日時;2023年10月24日(火) 18:00~19:30
アドバイザー:中谷常二先生
参加者14名(うちWeb参加3名)、懇親会のみ参加1名


課題図書
「すらすら読める徒然草」 吉田兼好、中野孝次著 講談社文庫 5~8章

概要 (〇 は中谷先生のファシリテーション)

第5章 名人
〇 皆さんもいろんな意味で名人だと思うので、名人語りを
・ 書家として。良い細工師は鈍い刀を使うか?それはどこまで自由自在に刀を操れるかということか。完全に自由自在に使えるのであれば、良く切れる刀の方が良いかもしれない。自分自身は気に入った筆は10,20本単位で買っておけと師匠に言われてそうしている。
・ モノづくりは素人だが、筆の話はなるほどと思った。たまに筆ペンで字を書いたりする。「無印良品」の筆ペンがとても書き良くて気に入っていたが製造中止になってしまって以前買いためたものを今でも使っている。
・ 弘法筆を選ばずと言われるが、実際には選びまくっていたという話もある。
・ 初心の人二つの矢を持つなかれ、というが写真に関しては銀塩カメラは一発勝負で必死だったが、今はデジタルで連写が可能。画素数も大きくフィルム感度も上げられるので、結果して以前よりはずっと良いシャッターチャンスで撮れる。人間の技術をテクノロジーが超えたと言えるかも。
・ 兼好法師は明翫が良い作品を作るのでどんな道具を使っているのか興味があったのかも。自分も少し庭いじりをするが、それなりの道具を使っているが、皇居の庭を手入れする庭師がどんな道具を使っているのか聞いてみたところ、どこのホームセンターにでも売っているような安物を使っていてびっくりした。
〇 面白いエピソード。物事を始める際、道具から選ぶべきなのか初心者のうちは汎用品から始めるべきなのか、いろいろな考え方がある。
・ 140ページの冒頭で、モノが見えすぎる目をいかに御したらよいか、という一説。サッカーの名手が集中してみると周囲の選手10名の動きが見えるといいう。しかし、10人見えてしまうと却ってよくなく、8人くらい見えている程度が一番自分の動きが分かるという話を聞いた。裁判でも情報が多すぎると議論の組み立てがかえって難しくなったりする。
〇 私の名人論、だれでもどうぞ。
・ 木彫りや陶芸をやっている人の話だが、道具は人の手の動きに合わせて使いやすく作られているので、道具の持っている機能からすると一部分しか使っていない。鈍い刀を使うのが良いというのは、職人はその使われていない部分を使うからかもしれないと思った。
・ とても面白いと思った。刀の話はモノに頼るな、という意味と、使えるもの以外使うなといいう二つの側面がある。良いものを持っているという思いが過信につながって、本来のパフォーマンスが出せないという意味と、また鋭いモノを使っていると思うことで余計なメモリを使ってしまって、そのために100%のパフォーマンスが出せないことから、自分が扱える範囲の道具を使うからこそ名人ならではのパフォーマンスが出せるということかと思って腑に落ちた。
また二本の矢を持つべからずという話も油断するな、二本目の矢があると思うな、という教訓に共感できた。
〇 トランペット、ギター、ピアノをやっているがすべて中古を使っている。高級品はかえってクセがある。
〇 徒然草の名人論は自然体の名人論。最近の雑誌に出てくる名人は良いモノを持ってきちんとして、みたいなことが多いと感じるが、ここに描かれている名人はそうではない。

第6章 シンプルライフ
〇 非常に入りやすい話。
・ 味噌を肴に、は共感する。今では逆に贅沢かもしれないが親近感を感じた。
・ ゼロに戻る訓練をせよ、というのは学生時代バックパッカーでインドを貧乏旅行をしたとき、生きるのに必死だったことを思いだす。帰った時は身体まで軽くなった気がした。大人になるとやらない理由を探してしまう。
断食をすると自分が変わるというが、そういう感じに近いのだろうか。
・ 贅沢も知らないとゼロの状態にはなれないのかも。
・ 山登りして、辛く不自由な状態から解放されると普通の旅館でもすごく贅沢に感じる。
・ ミニマリストの友人がいるがバンで生活して、電気も太陽光パネルのみ。3畳ほどのバンに何を残すかをすごく考えたらしい。一番大きな捨てたものは電話回線だったという。インターネットだけは必要な時につなげるようにしている。
・ 本当のミニマリストならパソコンとインターネットも捨てなければ、と思う。
・ この人は自分がミニマリストとしての生活を発信するための利用だけで、情報収集には使っていない。
・ 筆者は普段の生活のありがたさを知る、というよりは無くても良い、ということを知るためにゼロに戻ってみよと言っていると読んだ。
・ だだ生きているだけで良いのであれば何もなくても良いだろうが、目的をもって生きるためにはゼロというわけにはいかないのではないか。良いモノを持ちたい、美味しいものを食べたいから働くというのが人間ではないか。ただ生きているだけ、という人生が楽しいのか疑問。
・ たまにミニマリスト的な人がいるのは良いが、社会全体がそうなると経済・社会が縮小してしまってシンポもなくなるのではないかと感じた。
・ ラマダンにはどういう意味があるのだろう。
・ 一定時間の断食が健康上良い影響があるということを昔の人も知っていたのではないか。
・ シンプルライフはずっと質素な生活をしている人からは出てこない発想ではないか。贅沢を知っているからこそたまにシンプルライフを求めるのでは。
〇 世代によるのでは。若い世代のシンプルライフ感と、一定年齢を過ぎて人生をまとめていく時期の人のシンプルライフ感は違うのでは。
・ 貧乏しか知らない人が、塩を舐めて酒を飲むことに風流を見出すということにはならないだろう。

第7章 一事に専念せよ
・ 陶芸の話。上手になるまでは黙っていようという気持ちもあったが、個展をやってみて周囲に言って見てもらい、批判や意見をいただく方が早道ではないかと今は思っている。
・ 50歳までやってモノにならなかったらあきらめよ、人生50年の時代の話で、現代ならリタイアしてからも新しいことができるのではないかと思った。
・ 書道の展覧会で、いきなり日展はむりでも市民展などへの出品を勧めることがあるが、まだまだと遠慮する人も多い。れんしゅうだけでなく、実際に出品するところまで作品を仕上げるということで一歩上手になるのではないか。テニスでも練習だけではなく、試合に出ることで上達すると思う。
・ ギターの練習をしている。年3回発表会があるが、その時になると上手く弾けない。練習とは全く違う。それでも得るところがあると思う。
・ 音楽などは発表のその一瞬しかないので、集中のしかたが違うように思う。
・ 合唱でもサッカーでもそうだが、人と一緒にやならいと全く上達しない。体の使い方、声の出し方など一緒にやって初めてわかる。山歩きは普通ひとりでするが、師匠と一緒に登ると息の使い方など習うことができ上達することができると思う。
・ 写真でも上手な人の写真を見に行く。行くと差がはっきり分かる。たまには本物を見に行かなければ。SNSは玉石混交で
・ 日本語を教える勉強をしている。子供に教える時は今のレベル+1を教えることが大切といわれる。
〇 古典を読む、1000年以上前でも変わらない。自分の知らない時代の人を友とするということだが、古典を読むことについてどうか。
・ まず驚くのは徒然草自体我々からすると古典なのに、そこで古典について語られている。ギリシャ哲学の時代から人類は変わっていたいことに改めて驚きを感じる。
・ 古典とはどういうものをいうのか、長く残っているものということで良いのか。
・ 昔から読まれているものの方がクリティカルな真理が書かれているように最近は思う。
・ 絵本や児童文学でもロングセラーは古典と言ってよいように思う。
・ 以前は誰もが読んでいる本なんていけてない、と思っていたが、今は多くの人に読まれて残っている本の方が良いと思えるようになった。
〇 古典は食べ物に例えると堅い食べ物。嚙む力を養わなくてはならない、というところ、最近の若い人はSNSの短い文章しか読まなくなっているというがどうか。
・ 早く答えを知りたい、ということがある。端的に答えが書かれているものを読んで、すぐにアウトプットしたいという欲求が強いのかも。
・ できれば早めに結果を知りたい。
・ インターネットでなんでもすぐわかる。地図でも昔はページをめくって苦労して見たものだが、今はスマホですぐ表示される。SNSも文章から動画になってきている。
・ 今の若い人は徒然草を高校時代に習ったか?
・ 習ったがまったく覚えていない。
・ BASICやCOBOLを今見ることは?
・ 機会言語で書くコードで、今のプログラミング言語とは違う。ある意味古典かもしれない。そのうえChatGPTがコードまで書いてくれる時代になると、コードの意味も知らないでプログラミング画できてしまう。
・ 徒然草を囲んでこれだけの議論ができたということから改めて古典のすばらしさを見直した。


第8章 心のふしぎ
・ 狂人の真似、というのは現代だと迷惑系ユーチューバーみたいなのかなと思う。目立とうと思っておかしなことをしたら本当におかしな人になっている。
・ 本人は冷静にやっているつもりかもしれないが、客観的に異常になっている。
・ 親孝行の真似といって親を負うて歩けばすなわち孝行者なりという文章がどこかにあった(※)。徒然草ではなかったと思うが、同じことを書いているのが面白い。
〇 良いことは真似ていくことで外に現れたことに中身が付いてくる。仏前に座ると数珠を取るというのもそうか。
・ 真似事でも良いことをしてみようというように思うようになってきた。
・ 虚言について、SNSでもこれは絶対見栄を張っているだろうなと思うものがあり、それと同じかと思う。
・ 自分をよく見せようとする、写真を盛るというのも同じか。
〇 インターネット上のことは実は架空のもの。古典ではまず体から入る、ということをよく読んできたが、インターネット上だけ盛るのは地に足が付かないのではと少し危うい気がする。
・ SNSなどは匿名で書ける場所で、だから言えるようなことも多く、荒れることがある。自分はあまりそういうのは好きではないのでそういう場所からは離れて自分の時間を使う方が良いかな、と思う。
・ 新しいアプリを入れてもノイズが入ってきたらアプリごと削除するようなことをやっている。
SNS、インターネットはスピードはあるがそれだけ噂などが拡散しやすい。関東大震災の時でさえ朝鮮人に関する噂が拡散したことがあったくらい人は噂話が好きなので、これがSNSに乗ると怒涛のように広がる。
・ 兼好法師には仏の教えに寄り添ってほしいという意識があるので、その方向に導こうとしているのが分かるだけにさほど目新しさは感じなかった。シンプルライフも、ずっとぜいたくな生活をしていると飽きてしまうので、飽きないためのやり方なのではないか。
〇 修行のためにシンプルな生活だけしている人には分からないかもしれない。
徒然草は序章だけは読んだ覚えがあったが、改めて読んでみると記憶がよみがえるところもある。
また、なるほど、昔から変わらないことはあるのだな、と感じた。

(文責 北村)


※    落栗物語(文政時代 藤原家孝の随筆)
 水戸中納言殿、狩りにいでたまひしに、ある男、年老いたる女を負ひて、道のあたりに休みをりたるを、「いかなる者ぞ」と問はせたまひければ、知れる者ありて、「彼は人に知られたる孝行の者にて、母を負ひて御狩りの様を拝し候ふなり」と言ふ。中納言殿、おほきに感じたまひ、米銭なむあまたたまはりける。そののち、また、ある所にて、同じ様なる者に行き会ひて問はせたまへば、母を負ひて、もの(ある所)へ行く由(よし)を申す。従者これを怪しがりて、彼は先のこと聞き、それに似せて物たまふらむとするかと、ささやきければ、かの殿うち笑ひて、「孝行をまねるは、孝子のたぐひなり。良きことのまねするやつかな」とて、先の度にかはらず、米銭をたまはりけり。