Nゼミ 第84回勉強会(2023.12.15)レジュメ
 <すらすら読める徒然草 著:中野孝次>講談社文庫

 

 

 


あんばしさんによるレジュメ

9.よき趣味、悪しき趣味
第三十五段 下手でも自分で書け
→第百五十段の「下手でもいい」―何か芸能を身につけようとする人は、下手でも上手にまじって身につけた方がよいということ―に通じる。

第七十二段 多すぎるのは見にくい
→「ゴテゴテと道具が多く置いてある」「人と会ったときべらべらと口数の多いの」などはわかるが、「家の中に子だの孫だのが多いの」は?

第七十八段 流行をもてはやすな
・その場に初めての人が居合わせるようなとき、日ごろ口にしている自分たちの仲間うちだけに通じる特殊の言葉や、特殊の物の名などを知っている連中が、…人の心のわからない、品のない人の必ずすることだ。

第八十一段 しっかりした品物がいい
・大体、その人の所有する道具類を見ただけで、その持主の心が劣って見え、幻滅することはよくあるものだ。…古風であって、しかも少しも仰々しくなく、費用もかからず、しっかりした、タチの良い品物がいいというのだ。

第八十二段 ととのわぬがよし
・弘融僧都「物を必ず全部一揃えにきちっと整えようとするのは、つまらん人のすることだ。揃ってなくて不揃いのほうがかえって面白い」
・すべて、何事によらず、物事の隙なく完全に整っているのは、悪いことだ。やりかけて、やりかけのままの所の残っているのこそ、見て面白く、ゆったりとのびのびとした心持ちになる。

本情よりは余情、真情よりは幽玄
P228
第百三十七段より「完璧にととのったもの、欠陥のない美をよしとするのではなく、むしろ完璧から少しずれたところにより味わい深い美を見出すもの」
「満月を目の前で見るばかりがいいのではなく、家に籠って想像するときにも、なんともいえぬ味わいがあると、心眼に見た月の美を主張する。」
→兼好法師の美的価値観は次章で詳述
P231
日本の家屋はやたらと洋風が多くなって、どの部屋も家具で詰っているというのがほとんどだ。その点昔の日本家屋は畳敷きで、室内をがらんとさせておいたから、その方が上品だった
→上品さと実用のギャップを感じる。

第七十九段「片田舎よりさし出たる人こそ」その傾向が強いという
→都会と田舎の社会の違いもある

10.美とは何か
第百三十七段 心眼をもって花や月を見る
P234 雨に降りこめながら、…病で室内にこもり、春の進み具合もわからぬまま、今ごろの花はどんなだろうと恋うるのもよし、どちらも、目の当り月花を見るに劣らず、味わい深く、情趣がある。
P236 どんなことでもそうだが、盛りの時よりも、始めと終りにこそ物事は趣がある。
P238〜ものの情趣のわかる人は、好きなものだからといって一途にそれにばかり熱中することはなく、面白がる様子もほどほどなものだ。片田舎から出てきたばかりのような人こそ、…とにかく何事でも離れて静かに見ているということができない。
P242 総じて都の人は上も下も、そうむやみに何が何でも見ようとはしないのである。
P244 それぞれさまざまに飾りたてた物見車が次々と行き交うのを見ていれば、まことに面白くて、早朝から祭を待っている自分も、少しも退屈しない。…祭の行列を見るばかりが能ではない、大路のこういう光景を見るのこそ、本当に祭を見たというのだ。
P246 若いと言わず、強健と言わず、思いがけずやってくるのが死期である。今日までこうやって死を逃れてきたのは、思いもよらぬ幸運、不思議と言っていい。そのことを思えば、自分は当分死なないだろうなどと、のほほんと構えていていいわけないのである。…俗世を捨てて草庵に暮らす身だとて、前途に待つのは死しかないという事情は少しも変らない。

第二百十二段 秋の月

『徒然草』の美学
P250
兼好法師の美学を本居宣長が『玉勝間』四の巻でけちょんけちょんに非難攻撃した。
→室町時代の歌人正徹、江戸時代の国学者北村季吟の例をとり、「この美観を理解しないのは宣長さんだけなのだ。」と断言
P252
死に対する明確な自覚を持つことこそが美の根底なのだ。…この無常観あってこそその上に余情の美が成り立つことを、これは示している。兼好にあっては、「よき人」の生き方も、美も、趣味も、すべてがこの死に対する深い自覚の上に展開するものだった。

兼好美学の実践編
P253
・花は盛り、月は満月のみをよしとする世間一般の美観に対して、新しい美を押し立てたのだ。…ともかくこうはっきり一つの論として呈示したのは初めてだろう。
・理屈っぽい文章を補うように、…今度は現実に彼が見た生臭い田舎者のふるまいを書く。こっちはリアリズムである。…このなまぐさい現実の描写があることによって、これまで説いてきた論を、現実の側から補足しているのだ。

11.ありがたい話
第三十九段 法然上人のこと
・「目が醒めたとき、また念仏なさればよろしい」「往生は、できると思えば必ずできる。できるかな、できないかな、と疑っていたのではできません」「疑いながらでも念仏すれば、往生できる」

第六十段 盛親僧都のこと
・僧坊を百貫で人に売り、それと銭とをあわせて計三百貫、すなわち三万疋を芋頭を買う代金とし、…さすがの銭もやがてすっからかんになってしまった。
・世俗の約束事など全て軽く見る曲者で、何をするにも自由きままにふるまい、およそ人に合わせるとういことがない。…万事がそんなふうで、世間並みでなく変ったさまであったけれども、人にきらわれず、何をしても許された。徳が至極の所まで達していたためであろう。

第百二十四段 是法法師のこと
・学識は天下第一、浄土宗の僧として恥ずかしくない方であったが、学識を誇らず、学者ぶらず、あけくれただ念仏して心安らかに世を生きていられた。人みなああでありたいと思われたことであるよ。

第百四十四段 栂尾の明恵上人のこと
・「あし、あし」→「阿字々々」、「府生殿」→「阿字本不生」と感涙

第百九十二段 神仏に参る日
・祭日や縁日などで人の大勢やってこない日を選んで、それも人一人こない夜にお参りするのがよい

仏法界の偉大な人々
P271
兼好はよほどにこの盛親僧都の生き方が気に入り、かつ羨ましかったらしく、まるで憧れるように盛親なる僧都の行状を書いている。…それは兼好には出来ぬことだ…だからこそ盛親をほとんど讃嘆するが如くに描きだしたのだろうと思う。
P272
兼好自身は、有職故実や礼儀作法にくわしく、またそれを重んずる人であった。…その意味で盛親僧都はまさしく兼好の対極にあった人である。
P273
上人の世界は虚といえばすべて虚だが、それは仏法の荘厳に光り輝いている虚だ。それが「あし」を「阿字」と聞き、「府生」を「不生」としてしまう。尊いことである。が、仏法とはもしかするとすべてそういう虚かもしれぬという、醒めた目さえ、ここには感じられるようだ。
P274
「饉ゑず、寒からず、風雨に侵されずして、閑かに過すを楽しびとす」
→あまりに消極的でありすぎるようだが、わたしも年をとってこういう心境こそ実は一番なのだと思うようになった。


12.実践的教訓
第百二十七段 改めて悪しきもの
・改めても別によいことのないことは、改めないのをよしとしたものだ。

第五十五段 夏をむねとすべし
・家の造りようは、夏のことを第一と考えて造るべきだ。冬はどんな所でも住むことができる。しかし暑いころ住みにくい家というものは、どうにも我慢できぬものだ。
・家の造りは、ふだん用のない所を作ってあると、見た目にも面白く、またいろんな役に立っていいものだ

第百七十段 用もないのに人を訪ねるな
・用がすんだらさっさと帰るがいい。長居するのは大変によくない。
・主人として客と向いあっていれば、いろいろとしゃべらねばならず、からだもくたびれる、心も平静ではいられない。…といって、いやだという気持ちを様子にあらわすわけにもいかない。
・ただし相手の客が、主人と気が合う人で対座がむしろ好ましく、それに主人もちょうど退屈していて、…などと言うときは、むろんこの限りではない。

第百六十四段 世間の浮説、人の是非
・世間の人が逢って顔を合わせていると、しばらくのあいだでも黙っていることがない。かならずしゃべりまくっている。しかし話していることを聞くと、多くはまったく無益の話である。…お互いの心に、無益のことをしているという自覚は、まったくなくしているのだ。

第二百二十四段 植うることを努むべし
・有宗入道「こんな広い庭を使いもせず放っておくなんてとんでもない。してはならんことだ。物の道理を知る者なら、ともかく何か植えようと心がける。細い道一本残して、あとはみな畠にしてしまえ」
・言われてみればまさにそのとおりで、わずかの地でも使わずに放っておくのは、何にもならぬことだ。野菜なり薬草なり、何でも植えておく方がいいに決っている。

役に立つ話
P286
・『改めても別によいことのないことは、改めないのをよしとした』を、「なんだこの保守的な意見は」とバカにしていた。
・技術の進歩が社会に益をもたらすという信仰の方が今も続いているが、…科学の進歩には白眼を剥け続けている。
P289
・きわめて実践的な、役に立つ話も『徒然草』にはあるのだ。

以 上