて「太平洋戦争」に書き

換えられた。

 

かくして、「大東亜戦争」と「太平洋戦争」とは、混同されてしまって、

今ではその区別も出来なくなったようである。

 

「開戦記念日」にあたって、小生のこんな想いを綴ってみた次第だ。